なぜ「神話なき神話の時代」なのか? 三度

神は死んでも「神話」は生きる


ニーチェ「神は死んだ」といった。ボクたちはもはやかつてのような神のいる世界には住んでいない。そして神にかわってボクらの生活を司っているのが科学技術である。ボクらは科学技術による「客観的世界」の住人である。哲学などをすると、「真実などどこにもない」ということを知ることになるが、それでも人はリアリティのよりどこを科学技術においていることは否定できないし、多くにおいてそれを「真実」と呼ぶ。ボクらは「神話」という言葉に対して、不信感を抱いている。それは神話/科学の対立において、科学技術でさえ「神話」であることを隠すためである。

ボクたちが新たな神話の世界に生きていることは、否定されることでも、卑下されることでもない。ボクらに神話が必要なことは生理的なレベルで避けられないことである。



「神話」は自己とコミュニティのリアリティをささえる


「生きる」ことを至上命令としている生命、特に行動のための状況判断求められる動物にとって、「神話」を持つことは必然である。(ボクらって生きることが至上命令なの?別にそんなに生きたいと思わないけどなあ・・・とお嘆きのあなた、あなたの「意志」がどうブーたれようと、あなた自身がいまも呼吸し、体温の調整を行い、血液の循環を行い、生きようとしている事実にはかわりがありませんよ。)

「神話」は生命が世界にリアリティをもって関わることを支えている。そして「神話」は個々人の中にあり、コミュニティで完全に共有されることはない。しかし「神話」はコミュニケーションによってしか、作成されない。

そこにあるのは、身体的な生存という意味での「生」と、自己同一性を保つという意味での「生」である。自己同一性を保つとは、「自分自身でありたい」という単独性への渇望でもある。そして「自分自身でありたい」とは、コミュニティの中の相対的な位置としてしか存在しない。ボクらは、身体的な生存/コミュニティの一部としての自己同一性という両義性に立つ存在である。「神話」はこのような両義性のバランスで作成され、自己とコミュニティのリアリティをささえている。



神話は遊技的で歪(いびつ)で野蛮な姿をしてあらわれる


現代の問題は、科学技術さえ一つの神話であるということではなく、その神話が揺らいでいるということである。リオタールがポストモダンとして指摘したように、かつてのような大きな神話によってみながリアリティを共有することをことが出来なくなっているだけでなく、ポスターが、デリダを引用しながら、指摘するのは、「電子的マークは、脱構築がすべてのエクリチュールに固有であると論じた、反ロゴス中心主義的な傾向を急進化させるのである。」、「情報化社会において、自立した主体が散乱している」*1ということである。大量の情報の海で、個々人のそれぞれのリアリティさえ、おぼれかけているということである。

たとえば長崎の小学生女子による同級生殺人事件がネット掲示板でのいざこざを原因とするというような言説を聞くと(その真意はともかく)、ネットにはディスコミュニケーション性が存在し、それが様々な問題を生んでいると思う。そして2ちゃんねるに特徴的なように、そこには参加する主体も含めてすべてのものを飲み込み解体するという脱構築装置として作動する。

だがボクは、2ちゃんねる、ブログなどを見るにつけて、このような考察とは異なる感慨をもつ。それらは氾濫する情報の海で戯れる姿であり、知識で遊ぶ順応性としたたかさである。そこにはベンヤミンのいう複写技術時代の遊技性がある。

歴史上、狂気、偏見と呼ばれ、どれだけの凄惨な結果を産み続けようが、ボクらは「生きること」に根ざした「神話」を構築しつづける。それは宗教であろうが、科学技術であろうが、TV番組であろうが、2ちゃんねるであろうが変わらない。そして新たな神話は、理性的な姿としてでなく、オタクであり、コギャルであり、2ちゃねらーであり、ヨン様ヲタであり、それまでの価値観に対して歪な、そして野蛮な姿であらわれる。


その3になりました。定期的に書かないとこのブログの趣旨を見失うぅ〜・・・

 *2 *3

*1:情報様式論 マーク・ポスター id:pikarrr:20040413

*2:神話なき神話の時代 id:pikarrr:20040616

*3:神話なき神話の時代、再び id:pikarrr:20040622