なぜ電車内で携帯電話を使うといけないのだろう。


なぜ電話内で携帯電話を使うといけないのだろう。斉藤環氏によると、以下のようになる。

ラカンを援用すれば、こんな問題はすぐに解ける。・・・電車内で携帯電話をかける人は、電車内で訳のわからない独りごとを大声で呟いている電波系の人と同じ存在だから。あの理屈抜きの、ほとんど反射的な嫌悪感のみなもとは、そこにある。・・・精神病の人の言葉は、どんなに表面上は僕たちの言葉に似て見えても、本質的に「違う世界」の言葉なのだ。・・・たとえ精神病じゃなくても、独り言を呟き続ける人は、どこか僕たちに異様な不快感を与える。同じ世界にいるはずの人が、別の世界を背負って歩いているようなものだからね。(「生き延びるためのラカン斉藤環

これは、電波系の言葉、象徴界としての「言葉」は、他者にはわからない故に不愉快になるというような意味だろうか。確かに、電車で独り言を話されるととても不快というか、怖くなる。それは明らかにコミュニケーションの不可能性を現している。彼の行為が理解できない、予測できない、こちらから話しかけてもわからないだろうという、分かり合えないことに対しては恐怖心を覚える。しかしこれは携帯で話されることの不快と同じだろうか。



昔、NHKだったと思うが、その筋?の専門家がまじめに討論していた。某大学教授がいうには、電車内は緩いコミュニティになっているということだった。だからそのコミュニティの「繋がり」を裏切って、外とコミュニケーションすることに、人は不快になるというものだった。

確かに仲のよい友達コミュニティといるときに、一人長々と電話されると不快になる。そんなにそいつと話したいなら、そいつのところにいけよ!今は、われわれのコミュニティとしてコミュニケーションしているんだから。って感じだ。しかし、見ず知らずの人々が乗り合わせた電車にコミュニティ的な絆ができるだろうか。



ボクの場合は、逆に誰かが電話していると、ちょっと楽しくなる。のぞき見感覚というか。女性がいきなり楽しそうに話しだしたり、サラリーマンがいきなり仕事の話で必死になったり、無表情な人たちがいきなり豹変する?ナマの姿を見るのが楽しかったりする。

しかしとにかく気になるのは、確かである。それは電車内でおしゃべりしている人々よりも、とにかく気になる。その当たりが、「不快さ」を感じる要因だろう。人の会話には人は生理的に強く引きつけられる。たとえば電車の中の会話でも人は、聞いていないようで耳にしている。しかし電車内での会話では、あまり込み入った話はしないものだ。だから電車内の会話を耳にしても、少し耳に入れば、だいたいこんな話かなということで、あとは聞き流し、気にならなくなる。

しかしもし電車で込み入った話をする人たちがいると、おそらくそれは聞きたいということ以前に強く引きつけられるだろう。それは携帯電話の会話と同じように、不快になるのではないだろうか。携帯の会話が気になるのは、話が見えないからだ。何気ない会話でも、片方しか聞こえない声という不完全さが、強く人を引きつけてしまう。「まじで!ははははは」と言われると、人は何が?と思ってしまう。しかし電話の向こうの声、相手の状況が見えない。

携帯電話では、電車外の人は電車内の空気感を読めないので、込み入った話をする。電車内の会話者は、それに答えてしまう。それを「聞かされる」人は、特に聞きたくないのに、聞かされてしまう。そこには強制力が生まれるとともに、話がわからないという疎外感を「味あわ」されてしまう。言葉には、人を引きつける強い吸引力があるのだ。ボク風に言えば、「人は世界を他者の痕跡として認識する。言語は特に強い他者の痕跡である故に、強く引きつけられずにはおれない。」ということになる。



そういう意味では、電波系の人の独り言の不快さは、それが意味がない言葉だとわかっていても、人は引きつけられる。さらにその不完全さ故に、聞かされてしまう。そして電車内は儀礼的無関心の場として、コミュニティの力が働いている。人々は互いに、無関心という秩序を壊さないよう保とうとしている。それを強制的に関心を持たせるような力に、人は不快感を感じる。

しかし、海外では必ずしも電車内の携帯の使用を禁止していないようである。そのような意味では、個人的には、日本は少し神経質なような気はする。このような「儀礼的無関心」の高い秩序性は、社会全体を息苦しいものにしているのも確かである。ボクは、電車内で携帯ぐらい使えってもいいんじゃない。そもそも携帯なんだからさ派ということで・・・