人はなぜすべてを理解したいのだろう


人はなぜすべてを理解したいのでしょう。それは一つは進化論的に説明されるでしょう。生命がもつ自己増殖する特性は、世界を征服し、繁栄することを指向しているという考えです。たとえば、ニーチェ力への意志は、進化論から多大な影響を受けているようにおもわれます。ニーチェによると、人の根元性は力への意志にある。力への意志とは、生命が本来的にもつ生きようとする「利己的」な力です。

ニーチェは、人は、世界が理解できないことの恐怖心から、世界は安定した真理に基づいており、理解できるとしたキリスト教や、形而上学を信仰している。ここに現れる「利他的」な道徳観は、本来の力への意志「利己的」からの転倒であり、ルサンチマン(人の弱さ)であり、ニヒリズムであると批判します。

このような真理性の捏造はボクがいうところの「神性の捏造」につながります。人が理解するということは、言語化することを表します。あたらな謎が現れると、それを言語化することによって、理解したように振る舞います。たとえば、ある女性の美しさに惹かれたとする。なぜその女性に惹かれるのかは謎です。それは言語で説明できません。そのために確定記述に還元できない余剰がうまれるます。そして彼女を超越論的シニフィアンである「女神」と名付けることによって、余剰はシニフィアンに回収されます。そして理解されたように振る舞います。

謎を名付けることによって、回収し、世界はすべて理解されたことになります。そのもっとも特徴的なものが「神」です。人は窮地に陥ると、その言語で説明できない不安を「神様」という超越論的シニフィアンによって解消しようとします。さらに宇宙への畏敬の念、富士山の荘厳さ、夕日の美しさなどなど、言語で説明できない多くの謎は、「神」というシニフィアンに回収されます。



力への意志は、ニーチェ的には進化論的な「利己的」な生きようとする内的な力ですが、ボクは、そこに「利他的」な「間主観性」が見られるのではないかと考えています。言語化するということは、他者とコミュニケーション可能なように認識するということではないかということです。言語化されない余剰は、他者へ伝えることが困難です。夕日への感動は、言語化さることが難しいために、他者に伝えることが難しい。しかしそれを抽象的で詩的な言葉(シニフィアン)へ解消することによって、少しでも他者に使えることができるようになる、というようなことです。

しかしこれは、人が意図をもった行為というわけではなく、ニーチェのいう力への意志という生の力の一部です。すなわち人はアポリオリにそのような他者志向性をもって、世界を認識している。人はそもそもにおいて、コミュニティを前提とした存在であるということです。

人はなぜすべてを理解したいのだろう。それは他者に伝えたいがために、すべてを理解したいのである。ということです。これはボクがいうところの、「認識とは根元的に他者志向性を持っている。人は「痕跡」として世界を認識する。他者とコミュニケーション可能なように、他者が見ているように、世界をみる。」ということにです。



たとえば、人以外の動物はどうでしょうか。言語は持ち得ないとしても、認識は他者へのコミュニケーション志向性を持ち得ているでしょうか。他者がみるように世界を見ているでしょうか。

感情、感性は人がもっとも発達しているでしょう。嬉しい、楽しい、苦しい、悲しい、美しい、可笑しい、感動的、腹立たしい、憎たらしい・・・動物はこのような多様な感情はもっていないでしょう。しかしこれらの感情は明らかに言語によって成り立っています。たとえば、楽しいと嬉しいの違いは、人の内的な余剰(あるいは生理的な反応)の違いではなく、コンテクスト(状況)の差異であり、文脈上の言語表現です。「遊園地にこれて嬉しい」、「遊園地は楽しい」というときの、嬉しいと、楽しいに人の内的な余剰(生理的な反応)の違いなく、コンテクストの差異による言語表現上に違いです。よって、感情といわれるもは、言語化によって豊かになったのです。

このような意味では、コミュニケーションの複雑さが、感情を複雑にしているということが言えるかもしれません。猿が怒っているのは、それはそれで他者へのディスプレイだといえることができます。そのような意味では、動物は持ち得ている生理能力にみあった「他者志向性を持ち、「痕跡」として世界を認識し、他者とコミュニケーション可能なように、他者が見ているように、世界をみている。」と言えるかもしれません。そして動物もすべてを理解しようとしていると考えられるかもしれません。

力への意志とは、生存したいという「利己的」な力とともに、他者、コミュニティと分かり合いたいという「利他的」な力を持ち得ているのではないでしょうか。ここでは、宗教や形而上学という「神性の捏造」ニーチェがいうような単なるニヒリズムではない。それも人に根元的な力への意志の一面であるということです。