痕跡の世界

痕跡の世界


痕跡の世界

たとえば夕日に感動するのは、夕日が痕跡であるからです。人は世界を「痕跡」として認識します。痕跡とは意味があることであり、誰かがいるということです。このような痕跡、他者志向性は認識の初動に現れます。痕跡は感動に先立ち、夕日を認識するはじめに痕跡として夕日を捕らえます。現象学でいえば本質直感(ものごとに含まれる概念を直観する働き)ということでしょうか。さらに原的な所与をまとめる志向的統一においても他者志向性は現れます。

人がこのように痕跡認識することは、人にとって他者が特別な存在であるということです。その他者の特別性とは主体と「自他同期性」があるということです。他者とは限りなく私であり、私と深くわかり会える存在であるということです。人が世界を理解するために対象に他者を捏造し、深く心象同期し、世界が理解されたものである、テリトリーであるように捏造します。このような認識によって世界はすべて理解された世界、私たちの世界となります。

痕跡の世界は、独我論的世界観ではありません。痕跡の世界は他者の世界であり、私たちの世界であり、コミュニティの帰属をあらわしています。



規則のパラドクス

たとえば他者の「塩がない?」という発話に対して、ただ<塩がない>という事実を述べているのか、<塩をとってほしい>という依頼しているのか、さらにはそれが愛の告白である可能性も排除できないということです。」他者の発話の意味を引き出せるようななんらかの規則ないし規約は存在しないと、デイビットソンは考えます。これはデイビットソン的な「コミュニケーションのアナーキズム」です。*1

たとえば、68+57に125と答えなければならないのか、この問題は主体にとって初めてであり、68+57=125でなければならないとは教わっていない。この「なければならない」とう規範的力はなにに由来するのか。これはウィトゲンシュタインを展開したクリプキの「規則のパラドクス」です。そしてそのような規則はどこにもないと結論されます。これはヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」にもつながりますが、このような懐疑論において、われわれが言語コミュニケーションを可能にしているのはなぜだろうか、という問題があります。

この懐疑論に対するクリプキの解決は、「共同体における一致」に焦点を当てます。「ある人が、共同体がその個々の場面で正しいと承認している行為をしないときには、その人は規則に従っているとは見なされないのだ。他方、ある人が十分多くの事例において、共同体が正しいと承認している反応と一致するならば、このとき「彼はある与えられた規則に従っている」という形で、共同体は彼を規則に従っていると認め、彼が随順しているような規則が存在することに、後からなるのである。」*2




規則という痕跡

たとえば、いままでだれも知らなかった対象が見つかったとします。それは宇宙の果てでもいいですし、私の中の領域でもいいですし、新種の動物でも、新しいファッションでもいいですが。そのとき人はまず「名付け」によって対応します。名付けるとは、それを痕跡とする行為です。そのようにして未知は私たちのテリトリーとなります。言語はそのものにおいて、痕跡です。

私はこのようなクリプキの解答に言語の痕跡性を見ます。それが初めてであっても68+57=125が正しいのは、それが正しいというコミュニティの同意があるから正しいのです。これはクリプキの「共同体における一致」です。しかし痕跡におけるコミュニティはかならずしも実体的なコミュニティではなく、主体がそのようなコミュニティがあり、主体がそこに帰属しているという意識によって現れる記号コミュニティです。痕跡は、誰かの意味であり、主体による「他者」の捏造です。行為の規則は、主体が同意の他者(コミュニティ)を捏造し、正当性を捏造します。

「塩がない?」という言葉に対して、主体はこのようなコンテクストにおいて記号コミュニティ=「みんな」はこのように意味に受け取るだろうという基本的な認識によって支えられます。それが発話者との意味と異なっていることは多々あっても、このようなコンテクスにおいて「みんな」がこのように受け取るのだから、発話者の意味もそこにあると考えます。



同意と神性

このような正しさの規則の問題は、宗教やイテオロギーなど、様々な難解な、抽象的な問題において、他者との一致を見ないことが多いですが、そのような場合においても主体が正当性の根拠にすることは他者(コミュニティまたは神性)です。記号コミュニティの同意に支えられ、主体は自己の正当性を主張します。これは、結局のところ、完全なる意味言語コミュニケーションは存在しないことをしめします。

さらにコミュニケーションする相手を、自分の意見に同意させるためには、論理的に説明するよりも、自己に同意する他者を捏造させることが大切であるということにもなります。「沈黙は金、雄弁は銀」という言葉があります。これは沈黙の方が雄弁よりも説得力がある。という意味です。沈黙とは一つの演出行為であり、記号コミュニティの演出でもあります。

たとえば、教育者などははなぜ倫理的でなければならないのか。それが犯罪でなくとも、「不謹慎な行為」をすることは非難のまとになります。これは、コミュニケーションにおける同意は、多くの説明よりも、余剰を回収ような記号コミュニティ、あるいは、神性という他者の捏造によって、あの人(神性)のいうことなら、あの話(神話)なら信用しようというレベルで行われるからです。教育者は生徒などの多くの同意を得なければならない立場にあります。そのために、自己がコミュニティに同意されている、あるいは神性をもっているように、捏造しなければならないのです。

*1:哲学航海日誌 野矢茂樹

*2:意味と他者性 大澤真幸