他者について その1 他者志向性

世界への他者志向性


たとえば火星表面の人面石とはなんでしょうか。火星の表面を観察をしたところ影が人の顔のように見えた。そのほかにも人面魚というのもありました。鯉の模様が人の顔のように見える。このような現象におもしろいのは、偶有的な模様からそのような模様に惹かれることです。ここにはそこにシグナル(意味)を感じるという人の志向性があります。

たとえば富士山を見たときになんらかの感慨を持ちます。海に沈む夕日であり、星空であり、花であり、なんらかの感慨をもちます。偶有的なものであるはずなのに、理解できないところで心が何かを感じてしまう。そしてこのような感慨は、そこに誰かからの何らかのシグナル(意味)があるように捏造されます。富士山は誰かからの私たちへのシグナルなのです。富士山はたまたま出来たのではない。だれかが富士山を美しくつくったのです。だから私はそこに美しさというシグナル(意味)を受け取ることが出来るのです。

捏造される誰かとは、私が美しいと思うものに、同じように美しいと思える、コミュニケーション可能な「他者」です。それは火星人であったり、幽霊であったりしますが、多くにおいて「神」です。神は、人の英知を越えた存在ではありますが、私とコミュニケーション可能な存在です。ここには、人の「他者志向性」があります。人は惹かれるものに他者性を捏造する。あるいは、人は他者性に強く惹かれるということです。

たとえば人はペットや人形などさまざまものに、愛着をもちます。ペットや人形などに語りかけます。そして愛着あるものに強く感情移入します。愛着あるものが傷つくときには、自分のように痛みます。ここにも「他者志向性」があります。そしてさらには他者とは、限りなく私に近い存在であるということがわかります。



他者への他者志向性

たとえば、友達がすねを打って痛がっている。この痛みは私にわかるのだろうか、という哲学的な疑問があります。これは確かめようがありません。しかし友達がすねを打って痛がっている様子をみると、私自身も痛さを感じます。それを感じることが出来るのは、他者は限りなく私だからです。

たとえば、なぜ子供は子供に惹かれるのでしょうか。電車の中で何組かの家族連れがいると、子供は他の家族の子供の動作をみているのに気づいたことはないでしょうか。彼らはなにかのシグナルを出し合うように強く惹かれあっています。しかしこれは子供だけの特性ではないでしょう。たとえば異国で同じ日本人に見かけたときなど、多数の異種の中に、自分と近い人をみたときに、感じるものがあります。そこにはもう一人の「私」を見つけるのです。

人面岩や富士山やペットに見られた他者性志向による捏造された他者とのコミュニケーションよりも、相手がほんとうの他者であった場合には、コミュニケーションは双方向的になり、それはよりお互いに他者志向性を深めていくという同期行為となります。



他者との心象同期

「他者」とは、自他同期性という、同種においては先天的に密接なコミュニケーションが可能である存在である。そして「コミュニケーションとは、主体が主体の内部に起こった心象を客体の内面(心象構造)に再現させよう(複写)しようとし、客体が主体の内部に起こった心象を、客体の内面(心象構造)に(複写)再現しようとする」こと、心象構造の同期行為である」(コミュニケーション自己構築論id:pikarrr:20040307)


人面岩や富士山やペットに見られた、惹かれるものに他者性を捏造する。あるいは、人は他者性に強く惹かれるという他者志向性は、本質的に本物の他者との同期行為を目的とした傾向ではないでしょうか。それはコミュニティを形成する力となります。

たとえば人はなぜ音楽が好きなのか。人が偶有的な音よりも、ある音階の組み合わせに心地よさを感じるのは、生理的なものかもしれません。そしてなぜその音楽にこころ惹かれるのか理解は出来ないが、そこには誰かがいる、私へのメッセージがある。それは実体としての歌い手よりも、神性を捏造された人(カリスマ)として現れます。

現代において、コンサートなど一人が歌を歌うのに多くの人々が囲うという風景は、冷静に考えるとある意味異様かもしれませんが、これはかつてと宗教儀式と近い構造をもっていると考えられます。そのような、神性をおびた他者の音楽に対して、多くの人が同じように同期行為を行えるということは、隣の聴衆とも同期しているのです。なぜ感動するのかはわからないが、同じことに同じように感動する人々は、コミュニティとして一体感を作ります。

人は意味を、他者からの、コミュニティからの意味として求めます。それは人が強く他者を求め、コミュニティに帰属することを求めているからです。: