宗教と内在的「他者」と尊厳

225 :考える名無しさん
宗教は、単なる一個人の言説により、人間の人格そのものを不可逆的に変容し、現実からの遊離、社会通念からの逸脱、家庭の破壊を生じる。身近なところでは、オウムや自爆テロだけでも、宗教の正当性はすべて失われたと結論すべき。歴史を遡れば同様な実例は無数にある。
228 :考える名無しさん
正しい信仰と間違った信仰、正しい先入観と間違った先入観などと分ける事ができるが人間にとって何がよい状態なのか一概に言えないから難しい。
229 :ぴかぁ〜
そうですね。信仰にはかならず狂気が潜む。ただ自分は信仰などしていないという科学信仰者の方々には、少し危ない感じがします。信仰なき人間など存在しえないということの自覚はあるほうがよいように思います。特に宗教バッシングの方々の疑いなき自己正当性の狂気にさぶいぼがでます。
230 :考える名無しさん
信じるということにも、さまざまな形態があるわけで、十把一絡げに「信仰」と括れるものではないだろうと・・・
235 :ぴかぁ〜
信じることと信仰の違いはなかなか難しいですし、そこに境界を儲ける必要もないでしょう。ただ信仰というときの信じる深さはあるのでしょう。そういう意味で自分でも意識できないほど深く信じている言説とはなにか?ラカンの無意識は言語でできているではなりませんが、考えてみることは有用だと思います。わたしの感想では宗教に否定的な方は、科学の真理性=近代合理主義を自分でも気がつかないぐらいに深く信じ、その価値との相対化として宗教を否定的にみているような感じます
240 :考える名無しさん
ヨガや、原始仏教上座部の仏教のような物を想定しているのなら、偶像崇拝がないという特徴があるみたい。(運用する人間の問題だけど・・・)哲学にも非常に近いので、違和感が少ないと思う。実際、禅を、哲学として解説した人がいたでしょ。これに対して、大乗仏教や、キリスト教イスラム教は、もっと宗教くさい。大衆の宗教で、多くの人に宗教的価値観を広めようとする。私は、宗教は人の求心力だと考えるから、後者が宗教で、前者は哲学だと思っている。
241 :ぴかぁ〜
哲学的、社会学的に人はいかに価値観を生むかというのがありますね。特に数学なども含めて社会価値形成の構造を考えるときに、その宗教と哲学の分類はいかがでしょうか。宗教は胡散臭いというときには、その断定的言説への違和感があるとおもいますが、私は宗教を理解ためには、彼等が信仰するのは神というよりもコミュニティだと考えるとわかりやすいのでは、と考えています
245 :ぴかぁ〜
現代ではなにか宗教は個人が選ぶものというようなイメージがありますが、そもそも地域的にあらわれ個人は地域への帰属とともに宗教に入っている。ある種の公共性をもったコミュニティの結束、帰属の手段ではないでしょうか。たとえば共産圏の人はマルキシズムを理解し、選択したのか?さらにはオタクはオタクになることをどこかで選択したのか?人はコミュニティへ帰属するのでなく、いつも帰属しているのですね。現代は宗教もコミュニティ一つでしかないですから。
244 :考える名無しさん
ぴかぁ〜さんの話、私にはよく解ります。それが、神の内在性(=人間の中にある)ですよね。内在してるだけだと、超越性がなくなるから、絶対性も必要になる。誰かが、絶対性と内在性のバランスが大切と言ってました。私も、そう思います。
248 :ぴかぁ〜
>>244 なるほど、神の内在性ですか。わたしは内在しているのは「他者」だと考えています。そしてコンテクストにより「他者」が超越性を持ち得ると神になる。「他者」の内在性はアプリオリですから、人はいつもコミュニティの一部として存在しますね。たとえば受験に失敗した。鬱だ。という大きな余剰は、内在する「他者」を超越性、絶対性に引き揚げます。これは運命だなど、運命とか、つきとか、奇跡、僕の女神、野球の神様などの超越性はそのようなことですね
250 :考える名無しさん
我々に内在する神、つまり、私たちの求める神が、私たちの自身の投影だとしたら、超越的(絶対的)存在としての神は、他者に当たると思います。だから、絶対性と内在性のバランスとは、言い換えると、自己と他者のバランスです。「他者」が超越性を持ち得ると神になる。同感です。
