共同体幻想と2ちゃんねる(ノン-スマートモブズ)

共同体幻想と2ちゃんねる(ノン-スマートモブズ)



共同体幻想

現在、実社会生活にとって、2ちゃんねるはまだまだマイナーな現象であるという印象がある。そこにあるのはネットワーク社会とは、実社会生活をドラスティックに変えていくだろうという考えに対して、2ちゃんねるはまだなにも変えていないというわけだ。さらに読み込めば、ネットワーク社会にはマクルーハンのグローバルビレッジ的共同体幻想がつきまとう。これは明るい未来予測、暗い未来予測ともにみられる。たとえばそれはコミュニズムの再来であったり、情報管理社会であったり、マトリクスであったり、エヴァンゲリオンであったりするが、このような幻想はわれわれの中にかなり根深いように思う。

たとえば「スマートモブズ」という考えがある。ハワード・ラインゴールド著「スマートモブズ」によるものであり、「スマートモブ」とは、「モバイル+パーベイシブ環境、ウェアラブルコンピューティング技術、集合的コンピューティング技術に支えられ、時には評判システムを頼りに、直接知らない人々とも互いに協力して行動する人々」である。ここには(スマートモブズを読む http://www.glocom.ac.jp/top/publication.j.html)様々な考察が試みられている。



個体性と集団性

共同体とは、個体性と集団性の問題である。たとえばアリの集団性は先天的=遺伝情報を元にしている。このような共同体において、アリ単体を個体性として見ることが一般的であるが、アリの集団を一つの個体性と見ることもできる。このような集団に見られる秩序=個体性が共同体といわれる。個体性をシステムとして見た場合に、個体性の境界は、単体にのみ適用するものではないだろう。それは人の認識上の概念が関わっているのではないだろうか。それは人が、自己という単体の個体性が強い生物であるために、その他生物や存在に擬人化しやすい形態として個体性を見いだすためである。すなわち人の生理的「イデア的同一性指向」の一つである。

私は、自己とは記憶としての心象構造がコミュニケーション場において絶えず書き換えられていくシステムであり、そして記憶は①先天的記憶、②後天的文化記憶、③後天的個体記憶でできている、と考えた。(コミュニケーション自己構築論 id:pikarrr:20040307#p1)

たとえばこのようなアリの共同体性は①先天的記憶に多くをおっている。そして人の共同体性は、①先天的記憶と②後天的文化記憶により支えられている。さらにネットワーク社会の共同体幻想を支えているのが、②後天的文化記憶が地球規模のデーターベースとして、すなわち地球規模の共同体記憶がつくられるていくとという期待によるものではないだろうか。「スマートモブズ」などに見られる社会的共有性は、「モバイル+パーベイシブ環境」が自己の個体性を弱めて、集団としての個体性を深めるだろうということである。

しかし人ももともと集団性=社会性のある生物である。そして人が社会生活を営めるのは人もまた①先天的記憶に多くをおっているからである。たとえばそれは人に最も近い猿の集団行動をみればわかる。このような意味で実社会はすでに共同体である。スマートモブズに見られる「創発性」(個々の主体は単純なルールに従って行動するのに、全体としては複雑な秩序や知性になるという状態)や「協力」に近いものはすでに実社会に見られる現象である。「スマートモブズ」本に示されているようなスマートモブズ的な事例(たとえばマニラの大統領の汚職を糾弾し追放した「ピープル・パワー」が携帯電話でデモを組織した)におけるネットワークによる効果をどのように評価するか難しいところがあるように思う。すなわち人の集団性をネットワーク技術が増幅するかというになるだろう。



記号組織化と脱構築装置

私は、記号表現に対する記号意味が自己組織化的に成長する構造を記号組織化と呼んだ。(エクリチュールの時代 その4 加速する記号組織化 id:pikarrr:20040325)これは②後天的文化記憶が大衆に中で「創発性」をもつ現象と考えられる。このような文化的な集団性はポストモダン社会において加速されている。たとえばブランド品の価値は、虚像的に大衆価値として高められている。

しかし2ちゃんねるにおいてみられるのは、むしろ②後天的文化記憶の共同体的「創発性」を解体する方向性、脱構築装置としての機能である。私はそれを2ちゃんねるのパロリチュールにおけるパロール性として示した。すなわちパロール場において価値はアイテム化し、「創発性」という秩序とは逆の解体へ向かうのである。たとえば、最近イラク人質問題で、2ちゃんねるは「自作自演」説などを語り、人質バッシングへ向かったという悪い意味での「創発性」がマスメディアで流れているが、「自作自演」説を否定するような意見も多くあったことは語られない。「自作自演」説は2ちゃんねるの多様な発言の一面であることを隠蔽し、いつものごとく、マスメディアが反社会的集団としての2ちゃんねるを演出している。これは私が示す「2ちゃんねるとその周辺」という構図であり、むしろこの場合に「創発性」は、解体装置としての2ちゃんねるの周辺、それはマスメディアであったり、パーソナルなHPを基点におこっているのである。

2ちゃんねるパロール性、野蛮さはネットワーク上の共有記憶であるデーターベースを便利に共有はするが、そこから選択し価値をアイテムとしてもてあそぶのである。現に「ネット思想」は、ハッカーにしろ、ギークにしろ、2ちゃねらーにしても、他者といかに違うかを証明することに価値がおかれているのである。それはデーターベースが共有化していく故に、他者との差別化に価値が持たれるのだといえる。すなわちネットコミュニケーションでは、逆に主体の個体性を強めているのである。それは近代的な自律的で理性的な主体とは違い、他者との差異化した価値を持つ主体である。

ポストモダン社会における記号組織化の加速は、大衆価値という共有性を作りだしてはいるが、また「孤独な群衆」を作りだした。それは記号を介してしか価値を共有できないという現前の他者の喪失である。ネットワーク社会における共同体幻想は、このような「孤独な群衆」の反動であると考えるのは読み込みすぎだろうか。またそれでもネットワークが、実社会と深く交わっていく中で、社会的な秩序はどのように変化いくのかという問題は残るのだが。