アウラな世界 その7 正義論3 ラカン+デリダ≒アウラ論?

アウラな世界 その7 正義論3 ラカンデリダアウラ論?


アウラ論≒ラカン

対象aは他人の中に埋め込まれ、私にとって非人間的で疎遠で、鏡に映りそうで映らず、それでいて確実に私の一部で、私が私を人間だと規定するに際して、私が根拠としてそこにしがみついているようなもの。」(新宮一成 「ラカン精神分析」)

ジジェクによると「主体は象徴界に開いた穴を埋めるためにつねに「対象a」を必要として、社会的には、スターリニズムおけるスターリニズムのような崇拝対象、フェティッシュとしての貨幣、あるいはコカコーラなどの呪術的商品がその「対象a」として機能している。」(東浩紀 「存在論的、郵便的」)

私がいう「小さなアウラ」とラカン的な対象aは対応する概念です。「小さなアウラ」とは主体がコミュニティ内の誰でもよい位置(偶有性)から、私でなければならない位置(単独性)を見いだすという「偶有性から単独性への転倒」を正当化するために、神性が捏造される対象のことをいいます。ここではコミュニティも捏造されます。それは主体がそのようなコミュニティがあるだろうという意識に基づく、記号コミュニティです。

これをラカンに対応されると、小さなアウラ対象a、私でなければならないコミュニティ位置(単独性)=原初にあったとされる想定される限りでの「主体S」、単独性の根拠として捏造される神性=「大文字の他者」ということになります。

しかしラカンが根元とする「主体の空虚」あるいは、「それを埋める「不可能なもの」(現実界ないし対象a)」という無、不可能であるのに対して、私がしめす「アウラ論」は生理現象に還元され、量的なものとなります。それはラカンジジェク的ではなく、デリダルーマン的だからです。以下に馬場の論文でも参照されているクリプキの固有名論をもとに示します。



クリプキの固有名論

東の「存在論的、郵便的」を参照します。「クリプキは固有名に関するフレーゲラッセルの記述理論を批判します。

フレーゲラッセルの記述理論
固有名を縮約された確定記述の束と考える。名「アリストテレス」が名指しできるのは、その名が「プラトンの弟子」、「自然学の著者」「アレクサンダー大王の師」云々といった諸性質での集合の、いわば短縮形としてあるからと考える。
クリプキ
フレーゲラッセルの記述理論を否定する。たとえば「アリストテレスは実はアレクサンダー大王を教えてなかった」という新事実が判明すると、自己矛盾を起こす可能性があり、確定記述の束に還元できない。「アリストテレス」という名には、いかなる言語的定義によっても汲み尽くせない「力」が宿っている。その「力」の源は最初の「命名行為」により確定記述を越えた単独性そのものを名指しし、「固定指示子」として宿る。そして言語共同体を通じて伝承される。「固定指示子」は言語外的な出来事の記憶としか捉えられない。
ジジェク
クリプキは「現実界」と「現実」の区別を見落としている。単独性の根拠を現実の中に探すのではなく、世界が実体的にあるわけではない「現実界」(象徴界の穴)に求めなければならない。象徴界(認識され記号かされた世界)を構成するシニフィアン(言語記述)の循環運動は不完全であり、結果としてシニフィエ(言語意味)なきシニフィアン(言語記述)が存在する。それが「現実界」に対応するシニフィアン(記号記述)(対象a)であり、固有名はその特権的シニフィアン(言語記述)として機能するが故に確定記述の束に還元できない。
デリダ
クリプキの「固定指示子」、ジジェク対象aは、理論的に確保できない否定神学である。「現実界」、「対象a」はシニフィエ(言語意味)なきシニフィアン(言語記述)を単数化し、特権的な「超越論的シニフィアン」としている。名「アリストテレス」は齟齬を含み様々な経路を通って配達される。確定記述の間で矛盾が生じたり、一部が行方不明になったりする。「アリストテレス」はつねに訂正可能性が取り付く。そして「幽霊」(配達過程で行方不明になった諸処の「アリストテレス」に取り付かれている。そして人はその経路を抹消して主体の前にある固有名から思考するときにこそ、固有名の単独性を見いだす。

これは「散種の多義性化」を示しています。散種とはコンテクストから断絶力をもつ原エクリチュールが様々なコンテクストで引用されることによる無数の意味を持つことです。そして多義性はそのような散種をもとに一義的な意味が多数作られることです。本来、意味は散種→多義性という時間系列で作られます。しかしラッセルの記述理論では、それが転倒(多義性→散種)されて理解されています。確定記述の束とは多義性の束であり、ここでは転倒により、多義性に到達しなかった散種が多く排除されているのです。クリプキが言った「確定記述の束に還元できない意味」とは、このような排除された意味を示しています。そしてクリプキジジェクは、「散種の多義性化」がされたまま理解し、排除された意味を、わからないまま否定神学的に「固定指示子」、「対象a」と名付けたということです。



デリダ脱構築アウラ

デリダの示すのは、コミュニケーションの伝達の問題、すなわちコミュニティの問題ではないでしょうか。そして意味が作成される散種→多義性は、コミュニティ内に発生する無限の意味=散種から、コミュニティ内で共有され価値化=多義性がつくられることを示しており、これは私がいうところの「偶有性から単独性の転倒」に相当します。そして私がそのときに捏造される「小さなアウラ」は、「固定指示子」、「対象a」のような否定神学的なもの言うことができます。

すなわち私が「偶有性から単独性の転倒」というときには、それはデリダが言うところの散種→多義性という意味生成工程に相当します。すなわち私が示すアウラ論は、「デリダ脱構築」を構造化したものであり、「小さなアウラ」は、意図的に作り出した形而上学否定神学です。

ここでは、このようなデリダ的「散種→多義性」=「偶有性から単独性の転倒」は固有名に展開されました。私はこれをアウラ論として、「私」の意味生成に使っているわけですが、これは言語記号一般的なコミュニティの意味生成システムではないでしょうか。たとえば「椅子」というシニフィアン(記号記述)も同様な構造でコミュニティの価値=意味を持ちます。

そしてそれを私は、ベンヤミンの「アウラ」に展開しました。アウラはコミュニティ内で共有され価値=多義性であり、形而上学におけるイデア的同一性です。そこに真正性、礼拝価値が見いだされるのは、鑑賞者がそこに「偶有性から単独性の転倒」において「大文字の他者」を捏造することができるような伝統というコンテクストがあることを示しています。すなわちアウラ論は、アウラという否定神学脱構築することにより、コンテクストとの関係性を暴露しています。そして私が「小さなアウラ」という否定神学を、意図的に作りだしのです。そしてコンテクストとの関係とつかって、否定神学という単一性から量化されるものとしてしめしました。このような意図的に否定神学的を作る必要性を、脱構築の正義論との関係性でつぎに示します。