コミュニティの暗黙の強制力


昔、テレビで見たのだが、朝、スクールゾーンに、多くの車が近道として進入してくる。このために父母が進入口にたって、進入車に向かって、通行禁止だと呼びかける。はじめ父母たちは、進入してくる車の運転手に対して、「ここは通行止めだから通れません。」と高圧的に対応していたが、制止を振り切って、進入する車があとをたたなかった。ところが、丁寧に「おはようございます」という挨拶から入り、「申し訳ないですが、ここは通れないんですよ」という説明にしたところ、ほとんどの車が素直に迂回したということだった。

たとえば「人としてあるまじき行為である。 」とか、親として、社会人として、などと言うことを言います。この場合に「人」とはなんでしょうか。ここでは、私が、あるいは相手が価値を共有するだろう同じコミュニティに帰属していることを示します。「人として」の行為が明確にあるか、あるいはそのようなルールをもったコミュニティが現存するかわからないが、そのようなコミュニティがあり、われわれはそこに帰属し、そこではルールがあるだろうという漠然とした虚像的なコミュニティへの帰属意識が了承されているだろうことによって、「人として」という言葉は意味をもっている。

たとえば、エレベータの中で小声でなにかしゃべりつづけてください。「場」が凍ります。学校、会社などで小声でなにかしゃべりつづけてください。コミュニティから排除されます。それは会社をやめさせられるとかでなく、陰口、無視、中傷、いじめなど排他的な行為として現れるでしょう。すなわちこれは、「場違い」なのです。場違いはその場(コンテクスト)において不適切な発言、状態をさしますが、そこに「場」があることを示しています。「場」は、明確な実在をともなうものではなく、虚像的なコミュニティへの帰属意識として、現れます。場には虚像的コミュニティの暗黙の強制力が働いています。



このようなコミュニティの暗黙の強制力を示したものが、ゴフマンの共在な世界(交互行為の秩序論)でしょう。共在は「社会経験の大部分、挨拶なり談笑なり恐喝なりセックスなり、他の人と居合わせたところ」であり、共在では慣習的プラクティスの網として相互行為秩序が構成されます。

人は適応の無限後退(つまり思索)に立ち往生することもなく、互いの前提をある意味では無根拠に信じて−信じているかどうか、その必要があるかどうかさえ意識せずに−「社会的出会いの世界」に乗りだしていく。いい例が儀礼的無関心だろう。とりわけ匿名的な焦点のない集まりで、人は、周りの動作と外見に互いのラインを一瞥し、万事うまくいっていること、互いに前提が自分の前提とするに足りるものであるを確認しては、つぎの瞬間、自分のラインにもどる。悪意や敵意、恐怖や羞恥心がないこと、進行しつつある行為が表出/読解されるラインそのままであることが確認される。共在のなか、事実として互いに儀礼的無関心を運用しあっていることを相互に確認しあうだけで、それぞれの運用の実効性が安心されることになる。・・・人はただ他の人たちと居合わせるという事実にいて、それだけで既存のプラクティスを採用−運用する。いや、せざるをえない。その結果として、共在の秩序が行為の場面場面に形成され続けているのだ。

制度とシステムの現状がいかに抑圧的、加虐的であっても、人はその再生産に「自発的に」加担していく。カテゴリカルに差別化され続ける女たちがそれでも自然な性差を信じ続け、スティグマを付与された人たちがそれでも現行秩序に居場所を求め続けているように。相互行為プラクティスへの習熟、その結果として馴染んだ経験の安定性と圧倒性をリアリティとよぶなら、人は、このリアリティのなかでまさしく眠っている。

われわれの経験とは、われわれの経験している通りのものではない。人は、慣習的プラクティスの網のなかにいて、ここかしこでこれを作動させては自分の信念を証拠だてる経験を得、また眠りにもどる。ときたま起こるさまざまなフレーミングの誤作動や破綻は、場のリアリティを揺るがし、むしろそれぞれの場のリアリティのプラクティカルな構成を強化・確定する方向に働く。当面の経験を離脱しようとするにせよ、二次的適応や自己欺瞞に従事しようとするにせよ、あるいはフレイムを掃除/確認したり変容させようとしたりするにせよ、経験のなかにいる限り、人はフレイミングの循環を逃れることができない。(「ゴフマン世界の再構成」安川一)

共在の世界において、人々は相互行為プラクティスという価値を共有しあっているという暗黙の了解のもとに構成された暗黙の秩序のなかにいる。それは人に強制的な儀礼を強いるという緊張感とともに、場が安全であるということを保証する。このような共有観はそれぞれの期待であり、信頼であり、虚構であるから、いつ不安定化するかしれない。それでも人々は信頼しあい、場の秩序を保とうとするということでしょう。

人の行為は思う以上に自由ではない、といえます。他者から行為を提示されると、そこにはすでに予期される行為として、強制的に決定されています。それに従わないことはできますが、人はしたがってしまいます。たとえばだれかに「おはようございます。」と言われれは、そこにはすでに私が「おはようございます。」と返答する間が開かれます。はじめのスクールゾーン進入の話にもどると、丁寧に「おはようございます。」と挨拶することによって、侵入者を暗黙の強制力下に呼び込み、侵入者は儀礼的行為へ導かれてしまいます。



