アウラな世界

その1 偶有性と単独性
その2 「上から二冊目の本」
その3 小さなアウラの消費
その4 神の発明



その1 偶有性と単独性


有機構成


生命とはなにか?生物学において生命を示す概念として有機構成」があります。有機構成とは「物質的要素が複合体をなすさい、要素の特定の配置が維持されているような、同一性を保つ構成化の水準」*1を示します。これは要素が配置をなし、その配置が維持されることにより機能が保もたれることを表しています。

たとえば機械製品は、要素が配置をなし機能を保っていますが、一部が破壊された場合には配置が再生され、機能を保つことはありません。しかし生命は、自己再生し、機能を維持しようとします。この場合、要素は細胞であり、有機構成が生命です。しかし有機構成の概念は、要素を生命とし、コミュニティを有機構成として考えることができる。ここに細胞と生命とコミュニティという階層構造を見いだすことができます。



偶有性と単独性

人においても同様なことが言えます。細胞を要素として人は機能を維持しています。これは生理システムです。生理システムとしての私には強い単独性を見いだすことができます。それは私の内的な力として、私を私として維持しようとすることです。このような延長線上に「私は私である」という自己は見いだされると考えられます。自己とは生理的な人内部の力ということになります。

しかし「私は私である」という内的な力があるとして、人を要素としたコミュニティの場合には、人は偶有的な存在でしかありません。人の生理システムは限りなく同じであり、もしコミュニティの一部が破壊された場合、それは要素としての人が欠落した場合に、コミュニティは再生される、すなわち要素としての人は代替されるからです。

人は、偶有的なコミュニティの配置において、単独性を見いだすことになります。私の意味は、私の代わりはいくらでもいるわけではなく、コミュニティにおける私の配置は私でしかあり得ないという単独性に見いだされる必要があります。ここでは私の意味とは、コミュニティにとっての私の意味、または他者にとっての私の意味が重要となります。人は、このような単独性と偶有性のパラドキシカルな状況において、そのバランスをとり生きています。


その2 「上から二冊目の本」


「上から二冊目の本」


たとえばなぜ本を買うとき上から二冊目を買うのでしょうか。上から一冊目の本は多くの人の開かれているために、破れていたり、汚れていたりして、本の本来の価値、ソフトを読むということに支障をきたす確率がたかくなる。だから人はより高い安全性をもとめ、上から二冊目を買う。このような推測は成り立ちますし、実際にそうかもしれません。でも現実に、それほど品質がそこなわれた経験がそんなにあるでしょうか。これは本に限らず、「上から二冊目の本」という行為はみんなが儀礼的に行っていますが、これだけで説明するのは困難ではないでしょうか。

それよりも単にわれわれは「新しいもの」、「だれも開いていないもの」を好むと考えた方がよいのではないでしょうか。それは本の中身というソフトは同じでも、一冊目にくらべて二冊目は、だれかに開かれていないだろうという期待があり、人に開かれることによって、価値が減算していくという価値観が存在するのではないでしょうか。だれも開いていないという唯一性が最高の価値です。そしてこの唯一なものを所有しているのは、私、唯ひとりであるということが、私の単独性への欲求を満足させているのです。上から三冊目、四冊目の方が、だれにも開かれていない確率が増すかもしれませんが、大量に複写されている本には二冊目程度を抜き取る程度までの価値しかないということでしょうか。

たとえば骨董品やヴィンテージものの価値も同様に唯一性です。かつて大量に作られたとしても、現在において多くは消失され、それは世の中にわずかしかないということに価値が持たれます。ここでは世の中で他にないという唯一性が価値をもち、また人々がそれを欲しがっている事実によって、さらに唯一性は高められます。この唯一なものを所有しているのは、私、唯ひとりであるということが、私の単独性への欲求を満足させるのです。

たとえば有名人をみて「オーラ」を感じるとは、その有名人が多くの人に好まれる存在であるという単独性を、あなたが見いだすからです。あなたは、みんなに有名人をみたことを自慢するでしょう。コミュニティで高い単独性の人をみたことを、みんなにうらやましがられることにより、コミュニティ内であなたの単独性は高められるのです。