252 :ぴかぁ〜
そうですね。哲学においても内在的他者がなければ、私は行為できないということが、自明になりつつあります。行為への「障害」の大きさが内在する他者の超越性の度合いを決めるのではないでしょうか。近代的合理主義の実証性は、かつての他者を超越性という上下へ引き揚げることから、他者を広域性という左右へ広げることに転換した。すなわち神の捏造からコミュニティの捏造へ転換したのではないでしょうか。現代は障害はコミュニティが乗り越えるものという思想がありますね
255 :ぴかぁ〜
このような縦運動から横運動への転換は、リオタールのいう大きな物語の凋落ベンヤミンアウラの消失に対応します。たとえばベンヤミンが複写技術時代というように社会が情報化する中で、縦の運動という秩序の構築は困難なのではないでしょうか。たとえばそれは情報化の先端である2ちゃんねるをみるとわかります。活発な情報化の運動は、カオス的ですね。より秩序は構築されにくい。宗教を縦運動と見るのは単純化しすぎなんでしょうね。わたしは宗教についてくわしくないですが、もっと豊かなものだとは思います。
254 :考える名無しさん
>>252 「哲学においても内在的他者がなければ、私は行為できないということが、自明になりつつあります。」ここ、もちっと説明しろ。
257 :ぴかぁ〜
「哲学においても内在的他者がなければ、私は行為できないということが、自明になりつつあります。」…は、すでに話しました。クリプキの規則のパラドクスでググってください。また人工知能のフレーム問題、あるいは、ブルデューハビトゥス論など参照するとよいでしょう。
265 :考える名無しさん
(コピペ)ブルデュー:「趣味」と「階級」、本来的に個人の好みに関わる問題とされ、一見全面的に各人の自由な選択にゆだねられているかに見える「趣味」の領域においてさえ、われわれの判断がじつは自分の所属している階級もしくは集団に固有の知覚・評価・判断・行動図式の体系(ハビトゥス)によって厳密に方向付けられ規定されているということ、そしてそこには必然的に、自らを他の階級・集団から区別し卓越化しようとする戦略が介入してこざるをえないということ、こうした基本的認識の上に立って、種々のアンケート調査に基づく膨大な資料を駆使しながら、恣意的な差異を生産する分類=階級化のメカニズムがいかにして広義の「文化」をヒエラルキー化してゆくのかを明らかにしようとする。
268 :ぴかぁ〜
現代の宗教不信は、宗教の縦構造が社会権力と結び付いてきた事実から来るところがあります。横構造はそのまま民主主義化に対応します。そして現代は横の運動の問題ですね。近代合理主義、マルキシズムは運動量が少ないから、大きな物語として崩壊したていう感じですか。ポスモダ、システム論は動的な記述ですね。資本主義でいえばグローバリズムは動的です。
271 :考える名無しさん
>>268 科学の発達や、経済のグローバル化の方が速いよね。人間が後からついて行く感じ。そうすると、進化論じゃないけど、生き残った物が正解と言うことになる。そういうことかな。
272 :ぴかぁ〜
ウェーバーは了承の共同体などといっていますが、情報の多さ、速さには、人は理解するのでなく了承するしかない。進化論が生き残ったものが勝ちは誤謬でしょうが、生き残りための価値観も運動する。あるいは偶有的になるのかもしれません。だれが生き残るか特定できない。
274 :ぴかぁ〜
もし勝ちがあるとすれば、偶有性から単独性へではないでしょうか。たまたまの存在から、必然の存在へ。コミュニティになくてはならない人になることが、人の究極の目標ではないでしょうか。死を賭けてでも。宗教は神が単独性を承認してくれます。私が存在するには理由があり、それは神がしっている。
275 :ぴかぁ〜
神なき現代は、自分で探さないといけませんね。神にかわり、コミュニティを捏造し、コミュニティに欲望される私を演出するのが、現代のアイデンティティの持ち方ではないでしょうか。そのためにはコミュニティは社会的なものより趣味的なものが捏造しやすいのではないでしょうか。
