モーヲタはなぜ人を殺さないのか


「なぜ人を殺してはいけないのか?」というときに、すでに様々な意味が含まれている。「人を殺してはいけない」ということが前提とされていること。さらにこの禁止の倫理観の起源を問うものであり、先天的であるのか、後天的であるのか、先天的ならば変更不可能でありいわば「真理」であるが、後天的なら変更可能な規範でしかない、ということである。

先天的については、それは進化論に基づいているのかもしれない。生物は同種を殺すことを避けている。それは殺すことが、殺し合いを意味し、自分にとってリスキーな行為であるということ。さらに生命の目的が繁栄なら、遺伝子に殺しあいをさけるプログラムがなされているのかもしれない。しかし先天的な起源を確かめることは難しいだろう。将来、「人を殺さない遺伝子」が発見されるだろうか。



しかしこの問いにはまた別の意味が含まれているようにおもう。殺さないことが先天的な「真理」とするにはあまりに人はよく人を殺す、という事実はどのように説明されるのかということである。ニーチェは、人の根源性は利己的な生の力であり、道徳的な利他性はルサンチマンであるといった。

ニーチェによれば、「他者のためにする行為が善である」という利他的な道徳観は、弱い人々のルサンチマン(反感、嫉妬)からきている。人の根元性は生きようとする「利己的」な生の力、力への意志にある。道徳的な利他性は本来の価値からの転倒である、ということである。

ニーチェ的に考えれば「人を殺してはいけない」はルサンチマンであり、「生きるためには人を殺しても良い」ことになる。しかしこれは明らかに進化論的誤謬だろう。生きるという生の力は利己的ではない。生命界をみればわかるように、彼らは闘争的である以上に共生的に生きている。動物界は利己性とともに利他性も内在している。だから道徳は単なるルサンチマンでなく、生きることに根差しているといえるかもしれない。



しかし人間と動物で同様に利他性を持ち得ているとして、なぜ人間において「暴走」するのか。一つには、テクノロジーの問題があるだろう。人は、知能を向上させ、科学技術を向上させた。動物に比べ、容易に人を殺しえるようになったしまった。動物が同種を殺すことは、自己の命もかけるリスキーな選択であるが、われわれにとって同種を殺すことは、とても容易な行為となってしまったのである。

二つ目には、ニーチェの思想の中に見られるのかもしれない。「人を殺してはいけない」ということが、仮に先天的な利他性であったとしても、人はそれを宗教、道徳、形而上学のように「信仰化」するのである。「なぜ人は人を殺すのか」と問うときに、たとえば戦争などで人が人を殺すときには、「殺してはいけない」という倫理観を利己的に無効にするというよりも、あるコミュニティ内の利他的な「殺してはいけない」という倫理観をもつ「信仰」を守るために、他のコミュニティを排他することから、「人を殺す」のである。そこには利他的な正義がある。利己的にではなく、利他的に人は人を殺すのである。

ニーチェによると、人は生きるのが苦しい。苦しい故になぜだろうと、意味を問うてしまうということである。意味はそもそも無い故に、神、真理という超越的価値が捏造され、信仰されるということである。ニーチェの批判は利他性そのものでなく、「利他性の信仰化」への反論において意味があるということができる。そしてこれがニーチェ現代思想の源流と言われる所以である。



しかし「信仰性」の構造はもう少し複雑化かもしれない。ジジェクは、コミュニティについて、イデオロギーを信じていないにも関わらず、イデオロギーを信じているように振る舞ってしまうということを、指摘している。これは、ニーチェのいう「不安を解消する」という目的のために行われるはずの「信仰」が、「信仰すること」そのものが「目的化」していることを意味する。「信仰すること」そのものが目的化するとは、「信仰すること」がそのコミュニティへの帰属のためのパスポートとなるのである。「そして、なぜそれを信仰するのか」という信仰の内容そのものは無効化されていく。