減算する処女と加算する童貞

たとえば、異性間の恋愛においても、コミュニティ内で多くの人に好かれる異性に惹かれる傾向があります。多くの人に好かれることによりその人の単独性は高められます。そしてそのような異性とつき合うことは、自己の単独性を満足させます。しかしSEX的なものについてはこれとは違う価値が働いています。多くの人に引かれる人は高い価値をもつが、特に女性の場合に多くの人とSEXする人は価値が低くみられます。たとえば売春婦が軽蔑されるのは、それは一番上の本のようにみんなに「開かれた」ことにより単独性が低下していると考えられます。

この違いは、他者に惹かれることは加算的に価値が積み上がるのに対して、SEXすることは、減算的に汚れていく、価値がさがっていくという考えがあります。男性に多い処女信仰は、女性のSEXは価値が減算されていくものということから来ています。だれともSEXしていないという唯一性が最高の価値です。逆に女性が男性の童貞を好まない傾向は、男性のSEXは女性の場合と異なり、価値が加算されていくことを表しています。

加算は、主体性です。偶有的な存在が経験によって、その人の個性として単独性を高めます。主体の経験が自己価値を高めていくのです。しかし減算は客体性で、所有されるものです。客体は主体によって選択されることを前提にしています。偶有的な存在が主体の選択によって、その人の個性として単独性を獲得します。女性は選択されやすいようにSEXをしないことが求められるのです。これは男尊女卑的な社会コミュニティの価値観であり、現在において変化してきていますが。



虚像価値

たとえば、母の形見の価値は自己の思い入れです。このように他者にはわからない個人的な思い出の品、あるいは思い出という無形物の価値があります。これらは、コミュニティへ共有されない個人に強く根ざした価値です。しかし母は唯一の存在である、死は唯一のものであるという価値はコミュニティに共有されているものです。その人の母の形見はその人にとって唯一のものであっても、「母の形見」、「死」の価値自体はコミュニティに内在する価値です。

記号コミュニティは人がそのような記号コミュニティが存在し、そのような記号コミュニティに帰属している人の意識によって支えられています。「上から二冊目の本」の価値、骨董品の価値、有名人の価値、母の形見など、価値は記号コミュニティの価値であり、そのような価値が存在するという虚像的な価値です。人はそのような虚像的な記号コミュニティの中に単独性を見出だすことにより、自己の価値を求めるのです。そして思い出であれ、処女信仰であれ、偶有性から単独性への転倒がおこるとき、そこに神が介在されます。



アウラという単独性

ベンヤミンはオリジナルの芸術作品が一回性、唯一性を感じさせる人工物であり、「礼拝価値」としてアウラと名付けました。そして近代以降の複製技術の発達は、アウラを消滅させたと論じました。

かつてオリジナルの芸術作品の唯一性は、高い価値をもち、神聖化されました。これは、その芸術作品にアウラを感じる人が、その作品を通して、記号コミュニティの虚像的な価値を過剰に読み込むということです。そして人はそのような読み込みによって自己の単独性を求めようとするなら、現代という複写技術の時代においても、シミュラークルの中にアウラを見いだそうとしているのと考えられるのではないでしょうか。たとえばある映画は大量に複写され、ビデオとして世界中にばらまかれて、オリジナルという概念が失われても、人々はその作品との出会いに、「運命」を感じれば、そこにはアウラがあるのではないでしょうか。


その3 小さなアウラの消費


生命とコミュニティ


生命は個体としての単独性を維持する傾向があり、生命コミュニティはコミュニティとして単独性を維持しようとする傾向があります。このコミュニティとして単独性を見いだそうとする傾向とは、個体がコミュニティの一部、すなわち偶有的な存在なることを示しています。故に、生命には個体としての単独性を維持する傾向とコミュニティの偶有的存在と維持しようとするパラドキシカルな存在なのです。

このようなパラドキシカルな位置は、コミュニティの単独性という秩序を動的なものにする「意味」があるのではないでしょうか。それはコミュニティの外、すなわち環境のドラスティックな変化への対応し、コミュニティを継続する力となっています。

生命のこのような単独性と偶有性は、種によってバランスをとっています。進化上の傾向として、人はもっとも単独性の高い生命でしょう。生命機能(新陳代謝、自己複写)の獲得、細胞膜による環境との境界の設定、自己移動という環境からの離脱、自己判断、そして自己認識の獲得。このような進化上の変化によって人は高い単独性を獲得しました。

