ギャルウォッチャーは、生理的に欲望するか?無意識的に欲望するか?


夏が近づき、女性が薄着になってきて、うれしい限りです。夏になるとなれてくるが、今ぐらいの薄着への変わり目が、一番女性の露出に目がいくね。毎日の通勤の人混みで気がめいる中でもギャルウォッチ?は一服の清涼剤であるが、果たして、女性への欲望とは何だろうか。

ボクは「無意識」なる考え方が好きではない。「無意識」とはなにか、と考えると、「意識的でなき意識」ということになるのだろうか。たとえば、「明るくなったので、私は無意識にサングラスをかけていた。」とはいっても、「明るくなったので、私は無意識に瞳孔が閉じていた。」とはいわない。すなわち無意識とは、意識的に可能な行為が、意識されずに行われるということであり、瞳孔が閉じるのは意識してもできないから、無意識ではなく、生理反応である。だから無意識とは、デカルト的なコギトの枠からでていないといわれる。「フロイトの歩みは、デカルトの歩みと同じである・・・フロイトの歩みが確信という主体の基盤から出発しているという意味において」(ラカン)。ラカンの「無意識は言語で出来ている」ということも、同じような流れでとらえることができる。しかし無意識と生理反応はそんなにも明確に区別できるものだろうか。

そのような違和感が顕著に表れるのが、「女性への欲望」である。この「女性への欲望」は、哲学いうところの他者性や、ラカンが言うところの、「人は他者の欲望を欲望する。」の「欲望」で説明し尽くせないだろう。他者の欲望を欲望するとは、自己の投影としての他者である。そのようになりたい、そこに私自身を見るのである。そしてラカンは「女性は存在しない」という。

「女は存在しない」という言葉をもっと判りやすく言い換えるなら、「女性を言葉で明確に定義づけることはできない」というほどの意味になる。・・・女性は「男性ではない」という否定的なかたちでしか示すことができない。言い換えるなら、女性を積極的に指し示すような言葉、つまりシニフィアンは存在しないんだね。どんなに多くの女性の性質を数え挙げても、すべてをつくすことはできない。・・・「女性一般」なるものは存在しないことになる。これをラカンは「女は存在しない」と表現するわけだ。

 そういう発想からすれば、「愛」だって、完全に調和的な男女関係が存在しないことを埋め合わせるための幻想に過ぎないことになる。男性にとっての女性は、実はひとりの主体的な人間ではない。男性は女性の一部しか愛することができない。それは「からだ」だったり「こころ」だったりするけれども、要するに、生きた女性の全体ではなくて、その一部を、幻想的なものとして愛するのだ。このとき女性は「対象a」として、男性の欲望の原因となっている。このあたりのことを、ラカンは「女性は男性の『症状』である」なんて言いかたをしている(生き延びるためのラカン 斉藤環 第14回 女性は存在しない?) http://www.shobunsha.co.jp/h-old/rakan/14.html

これは精神分析的な見解ということだろう。実際に生体的に性差はあるが、精神分析が扱う無意識の中に「女性」というような明確なものを見いだすことは難しい。性差というのは、ジェンダー的な社会的、文化的なものでしかないということである。ボクたちが欲望しているのは女性そのものではなく、社会的、文化的に捏造された「女性」であるということである。



確かにそのような面は多い。以下に「女性への欲望を」5つほど考えてみたが、ここにおいて、なにをもって、(コギト的)意識、無意識であり、なにをもって本能、生理ということが明確にいうことができるだろうかということである。

  • 生物的な性欲、また生物的に性欲をかき立てる記号としての女性表象
  • 「人は他者の欲望を欲望する。」ところの欲望。誰かの彼女、あるいは多くの人に好かれている女性を所有したい。
  • エロティシズムと関係が深いだろうが、社会的、文化的な欲望。たとえばはやりのファッションに身を包む女性への欲望は、このうちにはいるのだろう。たとえば、女性高生、コギャル、おねぇ系などは一つの性的な記号となっている。

セクシャリティについて語ることはエロティシズムについて語ることとはまったく異なる・・・バタイユに依拠するならエロティシズムの表象は、その定義からして無限にありうる。エロティシズムのありようは、社会的、文化的、あるいは状況的コンテクストに依存するために、その表象も必然的に多産的なものにならざるを得ない。(「文脈病」斉藤環

  • 処女信仰、ロリータ志向などは、コスプレなどにも通じるが、汚れなきものを、一番最初に汚したいという女性への所有欲であるように思う。フェティシズム(物神化)である。アイドルヲタが、アイドルを神聖化する場合には、それは神聖化ではなるが、本質的には所有したいという願望である。
  • マザーコンプレックス指向。男はみなマザコンというが、ラカンがいうところの、生まれてすぐに母親と一体感であり、全能感であり、その後、自己を獲得することに失われる。それを取り戻すための願望である。



