ヨン様はなぜリアルなのか?


ヨン様ブームらしい。ヨン様って・・・ベタベダやがな!というつっこみはよいとして、深田恭子ファンのボクとしては、2002年の史上初!?日韓共同製作ドラマ「フレンズ」が結構おもしろく、その後、ビデオで秋の童話をみて、冬のソナタも すでに見ていた。それぞれになかなかおもしろい。

韓国ドラマのおもしろさはストーリーのベタさである。秋の童話は、お金持ちの家に生まれた仲良しの兄妹がいた。しかし妹は出生時に病院で間違われいて、本当の妹ではないことがわかり、ほんとうの家族である貧乏の家へ戻され、苦労をする。兄妹は恋をするようになるが、双方の家族の反対にあう。ほんとうの妹は性格が悪く、嫉妬して邪魔をする。さらには妹は不治の病であることがわかる・・・ベタベタである。そして冬のソナタも似たようなベタさがある。

日本ではすでにベタすぎてつくらなくなったようなストーリーが「熱く」作られているのである。かつて日本にはそのようなドラマが作られた時代もあった。それは冬ソナ、ヨン様ブームが、おばちゃまがたに支えられていることにもいえるだろう。おばちゃまがたが熱狂するのは、日本ではなくなったかつてのベタさへの回帰である。



では、日本でもまたベタなドラマを作ればいいのでは、と思うだろうが、おそらくそれはできない。日本のドラマの場合、恋愛の障害は、友達コミュニティに閉じている。ある男女数人が出会い、その中で恋の駆け引きする。友人が好きな女性を好きになってしまうなどの三角関係的な障害が描かれる。かつてのトレンディドラマではやったパターンであるが、最近ではそれもベタになり、恋愛だけでなく、そこに自分探しというような問題が絡み合っている。その分、わかりにくく、おもしろくないものになっている。

ベタな韓国ドラマのおもしろさを支えているものが、恋愛の障害が「家族」につよく根付いているということである。韓国ドラマの場合は、恋愛ドラマであろうが、封建的な家族というものが重要なキーワードになる。たとえば、「フレンズ 」では、日本人の女性と韓国人の男性が恋をする訳だが、韓国側の家族がかつての戦争時の経験から、日本人の女性を受け入れがたいことが障害として現れる。また秋の童話冬のソナタでも、父母の世代の反対が大きな障害になる。これは韓国社会には、現在日本に失われた封建的な家族関係の規範がまだのこっているということである。

韓国ドラマのようなベタなドラマを日本で作ると、「リアリティ」を保持する基盤が希薄になっていて、ベタなシチュエーションはベタなままでしかなく、視聴者を引きつけるような「リアリティ」が決定的に欠如してしまうのである。韓国では、基盤とする社会関係=「家族」「リアル」を支えているから、ベタなドラマにおいても、ある種の緊張感が成り立つのである。

現在の日本ドラマの問題は、どこに「リアリ」の基盤をおくかということである。余命短い恋人?、もうすぐ目が見えなくなる恋人?耳の聞こえない恋人?ある意味、もはや「グロな」方向性にしか行き場がない。定期的につくられ、ある程度の支持をえているものに「医者もの」があるが、これも「グロ」一歩手前というところだろうか。白い巨塔ブラックジャックによろしく「Dr.コトー診療所」「救命病棟24時」などなど。



医者ものにおけるリアリティを支えているのは、「死」である。しかしそれは「死」そのものではない。ハリウッド映画などに見られるように、「死」そのものは、リアルではない。医療現場は、「生」への尊厳の場であるという「正しさ」が共有されたときに、死に対するリアリティが共有されるのである。

韓国ドラマの「家族」的な規範を、「正しさ」として持ち得ていることによって、ベタな韓国ドラマにリアリティを感じえるのである。それがなければ、家族ぐるみの婚約者がいても、他の人を好きになれば、他の人のところへいけばいいじゃん!なにベタベタしてるの、かったるい。となる。

「正しさ」があり、その「正しさ」が環境との軋轢の中で、「狂気」として現れるときに、強烈なリアリティが生まれるのである。ここでいう「正しさ」とは、論理的なものではない。それは私が私であるという根底に根ざしたものであり、疑うことさえ知らないもの、それは論理以前のものであり、「神話」である。だからヨン様はリアリティであるが故に、新たな「神話」となりえたのである。

9月11日ニューヨークテロのリアリティはどこにあったか?ボクはビルの崩壊や、その後、多くの死傷者がでた事実ではなく、2台目の飛行機がつっこんだときに強烈なリアリティを感じだ。一台目も衝撃であったが、それは事故かもしれない、テロかもしれない。しかし見た目には、死傷者もでているかもしれないが、TV画面にはそれほどの惨事にみえなかった。しかし2台目の飛行機はつっこんではいけなかった。2台目の飛行機には、 ブルース・ウィリスが乗り込んでいて、寸前のところで、回避すべきところに「正しさ」があったのである。その正しさが破れられ、狂気が現れたときに、リアリティが現れたのである。そして「神話」となったのである。



リアリティは、「他者」とのコミュニケーションによって勝ち取るが、現代では、「他者」は必ず現前していない。多くにおいてマスメディアの向こうの他者である。すなわち私たちはそれぞれの「リアル」をもってはいるが、ここでは共主観的な「リアル」大きな物語を共有しあうことが難しくなっている。だから共主観的リアルを捏造するドラマは、多くの人へリアリティの緊張感を与えることがむずかしくなっている。

リアルが多様化し、他者の「リアル」を感じられない。そこでは他者の死にさえ、リアルをもてなくなっているとも言えない。はたして、多様化されたリアルは、リアルだろうか?