自己認識の獲得後においても、時間的、空間的において個体が偶有的な存在であることは、逃れられない根源的な特性でしょう。地上に存在した人類群を一つのコミュニティであり、個体であると考えたときに、一細胞でしかなく、それは私でなくても、誰かがそこに存在した細胞です。



生命システムの完結性

ならばなぜわれわれは自己認識を獲得しなければならなかったのでしょう。仮に「進化」の意味が「繁栄」にあったとしても、「高等」であることが優位であるという必然はないでしょう。進化は人間を目指して「進んで」きたわけでもなく、ただ自己認識は獲得されたという事実しかないでしょう。このような状況の中で、われわれは自己の単独性を維持しようとする傾向があります。

このような単独性は、人間の存在そのものによって達成されています。われわれは根源的な欲求を満たすことによって個体として維持されしつづけるように構成されています。すなわち生理システムとして完結された存在であり、そこに単独性が存在します。

自己認識が獲得する前はそれで単独性は達成されていたのではないでしょうか。たとえば人間以外の生命は、生命システムの維持が危機に瀕する場合、空腹である、病気になる、外圧を受けるなどに対して、強い抵抗を試みます。それは自己の単独性が脅かされるためためです。さらには彼らはこのような生命システムの維持に、生涯の多くを費やし生きています。このように自己が維持されている以上は単独性を「疑う」ことはありません。



生理システムの維持

われわれにおいてもこのような生命システムの維持への危機に対しては、強い抵抗を試みます。現代のように低次の欲求(衣食住のような)が満たされている時代にはそれはまるで意識されないものになっていますが、危機的状況になれば、自分でも思いがけないほどに生理システムとしての単独性への強い固執を試みるでしょう。

私の予想では、かつてわれわれがまだ生理システムの危機を危惧していた時代には、われわれは逆説的にそこに充実した単独性をえていたのではないかと考えています。そこでは生命システムの維持のために、コミュニティが重要な意味を持っていました。コミュニティが高い「社会性」をもって機能することが、人々の低次の欲求(衣食住のような)を満たすために不可欠でした。現前する隣人と助け合うことが大きな意味をもっていました。そしてより大きなコミュニティでは、強力な指導者による中央集権によって、社会全体が高い秩序性をもって運営され、人々は偶有的な存在でいます。それが生命システムの維持という個体の単独性を満たすために必要であったのではないでしょうか。



孤独な群衆

物質的に豊かで、低次の欲求(衣食住のような)が満たされた現代において、生理システムの維持が単独性を満たすのは、スポーツにおいてぐらいでしょう。非労働として行われるスポーツによる充実感、高揚感は、生理システムを擬似的に危機的状況に追い込むことによって、単独性を勝ち得る効果があるのではないでしょうか。

現代では、生理システムの維持によって単独性が獲得されません。また低次の欲求(衣食住のような)が空気のように満たされる社会において、現前の隣人の助けも必要がなく、社会コミュニティへ偶有的に帰属する必要も希薄になっています。すなわちいまの状況は、生命史においてもっとも個体が単独性を持ち得る時代であるといえます。それがまさに現代における「私は何のために生まれてきたのか?」という過剰な問いであり、「夢をもとう」というスローガンです。すなわち単独性に対しての飢餓の時代であるといえるでしょう。

たとえばリースマンが「孤独な群衆」という時には、そこには低次の欲求(衣食住のような)が満たされ、社会コミュニティへの帰属意識が希薄になって「孤独」になっているということもあるでしょうが、そのような中でいかにコミュニティの中に単独性を求めればよいか困難している姿をを示しているのではないでしょうか。街に人は溢れている。しかし孤独である。私の居場所(私が私である場所)はどこであるか?それが孤独な群衆です。孤独な群衆は、本来コミュニティ内の偶有的な位置に対して、単独性を見いだすことであり、それは「コミュニティにとっての私の意味」、または「他者にとっての私の意味」をとらざる終えません。



小さなアウラの消費

それは誰かが私を必要としてるという虚像的な位置を演出する方向へ向かっていように思います。現代においてコミュニティを演出するのは、権力者ではなくマスメディアと消費です。大量な人々に共時的に同じ体験をさせることによって、虚像的にコミュニティを作りあげます。人々はそのような記号コミュニティが存在し、そこに帰属していると意識することによって、さらにコミュニティは実体化していきます。そこでは消費がコミュニティ帰属の「証」となります。