ここではまず、「意識」とはなにかということを考えてみる。スティーブン・ピンカーは「心の仕組み」の中で、言語学者のレイ・ジェッケンドフと哲学者のネッド・ブロックによるものとして、意識の意味を3つの分類を紹介している。①自意識、②情報へのアクセス、③直覚である。

ウディ・アレンは、大学の講義案内をパロディ化するなかで、意識という概念を巧みに料理している。

 心理学入門:人間行動の理論・・・精神と肉体は分離しているか。もし、そうであれば、どちらをもつのがいいか・・・無意識に対立する概念としての意識の研究にも触れる。意識をもち続けるために役立つヒント満載。(「心の仕組み」スティーブン・ピンカー

ウディ・アレンのパロディの前者の意識が、②情報へのアクセスであり、後者が「生の感覚」ともいわれる③直覚である。デカルト的な意識、フロイト的な意識/無意識は、②情報へのアクセスであり、また明るくなって瞳孔が閉じたなどの生理的な反応も、②情報へのアクセスの一つと考えられている。


このような分類は、フッサール現象学との相性がいいように思う。現象学的還元(エポケー)によって、意識の自由にならないものとして現れ、それ以上疑えないものとして、原的な直観(知覚直観、本質直観)を考えている。これは③直覚は近いものといえるだろう。このようなさまざまな原的な直観を「意識」が瞬時に統一して(志向的統一)、同一の事物の現実経験として与えられる。この志向的な統一が②情報へのアクセスに近いといえる。

このような現象学的認識においての志向性統一としての「意識」は、心はどこにあるのか?というような、心身二元論的なデカルトフロイトの意識/無意識のように、静的なものではない。「意識」は原的な直観を統一する働き、動的なものと考えられる。

或具体的な体験の統一の中で、幾重にももろもろのノエシス(志向的統一)が、相互に積み重ねられており、したがって、ノエマ(意味)的相関者も同じく、基づけられたものになっているのである。(「イデーンフッサール

意識的(無意識的)、生理的というような、静的な還元はされず、同じ地平のものとして考えられ、このような様々な直観であり、意味であり、生理的な反応が、原的与件として、つぎつぎに与えられて、そのたびに志向性統一され、意味が変化していく。「原的与件→意味統一(ノエマ的与件)→意味統一(ノエマ的与件)・・・・」という一つの動的なシステムとしてとらえることが出来るだろう。

さらにこのようなシステムをシステム論へつなぐことは、可能だろう。

神経鞘細胞の活動は、光の物理的特性にも、各スペクトラムのもつエネルギーにも対応しておらず、あいて対応するものを探すとすれば、人間が色を区別するさいに用いる色の名前である。外的な物理的刺激の特徴は、神経システムの活動と対応させようとするとまったくまくいかない。こうしたことから神経システムがそれじたいの関連の内部でのみ作動しているはずだとマトゥラーナは考える。・・・神経システムは、外的刺激を受容してそれに対した反応をするのではなく、むしろそれ自身が能動的な活動によって視覚像を構成する。・・・外的な刺激に対応することなく神経システムは作動している。(「オートポイエーシス河本英夫

この刺激と作動の非相関性を現象学的に考えてみると、ここでいう刺激そのものが、原的与件ではない。現象学において原的与件とは、人がそれ以上疑い得ないだろうという意味での「原的」であり、原的与件そのものにも刺激から意味を読みとる働き(本質直観)がある。そして本質直観を含めた志向性統一という動的な循環システムを、神経システムのようなオートポイエーシスと考えることができるだろう。



「女性への欲望」とはなんだろうにもどると、本能的に射精によって解消される部分もあれば、文化的に終わりのない欲望である部分もある。しかし女性への欲望が、欲動的で、強くあることには間違いない。それは、様々な情報与件が志向性な動的循環システムとして、作動し続けるから生まれ続けるものである。

そして言語という静的な意味へと還元されない余剰が、女性へあの吸い寄せられるような感覚として、溢れ続ける。そしてその余剰を解消するために、男女の場では、女神であるとか、天使であるとか、運命であるとか、奇跡であるとか、神が捏造され、超越論的なシニフィアンが飛び交う。このような男性にとって女性は、アウラ場にしか現れないために、理解できない存在となるのかもしれない。

人は環境という総合的な情報の中にあって、人であって、それは心身二元論的に、意識(無意識)内を探索し、「女性はいない」ということには、意味がないのかもしれない。もしラカン的にいうのならば、「精神分析の場には、女性はいない」というべきであり、そしてフロイトのいう「女性が何であるかを記述することは精神分析の仕事ではない」と言うべきかもしれない。