神話なき神話の時代、再び


コンスタティブな言語意味に回収できない(溢るる)余剰とは、たとえば、絵を見て、音楽を聴いてなど、言語で表せないわき上がる感情というような感じでしょうか。結局、それはシニフィアンに回収されるわけですが。たとえば、ペットの「ミミ」へのわき上がる「いとおしさ」という言語だけであらわしきれない感情は、「ミミ」というシニフィアンに回収されます。そして「ミミ」は、神性が捏造される、というのは、偶像化される。

このような余剰は、すべての言語に含まれているのではないだろうか。「りんご」という言語に余剰はあるか?そもそも、言語はそれだけ取り出すのは不可能であり、コンテクストとは切り離せない。すなわちすべてコミュニケーションとして現れる。私は「りんご」と言うときには、そのコミュニケーションにおいて、コンスタティブ以上の言語意味が含まれている。(シニフィアンの浮遊性

たとえば、デリダは言語行為論の反論として、言語行為論のいう、行為する言語の意味には、コンスタティブとパフォーマティブがあると言うことに対して、すべての言語にコンスタティブとパフォーマティブの意味が含まれると指摘した。また、バルトは記号には、デノテーション(コンスタティブ)な意味と、「無意識」的な意味、コノテーションがあるといった。

コンスタティブな意味(確定記述の束)に還元されない意味という意味で、パフォーマティブ性、コノテーション性があるが、私が余剰という場合には、少しニュアンスが異なるように思う。それは、言語記号には他者志向性があるということである。「誰かが、何かもために」。人は言語に絶えず、誰かの意味を読みとろうとする。すなわち言語記号は、「他者」なのであり、世界は痕跡なのである。



「他者」とはなにか。それは限りなく私であり、私そのものでなく、私に対して差異をもち、私が何ものであるが、規定する特別な存在である。私と「他者」の埋まることがない差異として、言語には、余剰が必ず含まれる。そして、その余剰はコンテクストによって、大きくなったり小さくなったりするのである。

通常、「りんご」に含まれる余剰は小さく、ほぼコンスタティブに理解される。しかしそのコンテクストにおいて「りんご」が重要な位置にある場合、たとえばある恋人との出会いを象徴するなどだと、他者性は向上し、りんごに内在する余剰は大きくなり、りんごにその恋人がボクの天使として捏造される。

このような他者性を向上するコンテクスト(アウラな場)として、名付け(固有名)がある。そのりんごに「ミミ」と名付けると、世界に一つしかないりんごとなり、それは主体にとって特別な、すなわと高い他者性があらわれ、余剰がふくらむ。そのほかに、他者性を高めるものに、誰かとの思い出の品とか、多くの人にほしがられているものであるとか、富士山や夕日、音楽や絵がのようにアプリオリに感情を揺さぶられるもの、などがある。そして愛情の場、性的な場、金銭的な場。このようなコンテクストでは、より大きな余剰が生まれ、他者は超越性をおび、神性として捏造される。

言語に他者を捏造すると言いましたが、これはあくまでコミュニケーション上の主観的なものですから、他者は私に内在しています。このようにコミュニケーションとは、私の内在した他者をとおして、私自身が形成されていくことです。これは私が、コミュニティに帰属していることを現します。すなわち他者と多くにおいて価値を共有していることをあらわします。だから、日本人というコミュニティへの繋がりとして、捏造された内在的な他者も存在します。このような常識的な価値は、一般的に当たり前すぎて意識されません。わらちたちが日常、日本人であると意識しないようにです。しかしわたしたちは日本人として強い帰属意識を持ち得ています。ただコミュニティとは主体がそのようなコミュニティがあり、そのようなコミュニティに帰属していると考える記号コミュニティである。



このようなコミュニケーションの経験が多くのコミュニティに多重に帰属し、私は形成されます。それは、私がコミュニティの中でだれでもいい位置から、私でなければならない位置を獲得することです。これが私の根元的な目的です。だから高い他者性の対象物というのは、より私を私にしますので、つよく「欲望」されます。

それは私が日本人であるというようなこととか、「りんご」というコミュニケーションであるよりも、もっと他者性が高いコミュニケーションを私が望むことを示しています。たとえば、車好きは、車好きのコミュニケーションをすることによって、アイドル好きはアイドルに関してコミュニケーションすることによって、より私が何ものであるかと、明確にするということです。

これはより強くコミュニティに帰属するほど、私が私である。ということですが、コミュニティの一部になるという従属性と、私が私であるという自律性が両義的にともに満たされています。これはシステム論の階層構造の関係に現れるもので、ヤヌスの双面」と呼ばれます。

アリの集団があり、その一匹が排除しても、アリの集団としなにか変化があるように変わりません。排除された一匹の代わりぐらい、他のアリがします。本来、私の存在は、これと同じく、偶有的なはずです。しかしそこから私は、コミュニティにとっての私だけの価値を見いだそうとするのです。すなわち偶有性から単独性への転倒です。このような志向は、人にとってアプリオリな志向性だと思います。そのために、言語には他者志向性があり、言語意味には余剰があり、他者が捏造されるです。



このような価値観の形成は、ある意味で「正しさ」の捏造であり、それは他者による承認という形で現れます。これがクリプキの規則のパラドクスに対して、人が行為を行える理由です。そしてこの「正しさ」の捏造は、見方によっては狂気の捏造でもあります。たとえば、オウム事件などでは、犯罪を犯した信者は、「正しさ」かあのような事件を起こしたわけです。そしてその正しさは、オウムというコミュニティの承認であるとともに、より多くの人々の承認(人類のため)として行われます。

ジジェクが、イデオロギーの力は、人々がイデオロギーを信じているのではなく、信じているようにふるまってしまうことであるということはこれをよく現しています。このような「正しさ」の捏造は、コミュニティの承認として、それによって、私が私であるということによっていますので、イデオロギーのコンスタティブな論理を越えて、もはや、信じているようにふるまってしまうのですね。

これはたとえば、宗教としてのオウムであるとか、イデオロギーとしての共産主義というようなことではなく、浜崎あゆみファンであるとか、ある女の子を好きになってしまうとかいう、レベルでもあらわれる、人にアプリオリな、私が私になるために、志向性なのです。



すなわち神話なき神話の時代とは、人は自分自身にも見つからないように、ひそかに神を信仰している時代ということでしょうか。それは宗教のように具現化した神でなく、内在的な神性(小さなアウラ)です。たとえば、先ほど上げたクリプキの規則のパラドクス、人工知能のフレーム問題、ゴフマンの儀礼的な共在の世界、ブルデューハビトゥスなどなど間主観的世界は、このように成り立っているいえます。

そしてそのような中で余剰は、間主観的世界が、静的な世界にならないように、動的な駆動力として働いている。私は私でありたいと志向することによって、世界はダイナミックに変化し続けているということです。狂気を孕みながらもですが。