このような「信仰の目的化」は、宗教に限らずかなり一般的なことではないだろうか。たとえばモーニング娘の熱狂的なファンは、そのはじめに何らかの理由でモーニング娘に惹かれたのかもしれない。しかしモーニング娘を追いかけ続けるとき、すでにはじめの目的は無効化され、モーニング娘を追いかけること」が目的化されている。

しかしそのはじめに本当にモーニング娘そのものに惹かれたのだろうか。そのはじめから、みなが熱狂するモーニング娘というコミュニティに惹かれ、帰属することを望んだのではないだろうか。2ちゃんねるモーニング娘板を見ていると特にそのように感じる。彼らがモーニング娘のファンであるのは、モーニング娘を象徴とするコミュニティに帰属し、コミュニケーションを楽しむためであるように見える。ジジェク風にいえば、モーニング娘を好きでないにも関わらず、モーニング娘を好きなように振る舞ってしまうのである。ここではモーニング娘という象徴は、神性化されていくのである。私はこのようなコミュニティを、「記号コミュニティ」と呼んでいる。



ここにおいては、捏造されているのは、神や、真理そのものではない。神や、真理、あるいはモーニング娘を象徴とする他者であり、コミュニティである。そして捏造しているのは、聖職者や、哲学者や、芸能仕掛け人ではない。記号コミュニティは、帰属している人がそのようなコミュニティがあり、そのようなコミュニティに帰属しているという意識によって、捏造されるのである。

このようなコミュニティへの帰属は、主体にとっての一つの運動である。モーニング娘ファンは、モーニング娘の情報を入手したり、CDを購入したりすることによって、コミュニティ内のコミュニケーションを活発化させる。コミュニティ内に自分の位置を確保し、その位置が自分そのものの意味となるのである。コミュニティへの帰属が自分の一部を形成運動なのである。

モーニング娘への「信仰」と、宗教的な「信仰」では、その強度は異なるだろう。それはどれだけ自己形成に根ざしているか違いである。一般的に原理主義者のように、モーヲタは信仰のために、人を殺さないだろう。しかし人はこのような信仰の束によって、自分自身でありえるのである。人は自分のためよりも、強く帰属するコミュニティの(仲間の)ために情動的になる。それはニーチェのいうルサマンチンではなく、力への意志といえるだろう。



人は純粋に利己的に人を殺すことができるだろうか。多くの殺人者はその犯罪についての言説をもっている。それが社会的に理不尽で、いいわけで、意味不明な主張であっても、人を殺す行為にはなんらかの正当性、すなわち記号コミュニティの承認が捏造されているのではないだろうか。だから人を殺すという行為は、「殺してはいけない」という倫理観を利己的に無効にするというよりも、むしろ利他的な「殺してはいけない」という「信仰」からくる排他性を持っているのではないだろうか。

人類のトラウマとなったナチスにしても、また北朝鮮にして、同じ構造で考えることができるのではないだろうか。ヒトラー金正日は、イデオロギーコミュニティの象徴でしかない。人々は、イデオロギーを信仰しているというよりも、そのようなコミュニティに帰属し、自分自身を形成している故に、「コミュニティに承認された正当性」を捏造し、虐待はそのコミュニティの正当性の維持において行われるのである。

ニーチェは「信仰」に対して、まず「徹底的ニヒリズムにむかうべきであるといった。それは信仰を徹底的に疑い、この世界には意味などがない。許されないことはないということである。しかし信仰が記号コミュニティへの帰属であり、自分の一部である場合に、そこに疑うべき言説が存在するだろうか。

あるいは、コミュニティの捏造が、私が私であるということの上に成り立っているなら、人は自己否定することができるだろうか。われわれはこのような「神話」から逃れることができないのである。だから「人を殺してはいけない」という神話からも逃れられないし、それ故に人が人を殺すことからも逃れられないのではないだろうか。