消費は、単に商品の本質的な機能(冷蔵庫ならば、食品を保存する)を獲得するために行われるのではなく、たとえば「中流階級」という記号コミュニティへ帰属のための「証」として行われます。それはコミュニティへの帰属、そしてコミュニティ内に私が私である位置、すなわち単独性を見いだすために行われます。それは「小さなアウラ」の獲得です。小さなアウラを消費し続けることにより、私はコミュニティ内に私の位置を見いだしそうとし続けるのです。マスメディアと新しいコミュニティを演出しつづける限り、消費は際限なく繰り返されます。保有する冷蔵庫の機能に問題なくても、最新の冷蔵庫がほしくなります。

ベンヤミンは、複写技術によって消滅する心的な現象を「アウラ」と呼びました。しかしそれは対象に備わる神的な性質ではなく、集団内で対象にいだく信念のようなものであり、一種の共同幻想であると考えられます。*2芸術作品に見いだされるアウラは、このように一つしかないという物理的な唯一性を元にしているとしても、その本質はコミュニティ内で貴重なものであると承認されたものであり、その貴重さは人の理解を超えたもの、「奇跡」であると了承されます。そしてそれを鑑賞することに授かったことは、「運命」です。すなわちこのような偶有性から単独性への転倒、世に溢れる芸術作品の一つが人智を越えたもの(奇跡、運命)と読み込まれることにより、神格化され「礼拝価値」を持つのです。そして鑑賞するものが鑑賞することによって、選ばれたものとしての高い単独性を獲得するものです。

すなわち、われわれが消費に見いだすのは、それが複写技術によって制作されたものであったとしても、「小さな運命」によって、「小さな奇跡」に出会うという、小さなアウラを見いだすのです。それは記号コミュニティによって承認されているものであり、そこで私は「小さな単独性」を見いだすのです。それが現代における私の意味を獲得する方法となっているのです。


その4 神の発明


転倒される神

  1. なぜ人は誰かに演出された相手よりも、運命の相手と出会い恋することを夢見るのでしょうか。
  2. なぜわれわれは「神」を信仰していなくても、日々物事がうまくいうように祈るのでしょうか。
  3. 現代において「オーラ」ということばがもっとも使われるのは、有名人かもしれませんが、浜崎あゆみなどのカリスマ性とはなんでしょうか。
  4. 理想の美女に出会い、夢のようなSEXをする。 しかしそれがマトリックスの世界であったことを知ったときに主体の中で、失われるものはなんでしょうか。

運命の出会いとは、街の中の多くの中のひとりであった偶有的な人が、自分にとっての特別な人になることです。そして特別な人と出会うことにより、私が特別な存在になるということです。ここに見られるのは「偶有性から単独性への転倒」です。恋をすることによって人は偶有的な存在から、単独性を見いだすのです。これは特別な存在でありたい、私の意味を求めるという根源的な特性です。そして運命とは人間の意志を超越した力が働くことを意味します。主体の中でこのような偶有性から単独性への転倒が読み込まれるときに、その転倒の意味づけとして、人間の意志を超越した力=「神」が捏造されます。ここでいう「神」とは、宗教によって具現化されている神ではなく、抽象的な神性であり、そこに礼拝的な価値が生まれます。

物事がうまくいうように祈ることも、そこに成功するという偶有性から単独性への転倒が見られます。そしてここでも神は捏造され、祈っているのです。カリスマとは特別な人です。それは特別な技術をもっているということであったり、多くの人々に指示されている人であったりします。野球の神様、ゲームの神様、カリスマ美容師、カリスマ浜崎あゆみなどなど、現代は「小さな神」が多く作られる時代ですが、これらは彼らがそのような神性を持っているというよりも、主体が彼らにそのような特別な存在を読み込み、彼らを信仰することで主体自身も特別な存在になるということです。そして神は捏造されます。

理想的な美女との出会いは、「理想的」、「美しい」、「出会い」という主体の読み込みです。それは運命であり、奇跡という神性をもって現れます。そのような特別な女性とSEXすることにより、主体が特別な存在になります。しかしそれがマトリックスの世界であるとわかったとき、偶有性から単独性へと転倒が暴露されます。そこに誰かの作為が入っているということは、理想的な美女の神性は汚され、そして主体の単独性も汚されるのです。



