O型は楽天的なのさの巻


最近、血液型を題材にしたバラエティ番組がいくつかやっていた。密かにまたブームなのだろうか。人類をたった4つのグループに分けて、分類することの怪しさは否めない。番組には、各血液型のゲストがそれぞれ数人来てコメントするわけだが、O型はO型らしい、A型はA型らしいキャラクターのゲストをチョイスしたりしているのではないだろうか。

まだ血液型のイメージを持たない幼稚園児を、血液型に分けて、行動分析をするという、科学的な手法によってリアリティを演出する。たったN=1の実験結果でなにがいえるのか。さらにTVのリアリティの問題を考えるときに考えなければいけないフレームの問題がある。写る場面はやらせではなくとも、どこを切り取って移すか、というリアリティの製作(演出)は当然なされるだろう。最近はやりのテロップの多用という演出もある。実験中に「A型はやはり几帳面」など、画面下にテロップを逐一出していくことは、画面そのものが与えるイメージ以上に強制力がある。これは言語表現が根本的にもつ断定的な力である。



と、ここまで書いたが、この程度のことは、誰もが感じていることだろうし、それをいちいち言うことも野暮であろう。実際は、見ていてこれがなかなかおもしろい。ボクはO型なわけであるが、O型はおおらか、おおざっぱだと言われると、そうなんだよなと共感してしまうし、O型のゲストが、おおざっぱさについてのおもしろエピソードを語ると、あるある!などと思ってしまう。O型の幼稚園児が、活躍すると、小さなガッツポーズがでてしまうし、ちょっと失敗することも愛らしく感じてしまう。さらには、AB型と一番相性が悪いと言われると、ついつい知り合いのAB型の顔が浮かんで、そうなんだよな。あいつはAB型だから、何考えているかわからなくて、苦手なんだよななどと、考えてしまう。すなわち、「O型」コミュニティへの強い帰属意識を感じて、うれしくなると言うわけである。

実際、血液型による性格分類が科学的にどの程度の根拠をもち、実証されているのか、よくしらないが、番組に演出の力が大きく働いていることは、否めないだろう。それでも血液型分類が楽しいのは、それがうまくコミュニティを捏造してくれるところにあるのではないだろうか。

血液型分類は、主体の外にある。血液型は生まれながらに決定しており、努力して変わるものではない。それは、ある種の超越性をもって、決定される。そしてその決定にはただ従うしかないのである。このために、現前する誰かに「きみはおおざっぱだ。」と言われるのと、「O型だからおおざっぱである。」と言われることは、決定的に異なる。どちらも否定することは可能だが、「O型だからおおざっぱである。」という現前する他者は、単に連絡係でしかない。「O型だからおおざっぱである。」と断定しているのは、現前しない超越論的な他者であり、現代においては、超越論的コミュニティによる承認である。

たとえば心理学ゲームや占いの楽しさも同じよなところにあるだろう。そこで判断する他者である心理学者や占い家は、現前の他者ではあるが、心理学であり、占星術という超越論的他者からの連絡係でしかない。それに対して、われわれは決定的に反論することが出来ない。

さらにはサッカーのワールドカップの盛り上がりも同じようなものがあるかもしれない。われわれは日本人であるから、日本に高い帰属意識をもち、日本を応援するのである。そして私が日本人であるという分類は、生まれながらに決定していることであり、その規定は、主体の外にある。この否定できない明快さが、素直に日本がんばれと言え、みんなで応援しようぜ!と言えることにつながっている。



現代のように価値が多様化した時代には、私が私であるという価値観の選択を日々強いられる。それは自由であるということと同時に、めんどくさいし、さらには他者との共感を得ることが難しい。だからといって、現前の他者に規定されることは、多くにおいて受け入れがたいし、抑圧として感じてしまう。

だからこのような超越論的他者による規定、さらにはコミュニティへ帰属させられるという否定できない強制力は、楽であり、楽しいのである。私が私であるということ、さらには自由に行為するということは、何らかの規定において可能になるのである。現代は、うまく神を捏造してもらえることが、ありがたい。血液型?うさんくせなぁ〜と言いながらも、決定的に否定できずに、規定されてしまうことに心地よさがあるのではないだろうか。このような楽天的な考えも、O型故だろうか。