アウラな世界 その6 正義論2 デリダとルーマンの正義論

アウラな世界 その6 正義論2 デリダルーマンの正義論


わたしたちは偶有的状況から単独性をみいだとそうとしています。そしてこのとき神によって承認されたという形をとります。運命、奇跡、ついてる、祈る、信じるなどのように小さな神が捏造され、対象に小さなアウラが見いだされます。それは正当性であり、正義の捏造でもあり、そこにはたえず狂気がひそんでいます。それは自己を獲得するということであり、人が生きるということです。では、われわれはどのように社会秩序を保てばいいのでしょうか?正義とはなんでしょうか?

それについて、デリタとルーマン脱構築とオートポイエティック・システム理論)による正義概念を比較検討した馬場氏の論文を元に検討したいと思います。

正義の門前:法のオートポイエーシス脱構築 馬場靖雄 [論 文:1996]http://www.thought.ne.jp/luhmann/baba/



デリダ脱構築

「無媒介に、直接的な仕方で正義について語ることはできない。正義を主題化したり、客体化することはできないのである。『これが正義である』と、ましてや『私が正義である』などとは言えない。そう言うとき、すでに正義を、ひいては法を、裏切っていることになるのである」(Derrida[1991:21 ])。

デリダも正義をネガティブにとらえます。そしてこのような問題は脱構築によって乗り換えられるのではないということです。

東浩紀の「郵便的、存在論的」によると、デリダ脱構築には「ゲーデル脱構築」と「(後期)デリダ脱構築」の二つの面があります。その一つである「ゲーデル脱構築」は一種の「否定神学」に行き着かざるをえないだろうということです。そして東による否定神学の例として、ラカンにおける主体の「無」の概念、あるいはジジェクによる主体の空虚とそれを埋める「不可能なもの」(現実界ないし対象a)があげられます。

ラカン派におけるにおける主体の概念(/S)。「ラカンにおいては主体は『無』であり、逆説的に『無』であることによってのみ、主体は主体であり得る……」([ibid.:90]) この無としての主体こそが、あらゆる現象の「根底」にある、というわけだ。かくして、ラカンの議論を社会・文化分析に応用したジジェクの議論においては、ヘーゲルフロイトソシュールもポーもヒッチコックスピルバーグも、すべて主体の空虚とそれを埋める「不可能なもの」(現実界ないし対象a)について語っていた、ということになる。「ラカン精神分析によって、このような複数性自体が、同じ不可能で・リアルな核に対する多様な反応であることが明らかになったのである」(Zizek [1989:4])、と。

ジジェクによって解釈された)クリプキの固有名論。固有名は確定記述の束(体系)によっては置き換えられえず、原初の名指しの伝達が必要である。ジジェクはこの議論をさらに徹底化する。名指しは現実に存在するものではなく、むしろ固有名の自己同一性が孕んでいる空虚が「外」へと投射されたものに他ならないのだ、と。

そしてこのような「否定神学」は、「(後期)デリダ脱構築」によって、脱構築されるだろうということです。

ジジェクの・・・あらゆる自己同一物には内的な空虚と決定不能性が孕まれている というこの種の議論は、ある種の倒錯であると言わねばならない。それは、いたるところで錯綜し、断絶する無数の伝達経路を、透明な全体性(自己同一性)へと縮減することから生じてくる、錯覚にすぎない。「かつてどこかで『アリストテレス』が名指された。しかしその起源にはもはや遡行できない。……名『アリストテレス』は常に幽霊・・・に憑かれている。幽霊は、可能性と多数性(反復)の移送にあり、ネットワークの必然的な不完全性において現れるのだ。幽霊は、デッド・ストックの空間に居すわり、私たちをつねに脅かし続けることになろう」(東[1995.:97f.])。この不完全な錯綜したネットワークより成る空間を露出させようと試みるのが、「(後期)デリダ脱構築」である。」

