科学には「意味」がない。


「科学には「意味」がない。」とは、科学の実証主義的側面への指摘である。科学における理念、科学的な命題は、経験的事実に基づいてのみ構成されるべきである、ということである。たとえば、「光の速度は一定速である。」というのは、科学的に実証された事実である。これに対して、なぜだろうとは問えない。そのような経験的事実が実証されたということであり、それは意味にではなく、反証へ開かれているということである。

科学のこのような面に対して、ノルベルト・ボルツは「意味に飢える社会」の中で以下のように言っている。

世界が科学的・技術的になればなるほど、世界を「意味のある」ものとして体験することは不可能になる。・・・数学的定式化によって明らかになるのは、意味ではなく重要度の程度なのだ。・・・技術は合意なしに機能する。それを根拠づけることも理解することも不必要であり、根拠づけたり理解したりしようと欲するだけでも技術的遂行の邪魔になる。つまり技術は意味を問えないもの、不確定的に機能するものなのだ。「意味に飢える社会(ノルベルト・ボルツ)」

たとえば、アインシュタインのE=mC2という式は科学的に実証された事実である。なぜそうなるのかでなかく、機能として用いられ、原子力は生まれた。しかしE(エネルギー)、m(質量)、C(光の速さ)という根元的な概念による単純な式によって、世界を表しえるという事実は、われわれにある種の感慨をもたらす。それは、アインシュタインがボーアの量子力学に対しての反論、「神はサイコロをふらない。」という言葉に象徴される。 

これは世界はでたらめな偶然によってではなく、「美しい」規則性を持っているという古典物理学的な理念である。それはコペルニクス的転回、ニュートン万有引力などから続く、近代合理主義的な理念である。フッサールはこのような理念を「自然主義的な態度」と読んだ。

物理学的自然の発見者ガリレイは、発見する天才であると同時に隠蔽する天才でもある。・・・真の世界の、アプリオリな形式を発見し、また理念化された自然のあらゆる出来事が精密な法則に従わねばならないとする精密な法則性を発見した。これらはすべて、発見であるとともに隠蔽であるのに、われわれはこれらを、今日まで掛け値のない真理として受け取っている。「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学フッサール)」

そして現在においても、われわれの日常生活の中でこの理念は根強く「隠蔽」され続けている。われわれは科学技術に対する「美的信仰」は根深い。そしてこの「美しさ」への欲動が、科学者、技術者たちの駆動力となっている。「科学には「意味」がなく、機能する。」ということに、神性は隠蔽され、神話(意味)は捏造されるのである。

意味を求める者は、学問からの救済を乞うているのだ。・・・哲学者、未来学者、予見者やトレンド研究家や経営コンサルタントの新しい市場である。かれらが生み出すものは、「呪文としての学問」といった逆説的な言い方でしかとらえられないものだ。「意味に飢える社会(ノルベルト・ボルツ)」

われわれはアポリオリに意味を求めるのである。世界は「誰かの、何かの」意味として現れる。「神話(意味)なき神話(意味)の時代」とは、「われわれはかつてのような神話に依存することなく生きているのだ」という神話に依存する時代ということだ。