276 :ぴかぁ〜
こう考えると明らかに神を信仰する方が「幸せ」になれますね。だから人はひそかに神を信仰しているのではないでしょうか。それは宗教のように具現化した神でなく、内在的な神を。自分自身にも見つからないように。たとえばみななんとなく自分は、大きな災難にもあわずにそれなりになんとかやれると思っていますね。
279 :ぴかぁ〜
特に若いうちなどは、周りの制止も聞かずにリスキーなことをするものです。有名人になるとか、確率論からいうと無謀なことや経済力のない男といっしょになるとか。でもなんとかなると思うものです。しかしこのようなことが、社会に活力を与えているわけです。環境圧につよく、淘汰されにくい種をつくっているわけです。このようなおもいこみが多くの紛争を生みながらもです。
290 :考える名無しさん
 >>274 人間の尊厳を、人類全体の、環境への適応能力の形成という視点で考えると、人は、生まれながらに(その遺伝子レベルで)、なくてはならない存在です。(多様性が重要だということ)このことは、国連憲章の人権宣言などにも反映されていて、そういう意味では、人は、自己の存在理由を考えるのに、神(他者)なしでも、なんとか、最低限のものは、与えられていると言えるでしょう。
295 :ぴかぁ〜
この言説において、なにが隠蔽されているのでしょうか。人間の尊厳=遺伝子?ということですね。この恐ろしさの意味は容易にわかると思います。典型的な自然主義の誤謬ですね。
299 :考える名無しさん
いや、それは、人間の尊厳=遺伝子としているんじゃなくて、人類全体の環境適応能力を、個人に還元しているということです。例えば、ベトナム戦争の時に米が使ったDDT、ほとんどのハエは、これで死ぬんですが、こんな自然界にない物質に対して抵抗力を持つ個体がいるんですね。ハエは、ほんの少数の抵抗力を持つ個体のために全滅しなかった。残った、ハエは、全部この個体の子孫で、DDTは、効かなくなった。そこで、この生き残ったハエを研究してみると、以前のハエと比べて、とても貧弱で、生存能力に乏しい。つまり、以前の環境では、厄介者だったワケです。生物界では、このようなことが、けっこう頻繁に起こっている。
300 :ぴかぁ〜
進化における多様性の意味はわかります。それは、一つの価値観ではあります。しかし、先の言説には明らかに、人間の尊厳=遺伝子という意味も含まれているということです。人の尊厳を先の言説に還元することの危険性を指摘しているわけです。人はその他の生命とは違う。尊厳には、そのように意味がなければいけないだろうということです。すなわち尊厳というシニフィアン自体に、内的な「他者(神性)」は捏造されなければならないのです。他者(神性)とは私であるから、基本的人権は守られる必要がある。ということです。
303 :考える名無しさん
「人はその他の生命とは違う。」には、根拠がない。生命とは生物学的概念。すべての動物について同じ。
304 :ぴかぁ〜
そうまさに根拠がない。 だから、尊厳、倫理の問題には、 神の捏造、宗教的言説は必要とされるということです。
302 :ぴかぁ〜
そしてこのような捏造は、裏面において、狂気=差別的言説と同じ論法です。相対主義と合理主義の対立という、現代における哲学の重要な問題の一つですね。
327 :ぴかぁ〜
私が思うのが、ハーバーマスのコミュニケーション的行為にしろ、アメリカ系のプラグマティクスにしろ、デリダの正義論にしろ、論理が倫理へ到達しうるということ自体に、宗教と同じく、神性が捏造されていると思うのです。だからだめだということではなく、神性の捏造はアプリオリである、という認識から、始めるべきではないかということなのです。われわれは、恋に落ちるという日常の地平に宗教も、倫理も、そして狂気もあるということですね。ハーバーマスのコミュニケーション的行為にしろ、アメリカ系のプラグマティクスにしろ、デリダの正義論にしろ、恋すること(神性の捏造)を排除しえるのか。ということですね。