ルーマンの正義論

馬場はこのような脱構築を、ルーマンのシステム論の中にも見いだします。

近年のルーマンの理論展開のなかでは、オートポイエーシス(・レベルにおける作動)/観察という区別がひときわ重要なものとなっている・・・社会システムにおいてはコミュニケーションが作動に相当する。コミュニケーションは常に個人の意図や予想範囲を超えて、無限に錯綜したネットワークを形成する。そのようなネットワークそれ自体を同定することは不可能である。それゆえに、何らかの区別(二分図式)を導入することによって対象を同定しなければならない。システムが同様の手続きによって自身を観察しつつ、自己のアイデンティティを確定しようとするのが「自己観察」である。ただしそうやって同定された対象は、常に何らかのかたちで単純化(「複雑性の縮減」)を被っており、それゆえに「空虚」と「過剰」を孕んでいる。

そしてここにおいて「ゲーデル脱構築」的は、以下のように行われます。

オートポイエーシスこそが社会を成立せしめる複雑多様な「基盤」であり、観察はあくまでそれを縮減したものにすぎない、ということになる。われわれは常に、観察によって得られる単純な同一性がもつ自己完結性の外観を打破して、複雑で捉えがたいオートポイエーシスへと立ち戻るべきである、と。この議論は「ゲーデル脱構築」に、あるいはコーネル流の(広い意味での)「否定神学」に対応する。オートポイエーシス(=縮減される以前の無規定な複雑性)を、自己観察=同一性を脱構築する根拠としての、純粋な空無として想定していることになるからだ。法システムにおいてはそれが、偶発性定式たる正義のシンボルとして登場してくるのである、と。

これに対して、「(後期)デリダ脱構築」的は以下のようになります。

第二の解釈はこうである。・・・オートポイエーシスとは、最初に「在る」基盤のごときものではなく、むしろ異質な観察が相互に衝突する(共通の枠組みなしに、相互に観察しあう)ことによって「事後的に」成立するものなのである。「…… 区別と観察の可能性が複数存在しているがゆえに、われわれは作動と観察とを概念上区別しなければならなくなる」(ibid.[1993:51])。複数の観察を前提とせずに、作動=オートポイエーシス・レベルそのものについて語ることはできないのである。

オートポイエティック・システム理論の課題は、観察(セカンド・オーダーの観察、観察の観察)によって、自己観察の空虚と過剰を、あるいはその背後にある多義性を暴くことにあるのではない。システム理論に基づくものであれそうでないものであれ、あらゆる観察自体が、散種的多様性を構成する現実的なモメントなのである。観察を脱構築するには及ばない。観察自体が脱構築なのである。精確に言えば、観察を観察すること、すなわち観察に別の観察をぶつけることが、である。・・・すなわちある観察において用いられている区別そのものを(区別の一方の項−−例えば、不法ではなく合法−−のみを、ではなく)受け入れるか拒絶するか、受け入れるとしたらどのような前提のもとでのことなのかを選択する作動を、ルーマンは・・・「超言的」(transjunktional)作動と呼んでいる。「言語を用いる観察者を観察することは、確かに脱構築的である。というのは、このレベルにおいては、超言的な作動を投入しうるからだ。つまり、観察されている観察者の観察を制御している区別を、拒絶したり受け入れたりできるのである。かくして、セカンド・オーダーの観察のレベルでは、すべてのものが(セカンド・オーダーの観察そのものを含めて)偶発的になるのである」(Luhmann[1995a:18])。

すなわち正義は、様々な意見が衝突する(共通の枠組みなしに、相互に観察しあう)ことによって「事後的に」成立するものである。正義そのものは語ることはできないとも、たえず議論を交わし、拒絶し受け入れることにより、正義へ見いだされつづけるだろうということでしょう。

しかしこのような正義論自体には、実効性がみいいだせるのでしょうか。「ゲーデル脱構築」と「(後期)デリダ脱構築」の本質的な関係性はなんでしょうか。ということを私なりに考えてみたいと思います。(つづく)