アウラの消滅」≒「大きな物語の終焉」

最高の完成度をもつ複製の場合でも、そこにはひとつだけ抜け落ちているものがものがある。芸術作品は、それが存在する場所に、一度限り存在するものなのだけれども、この特性、いま、ここに在るという特性が、複製には欠けているのだ。・・・オリジナルが、いま、ここに在るという事実が、真正性の概念を形成する。そして他方、それが真正であるということにもとづいて、それが現在まで同一のものとして伝えてきたとする伝統の概念が成り立っている。・・・複写技術時代の芸術作品において滅びてゆくものは作品のアウラである。(「複写技術時代の芸術作品」ヴァルター・ベンヤミン

再度、ベンヤミンに言及しますと、ここに示されているアウラとは、かつての芸術作品に見いだされた唯一性であり、それが真正性として、いま在るということです。そしてベンヤミンは、複写技術の時代の(現代の)芸術作品にはもはやこのような真正性は、アウラは失われているといいます。これは芸術作品に普遍的な真正性があるということではなく、芸術作品の真正性を要請するような伝統の上に芸術作品がたっているということです。そしてアウラの消失とはそのような真正性を保証する伝統が失われているということです。

ベンヤミンは芸術作品はこのような伝統によって礼拝な価値があるといいます。これはまさに偶有性から単独性の転倒の構図です。多くの芸術作品という偶有性、あるいはそれは色素が並べられたという偶有性が、「大きな物語」を持ち得た時代の多くの人々が礼拝的な価値を読み込みつづけた事実により、主体はそこに真正性を感じるということではないでしょうか。そしてこのような重み付けにおいて捏造されるのは、「小さな神」ではなく、限りなく絶対的な神です。ベンヤミンがいう複写技術によってアウラが失われたとは、リオタールが言ったの「大きな物語の終焉」とほぼ同じことを言っているのではないでしょうか。



神の発明

人はコミュニティの中の偶有的位置から自己を見出だそうとします。それは偶有性から単独性への転倒により行われ、転倒は運命、奇跡という神を捏造します。このとき神格化される対象が主体にとってのアウラです。人は日々神的体験として「小さなアウラ」を積み上げながら自己を獲得していくのです。この「小さなアウラ」は、コミュニティ内で単独性を見いだすことであり、それはコミュニティへつながっています。それがコミュニティとして、一つの方向性を持ったときに、「大きな神」は作られ、宗教として価値化されます。

人類史には様々な神が作られてきました。アニミズム、自然崇拝、多神教一神教などなど。神のいないコミュニティなど存在しません。このようなコミュニティの神は、その時代のコミュニティ形態に対応する形で作られてきたのではないでしょうか。たとえばなぜ一神教という絶対的な神が必要とされたのかは、それが他の民族からの強い圧力があった、あるいは暴君への強い抵抗を根底にしているというような、コミュニティが強くまとめる力が働いたということではないでしょうか。



消費という信仰

現代はコミュニティ形態が虚像化し、強い帰属意識による統一されたコミュニティが形成されにくくなっており、かつての「大きな神」は信仰されることが困難になっています。すなわちベンヤミンのいう「アウラの消滅」の時代です。それでも人が自己の単独性を見いだそうとすることは根源的です。宗教を信仰していなくとも、人は内的に神的な体験をします。われわれは日常の中で沢山の小さなアウラが見いだすのです。

それは現代では消費によって行われているのではないでしょうか。われわれが消費するということは、その商品の本来の機能を購入するのではなく、小さなアウラを所有することです。商品を手に入れるということは、(虚像的な)記号コミュニティへの帰属の証であり、そして記号コミュニティに自分の位置をみつけるという偶有性から単独性への転倒であり、商品に小さなアウラを見るのです。

アニメであり、ファッションであり、アイドルであり、家電製品、さまざまなものに人は小さなアウラを見いだしています。そして現在の消費でコマーシャル、デザインが重要とされるのは、小さなアウラを演出する方法だからです。現代においても人は日々神的体験として「小さなアウラ」を積み上げながら自己を獲得していくのです。