このような暗黙の強制力は、ゴフマンの示す生活のなかの場だけに働くものではないでしょう。たとえば、ジジェクイデオロギー論にもつながります。ジジェクによると、イデオロギーの力は、人々がイデオロギーを信じているのではなく、信じているようにふるまってしまうことであるということです。あるイデオロギーに基づくコミュニティに所属するということは、そのイデオロギーを理解し、納得し受け入れているかという論理的なレベルではなく、暗黙の強制力として、イデオロギーに信じているようにふるまってしまうレベルで働くということです。またフーコーパノプティコンにもつながるでしょう。いつも看守に見られているだろう状況とは、看守を含めたコミュニティに帰属しているように捏造される、暗黙の強制力下におかれることを意味します。

共在には人を暗黙に、強制的に従わせる力があります。これはコミュニティへの帰属意識であり、帰属しているという理解以前の力として働きます。人は、根元的にコミュニティへの帰属を志向し、共在の力は潜在的に、強制的に発生します。それは根元的に、私が私であることを規定していることにつながるからです。

ブルデューハビトゥスという概念をしめしています。「本来、個人の好みに関わる問題とされ、一見全面的に各人の自由な選択にゆだねられているかに見える「趣味」の領域においてさえ、われわれの判断がじつは自分の所属している階級もしくは集団に固有の知覚・評価・判断・行動図式の体系(ハビトゥス)によって厳密に方向付けられ規定されている。」これはコミュニティの暗黙の強制力が、「恣意的な差異を生産する分類=階級化のメカニズムを広義の「文化」ヒエラルキー化」として働くことを示しています。



このように、共在の場において、コミュニティの力がどのように働いているか、場の空気を読むことは大切さなことです。場には儀礼的な秩序としての暗黙の強制力が働いていますので、場違いは、場を破る狂気です。狂気が発生すると、コミュニティにはその不安を排除する力が働きます。

人はコミュニティへ多重的に帰属して、私が何者であるかを構築します。このために場から排除されることは、人の根源に関わる問題となります。それが顕著に現れるのが、いじめの問題です。いじめはコミュニティからの排除として働くために、いじめられるものの死へとつながります。安易に考えると、生活の場を代えればよいとも言えますが、幼いものにとっては、学校というコミュニティが彼らにとって、すべてです。そのためにコミュニティからの排除は、決定的な自己否定となります。

たとえば、日本における宗教への漠然とした嫌悪感は、日本という虚像的なコミュニティの場を破る存在であり、狂気としてとらえられます。たとえば、オウム真理教があのような言動に走ったことには、社会からの「場違い」としての排他的な圧力を受け続けたことにより、オウムというコミュニティ内部の帰属意識が高まり、そして密室性を高め、あのような方向に追い込まれという面があることも否めないと思います。



このような「コミュニティの暗黙の強制力」の根元性は、クリプキの規則のパラドクス(「行為が規則に従っている、とは、その行為が、正当なものとして(妥当なものとして)そうなのだ」ということが、論理的にどのように可能であるか?)に対する大澤真幸の解答にも見ることができる。

私=奴隷の行為を承認すべき第三者の審級=主人の存在を私が承認する、といった相互的な承認の関係が生じている。・・・しかし、この「承認」は私の恣意や自由に服さない。他者は、私にとって、不可避の宿命として現れてしまう。それは、この私が存在していることの必然性に匹敵する必然性をもっているのだから。そして第三者の審級は、この必然性の延長線上に登場する。つまり、第三者の審級は、私のほかにどうしようもなく他者(もう一つの心)が存在している、ということ(のみ)を根拠にして、存在する。だから第三者の審級は、私には、自由に選択することができない宿命のように出会われるはずだ。だから、私が、他者の権威を恣意的に認定して、自分の行為をすべて「規則にしたがったもの(妥当なもの)」としてしまう、など不可能である。われわれが外部から観察してみれば、第三者の審級は、私(と他者)によるある種の「承認」に依存しているが、私自身の視点に内属してみれば、このような「承認」の過程は完全に隠蔽されているのだから。(「意味と他者性」大澤真幸

私が行為をするということには、第三者の審級が隠蔽されている。それは私には自由に選択することはできない。私が私であることに匹敵する必然性をもっているということである。第三者の審級とは、超越的な他者である。私が行為することに、超越的な他者が捏造されることによって可能になっている。共在の世界とは、超越的他者として虚像的なコミュニティ、たとえば、人であり、社会人であり、イデオロギーが承認することによって、可能になっている。すなわち虚像的なコミュニティの暗黙の強制力下によって可能な世界ということである。



このような狂気を利用するのが、「お笑い」でしょうか。お笑いは、場を意図的に、(安心した舞台において)破る(ぼける)ことによって、狂気を作り出します。観客は、その狂気の目撃者として、きまずさ(不安)を感じ、それを解消するために、間を笑いで埋めようとします。つっこみは、観客の代替役であり、つっこむことにより狂気を解消するとともに、観客に狂気の位置をよりわかりやすく提示します。


たとえば、人が転んでおもしろいのは、転ぶことにより現れた場を破る狂気を目撃した気まずさ(不安)を笑って解消する行為です。たとえば学校の人気者が先生のマネをして笑いをとるというのがよくありますが、先生は教育場における場を支配する強い他者です。その先生を滑稽に演じるのは、学校という暗黙の強制力が強く働く場を破ることです。演出としての笑いは、暗黙の強制力が強く働く場を演出し、それを如何に破るかが重要になります。