言語に回収されない溢るる余剰どうしてる?

言語に回収されない溢るる余剰どうしてる?



小学生女子が同級生を殺害したというニュースが日々流れています。殺人事件は毎日のように起こっていますが、加害者、被害者が小学生であり、そこに殺人に至るような明確な要因が見えないという特異性から、社会に大きな反響を与えています。

加害者は他者です。われわれは他者志向性によって「小学生女子が、何のために(意味)」と、彼女に心象同期します。他者志向性とは、加害者は限りなく私であるということです。そして偶有性から単独性への転倒として、何のために殺したのかと、一義的な意味を求めます。しかしいくらニュースをみても、考えても、言葉に回収できないもやもやとした余剰が残りつづけます。そこにあるのは未知=謎です。われわれはそこに不安を覚えます。

ニュースでは、要因としてバトルロワイヤル読んでいた、ネット上のチャットで暴言を吐いていたということが、上げられているようです。そしてネット心理の専門先生などがネットの危険性などをコメントしてます。バトルロワイヤル?ネット?はぁ?と言う感じもしますが、ここではバトルロワイヤル、ネットという言葉は、超越論的シニフィアンでしょう。未知を塞ぐための意味なき言葉です。そしてこのような余剰の解消では、神性が捏造されます。コメントする先生は、小さな神です。その内容の理解よりも、先生を「信仰」することにより、わかった気になろうとします。すなわち「ネットは危険な場所である。」ということが神話化します。そして未知をその先生のテリトリーとすることによって、余剰が解消されたような気になります。

今回の場合には、加害者は未成年で匿名ということもありますが、このような場合に、加害者自体が神性化(神秘化)されることも多いです。たとえば最近ではオウムの麻原であり、宮崎など。この場合は「麻原」自体が、超越論的シニフィアン化され、余剰は回収されます。すなわち普通の人間ではない我々とは違う人間である、ということです。

少し批判的に書いたかもしれませんが、これは人の一般的な認識の傾向であると思います。浜崎あゆみはカリスマであるとか、どうなるかわからない未来に対する期待、不安という余剰を解消するために、「運命を信じる、願う」というように神性を捏造します。言語に回収できない余剰が生まれると、それを解消するために、小さな神性は捏造されます。



浜崎あゆみに対する余剰は「カリスマ」へ、未来に対する余剰は「運命」へ、社会的事件に対する不安という余剰は加害者の「神秘性」へ、芸術作品に対する余剰は「アウラ」へ。

言語意味(確定記述の束)へ回収できない「溢るる余剰」は、超越論的シニフィアンへ解消されます。そして言語はいつも「誰が、何のために(意味))」(他者志向性)として現れます。「誰が」は「神性」を、「何のために(意味)」は、「神話」を捏造します。だから宗教は、「世界の意味」、「生きる意味」、「死の意味」という言語意味に還元されない人にとって根元的な3大余剰元を語ります。

これは人の一般的な認識の傾向です。言語は本質的に、言語意味に回収できない余剰を含み、小さな神性(小さなアウラ)が捏造されています。イデア的同一性、形而上学的二項対立、否定神学・・・人は神性の捏造から逃れることはできません。それは正義という暴力でありますが、正義という生きる力でもあります。