ジジェクはなぜ映画を語るのか

ジジェクはなぜ映画を語るのか。フロイトラカンは神話、小説を、自説を説明する隠喩として効果的に使った。しかしジジェクの映画論はそれとは違うように思う。ジジェクは映画をあたかも「リアル」な体験のように語るのだ。

われわれは映画がフィクションであることを知っている。だからどれだけSFXが、CGが発展しようが、楽しめるのである。映画館であり、ディスプレイであり、画面と私たちには「確実な距離」がある。鑑賞しているというコンテクストにおいて、映画はフィクションなのである。

しかしほんとにそうだろうか。美術館という鑑賞の場(コンテクスト)に「泉」*1と名付けられた便器が、展示されたとき、われわれのリアルは混乱する。日常の象徴が、フィクション場にあられる。「確実な距離」の先に日常が現れ、それがフィクションとして見るように強要されたとき、われわれが嫌悪したのは、便器でさえ、偶有性から単独性への転倒が可能なこと、すなわち神話となりえるということである。それは逆説的に、フィクションと「確実な距離」があるはずのわれわれのリアルはほんとうにリアルなのかということである。リアルとは、私の単なる思い込みでしかないないのではないか。私という存在は、神話の上に辛うじて立っているだけではないのかと言うことの恐怖である。

現代、便器はディスプレイの中である。そして美術館の「泉」のように「リアルとはなにか」という問題提議さえ隠蔽し、本来、そこにあるはずの「確実な距離」は消失している。なぜなら「泉」とは、「私」であるからである。そこでは、便器が「泉」であることと私が「私」であることに、差異を見いだすことなどできないのである。だから私たちはテレビによってリアルを学び、テレビの中に住むことに、疑問を持たないのである。テレビの中こそがリアルである。それによって私という便器は「泉」になるのである。




晩期資本主義の消費社会で、物質のもつ重みと慣性の欠けた現実の生活を真似たでっち上げを作り出しているのはハリウッドだけではない。「現実の社会生活」そのものが、でっち上げのまがいものという特徴をおびはじめているのだ。そして隣人たちは「現実」の生活の中で、舞台の俳優やエキストラと同じようにふるまっているというわけだ。

9月11日にニューヨークで起きたのは、これと同じような次元のことではなかったか。この町の市民は、目覚めて、現実の砂漠へと導かれたのである。われわれが目にした崩壊するタワーの光景とショットは、ハリウッドがすでにうんざりとするほどみせつけてきた世界の破滅を描いた巨大なプロダクションの作品を思い出させずにはいないのである。・・・・メディアはテロリストの脅威にわれわれをうんざりさせるほど報道しているが、この脅威には明らかに、リビドーが備給されているのである。『ニューヨーク1997』から『インディペンデンス・ディ』までを考えてみてもわかるだろう。実際に起きた考えられないことが幻想の対象なのだ。ある意味ではアメリカ人が幻想してきたこと、まさにそのものが発生したのであり、これがアメリカ人にとっての最大の驚きなのだ。(「現実という砂漠にようこそ」 スラヴォイ・ジジェク*2

ジジェク「手紙は必ず届く」ということと、デリダ「手紙は届くとは限らない」ということは、便器には届かないかもしれないが、「泉」には届くということである。現代においては、ジジェク「リアル」であり、デリタが「フィクション」ということになるのだろう。神話なしには私は「私」でいることができないのだから。

ただジジェク的リアルだけが、リアルではない。われわれが「夢見る便器」である以上、夢は一つではないし、ひとところに収まらない。たえず、あらたな夢を見続けるのである。ジジェク「9月11日にニューヨークで起きたのは、この町の市民が、目覚めて、現実の砂漠へと導かれたのである。」ということも一つのリアルな夢であり、そのようにいうことによって、夢はさらに異なったところに移ろうとする。われわれがリアルな神話を求めるのは、私が「私」であり「続ける」ためだからである。

このような、「夢を見続ける」時代が、ベンヤミンアウラの消失」といったものであろう。アウラの消失」とは神話時代の終焉ではなく、ひとところにおさまらず、移り変わり、絶えず神話を捏造し続けることを強いる時代である。「手紙を出し続けなければならない」のは、届かないからかもしれない、のではなく、受け取り続けることによってしか、「泉」でおれない、便器であることが暴露されるからである。




爆撃がこれほどに破壊的な影響を与えたことのほんとうの意味は、ディジタル化された第一世界と、「現実の砂漠」第三世界が、明確に分離しているという背景を考えなければ理解できない。われわれが生きているのは、ある悪意をもったエージェントが、完全な破壊をめざしていつもわれわれを脅かしているという考え方を生み出すような隔絶した人為的な世界であることを自覚しなければならないのだ。(同上)

現在において、「ディジタル化された第一世界と、「現実の砂漠」第三世界が、明確に分離しているという背景」は、もはやリアルではない。イラク戦争がおこり、日々新たなリアルが画面からながされ続けている。もはや私が「私」であるためには、テロリストを便器から「泉」にするしかないのである。日本において、それが人質事件の「報道」であって、それはテロリストであり、ジャーナリズムによる演出であったが、それを受け入れがたい感情は、人質を「泉」としバッシングすることによって、テロリストを便器のままでやり過ごしたかったのである。そうではなくて、われわれは「的確に」テロリストを「泉」として、憎まなければならないのである。

「歴史から〈休暇〉をとっているアメリカ」という考え方はまやかしだ。アメリカの平和は、他の場所での破滅的な事態という代価を払ってあがなったものなのである。ここに今回のテロ攻撃の真の教訓がある。〈ここで〉このような出来事が起きないようにするための唯一の可能な方法、それは〈他のどこでも〉このような出来事が起きないようにすることなのである。(同上)

ジジェクは、「現実という砂漠にようこそ」において、 最後、このように閉めている。まさにこれがリアルという神話であることを象徴するような文章である。「〈ここで〉このような出来事が起きないようにするための唯一の可能な方法、それは〈他のどこでも〉このような出来事が起きないようにすることなのである。」「争い無き世界」という究極の神話である。これはジジェクがこのような夢を見ているということではない。神話は神話で締めくくるという文章的な儀礼でしかない。一部、論壇ではこの言説にすべてを回収させようとする傾向があるが、そこに神性が捏造されていることは理解しておくすべきであろう。