エロビデオはなぜワンバターンなのか?


エロビデオはなぜワンバターンなのか?フェラ、クンニ、指まん、挿入、3P…だいたいやることは決まっている。SM系、露出系、獣系?などその他バリエーションはあるのだろうが、一般的に楽しまれているものは、どれもパターン的には似たようなものだろう。しかしつぎつぎと作られていく。

この「大いなるワンパターン」を支えているのが、性行為のパターンそのものではなく、「女優」の活発な交代だろう。AV女優の寿命はどれぐらいだろうか。長くて二年?男たちは、女性がかわることによって大いなるワンパターンに「リアリティ」を見ることができるのである。

女優がかわるということは、どういうことだろうか。そこには、男は、「普通の女性はAVなどにはでるほど、エロくない」という「正さ」を持っているということだろう。そして男は新しい女優にそのような神性を捏造するのである。そしてそれが破られ「狂気」が見えたときに、リアリティを生み、興奮するのである。エロティシズムのリアリティは「恥じらい」である。そして何本か経験することによって、この女は「普通の女性」ではない「特別なエロい女性」とされ、彼女に対する「リアリティ」は消失していくのである。

現代においても女性は神話的である。根強い男性社会の中で、処女信仰から、かしこい女性/馬鹿な女=身持ちが堅い/エロい、女性は自尉はしないなどなど。さすがに風俗で働く女性は借金のかたに売られてきたという伝説はないにしても、現代において、AVにでる女性は、自分をさらけ出すことによってしか、自分であることができないというトラジェディーはたまに見かける。そしてAV女優は「女神」と呼ばれるのである。



AV女優の消費構造は、まったくもって、現代の消費構造そのものである。「上から二冊目の本」であり、人はこのような処女性の神話を商品に捏造し、それを消費しているのである。アイドルなども同じ消費構造にいるが、その中でも最近特に象徴的だったのが、「イガワハルカ」ではないだろうか。突然登場して、なにが良いのかわからずに、人気者になる。彼女に求められているのはなにかをすることではなく、なにもしないことであるようだ。何かをするこということは、それだけ彼女の神性が崩れ、ただの女性であることが暴露されていくのである。これは当たり前のことなのだが。

しかしなぜかイガワハルカだっだのか?かわいい子は他にいくらでもいる。だれも理解できないが、欲望される。アイドルとはもともとそのようなものであるが、特にイガワハルカのわからなさは、象徴的であったように思う。タレント事務所などの誰かの綿密な戦略を越えたところにあったように思う。

みなが日々それぞれに小さなアウラをみいだしている。そしてアウラは浮遊するのである。そしてなぜか彼女にアウラが集まった。それは自己組織化的、創発的としかいいようがない。その魅力は、言語意味に還元されず、ただ「癒し系」という超越論的シニフィアンに回収されただけである。そして瞬くまに消費されたのである。



ボクはアウラには二種類あると思っている。「加算的アウラ「減算的アウラである。消費は一般的に減算的アウラであり、AV女優、イガワハルカ的アウラは減算である。始めに高い神性が捏造され、情報の消費とともにアウラは小さくなる。それに対して加算するアウラはいわば、創造的なアウラである。情報が経験へと転換されてアウラを増大させる。たとえば、女性とつきあい初めて、つきあうほどに彼女への愛情がましていく。タレントでいえば、時間経過とともに経験を積んで、演技に磨きがかかり人々を魅了する。これらのアウラは二項対立するものでなく、一つのアウラの運動である。

しかし現代は高いアウラに飛びつき消費して、次のアウラに移るという、消費社会である。それは豊かさ、多量の情報伝達量が支えているものであり、アウラを育てていくということがとても困難な時代であると思う。ヒロスエリョウコは持ち上げられ、叩かれ、まさに消費されてしまったが、イガワハルカは今後、じっくりアウラを加算していってほしいものである。ボクは最近はハセキョウがお気に入りであるわけだが。



こまったことにボクらは年中発情している。哲学さえ性的欲求不満をもとにしていると、フロイトがいったかどうかはしらないが、近いものがある。なのに哲学的言説からは性的な言及は排除され、生きていることに意味がないとか言うことになる。ボクらはセックスのために生きているわけではないが、「性的関係」からのがれられない以上、意味を求めることからのがれられないのである。

しかし性関係なことを語ることは困難を伴う。それは一つは(主観的を越えた)ブライベート的になるからだ。たとえば男優はベットシーンがはずかしいらしい。人のプライベートなセックスを見る機会はそうそうない。だからベットシーンでは自分流でやるしかないというわけだ。まわりへ「おまえっていつもこんなやり方なんだ」と暴露するようなものらしい。

しかし外国女性によると日本の男のセックスは独創性にかけ、だれも同じようなパターンらしい。セックスにどれほどのバリエーションがあるのか、興味があるが、日本人のセックスはアダルトビデオ化しているということだろう。みなが知らず知らずにアダルトビデオを教科書にしているのである。



最近テレビでみていて一番笑ったのが、島田伸助がいっていた「男は街を歩きながらすれ違う女性を見て○×をつけている」というものだ。まったくもって同感である。街に儀礼的無関心という秩序があるとすると、それとは位相的に、儀礼的性関心」があるといえないだろうか。かわいい子、綺麗な人、肌の露出などを見ることはなんともはや小さな幸せの気分になる。しかし見すぎるのは儀礼に反するが、女性も見られてまったく悪い気はしないのではないだろうか。小さなアイコンタクトという儀礼は存在するだろう。

この儀礼的性関心」という視線は社会生活において、思った以上に大きな役割を果たしているように思うのだが、一歩間違えば、セクハラだ。セクシャルハラスメントは新しいモラルであり、ボクがいった電車内の携帯電話禁止という社会の神経質化の一面かもしれないが、ボクはセクハラというモラルには賛成派ではある。電車内の携帯電話使用よりも、微妙で、難しい問題だとは思う。