他者について その2 他者の特別性

他者の特別性


他者志向性とは、対象が「誰かの、何かのため(意味)」にあるということです。ここでは、人は偶有的な世界に因果律を捏造しています。すべての事象は、ある「他者の」原因によって起こっているということであり、すべての事象には他者が存在するということです。すべての意味は、他者の、コミュニティの意味です。

このように主体にとって「他者」はその根元において特別な存在なのです。その特別性とは、主体にとって他者とは「理解し合える」以前に、「同期」しあえる存在であり、「限りなく私」であるということです。このような志向性は、生理に求めることができるのではないでしょうか。たとえば犬は犬に同期する。ミツバチはミツバチに同期する。それは種のコミュニティの形成作用にもつながっていると思われます。

たとえば友達がすねを打って痛がっている場合に、主体は痛みを同期します。他者とのコミュニケーションはこのような同期をともなって行われています。「コミュニケーションとは、主体が主体の内部に起こった心象を客体の内面(心象構造)に再現させよう(複写)しようとし、客体が主体の内部に起こった心象を、客体の内面(心象構造)に(複写)再現しようとする。」

しかしこのような同期においては、完全に同期することはなく、主体と他者の間にはたえず差異が存在します。コミュニケーションはそのような差異を解消するように行われます。そしてコミュニケーションが言語によって行われている場合には、言語によって解消されない「心象的な」差異を生みつづけます。


差異化運動

たとえば、なぜ自分と「近い人」とのおしゃべりは楽しいのでしょうか。こどもはこどもと、アニメ好きはアニメ好きと、ガンダム好きはガンダム好きと語らうことは楽しいです。そのディテイルまで理解し合える相手と巡り会えることは少ないですが、そのような相手を巡り会い、コミュニケーションすることはわくわくする行為です。

より近い人と心象同期は、差異がより小さくなっていることを示します。そしてそれは、他者との関係性を密にしていると同時に、主体の単独性を高めているのです。たとえば、大人と子供がいると、それは大人と子供としてしか、差異化されません。しかしもし子供がもう一人加われば、それは「おとなしい子供」と「活発な子供」と差異化されます。さらに「おとなしい子供」がもう一人加われば、「ぼつぼつしゃべる子供」と「ほとんどしゃべらない子供」として差異化されます。このようにより近い他者は、私を複雑化します。すなわち私がなにものであるかをより明確化するのです。


私が私となるための他者

そしてさらにはこのような差異化は静的な位置の規定にはとどまりません。近い他者とのコミュニケーションは、差異化を動的に促進します。より細部において、近い他者との相違点を作り出す方向に向かいます。たとえば数学が得意な二人の子供がいれば、より違いを持とうと、互いに数学について競い勉強します。またマンガ好きの二人の子供がいれば、よりうまくマンガを書こうと努力します。

他者とのコミュニケーションは、私をつくっていきます。そしてより近い他者とのコミュニケーションは私をより詳細につくっていき、私はだれでもない私になっていく、単独性を高めるていきます。他者と「絆」を結ぶとは、単に他者と関係をつくることではなく、他者に対して、だれでもない人になるということです。それは「かけがえのない」人となることです。

これはコミュニティとしても現れます。たとえば音楽好きがコンサートで盛り上がり一体感をもつということは、外がから見ると、人々が均質化しているようにみえるかもしれませんが、内部では差異化運動が行われています。帰属意識を高めながら、単独性を高めているのです。すなわち他者とは主体の単独性を高め、コミュニティ内で他の誰でもない位置を見つけ、コミュニティを活性化するための特別な存在なのです。*