神話なき神話の時代 名場面集 その1

溢るる余剰/記号コミュニティ/シニフィアン/小さなアウラ

解説・・・・人は他者とのコミュニケーションを前提に存在する生き物である。しかし自分の中で起こったことを完全に他者に伝えることはできない。そのために人は伝えられない余剰(溢るる余剰)をなんとか言語に込めようとする。言語とは本質的にそのような余剰を回収した超越論的シニフィアンとして機能する。すなわち人は信仰(小さなアウラ)というファクターを通してしか、コミュニケーションできなのである。

浜崎あゆみに対する余剰は「カリスマ」へ、未来に対する余剰は「運命」へ、社会的事件に対する不安という余剰は加害者の「神秘性」へ、芸術作品に対する余剰は「アウラ」へ。言語意味(確定記述の束)へ回収できない「溢るる余剰」は、超越論的シニフィアンへ解消されます。そして言語はいつも「誰が、何のために(意味))」(他者志向性)として現れます。「誰が」は「神性」を、「何のために(意味)」は、「神話」を捏造します。・・・言語は本質的に、言語意味に回収できない余剰を含み、小さな神性(小さなアウラ)が捏造されています。イデア的同一性、形而上学的二項対立、否定神学・・・人は神性の捏造から逃れることはできません。それは正義という暴力でありますが、正義という生きる力でもあります。
   「言語に回収されない溢るる余剰どうしてる?

人が理解するということは、言語化することを表します。あたらな謎が現れると、それを言語化することによって、理解したように振る舞います。たとえば、ある女性の美しさに惹かれたとする。なぜその女性に惹かれるのかは謎です。それは言語で説明できません。そのために確定記述に還元できない余剰がうまれるます。そして彼女を超越論的シニフィアンである「女神」と名付けることによって、余剰はシニフィアンに回収されます。そして理解されたように振る舞います。・・・人はなぜすべてを理解したいのだろう。それは他者に伝えたいがために、すべてを理解したいのである。ということです。これはボクがいうところの、「認識とは根元的に他者志向性を持っている。人は「痕跡」として世界を認識する。他者とコミュニケーション可能なように、他者が見ているように、世界をみる。」ということにです。
   「人はなぜすべてを理解したいのだろう

言語という静的な意味へと還元されない余剰が、女性へあの吸い寄せられるような感覚として、溢れ続ける。そしてその余剰を解消するために、男女の場では、女神であるとか、天使であるとか、運命であるとか、奇跡であるとか、神が捏造され、超越論的なシニフィアンが飛び交う。
   「ギャルウォッチャーは、生理的に欲望するか?無意識的に欲望するか?

消費とはシニフィアンの暴走と呼べるかもしれない。かつては、溢れる余剰は「神」というシニフィアンに回収されていた。そのタガがはずれたとき、余剰を回収するシニフィアンが、氾濫しだした。シニフィアンとは、記号コミュニティへのパスポートである。記号コミュニティとは、捏造された他者である。他者から、「あなたはあなたである」という承認をもらうために、人はシニフィアンを欲望するのである。・・・神という究極的な他者=シニフィアンによる承認をもらうことができなくなった主体は、承認を求めて、つぎつぎとシニフィアンを代えながら徘徊することになった。すなわち、シニフィアンを消費しては、次のシニフィアンへ向かうという終わりなき徘徊である。
   「環境問題にはなぜリアリティがないのか

われわれは懸命にコミュニティへ帰属するために物語を演じようとしている。恋愛をしないといけないし、はやりのデートスポットにいかなければいけないし、十代で童貞をSEXを経験しなければならないし、はやりの服を着なければいけないし、話題の本を読まないといけないし、話題の映画をみないといけないし、ブログを書かなければいけないし、夏にはプールにいって焼かなければならないし・・・われわれは消費という物語を演じることによって、コミュニティへ帰属し続けようとしているのである。
   「 「あいのり」のおもしろさ

意味世界では、余剰は言語(シニフィアン)へ回収され伝達されるが、そこではたえずわかった「ふり」、共有した「ふり」をする必要がある。なぜなら、共有されなければ私の意味がコミュニティから承認されることが、不可能になり、私の意味はいつまでも中ずりになるからである。だからそれは「ふり」を越えて信仰されるのである。本当に共有したように超越的次元として捏造される。意味にはいつも「ふり」を含んでいる。宗教、イデオロギー、道徳、文化など、共有された「ふり」の超越的次元を含んだ意味であり、その意味を理解し、同意したように信仰されるのである。それは私に根ざした、コミュニティに根ざしたものであるからだ。
   「デジタル製品を買うとなぜわくわくするのか

ジジェクは、コミュニティについて、イデオロギーを信じていないにも関わらず、イデオロギーを信じているように振る舞ってしまうということを、指摘している。これは、ニーチェのいう「不安を解消する」という目的のために行われるはずの「信仰」が、「信仰すること」そのものが「目的化」していることを意味する。「信仰すること」そのものが目的化するとは、「信仰すること」がそのコミュニティへの帰属のためのパスポートとなるのである。「そして、なぜそれを信仰するのか」という信仰の内容そのものは無効化されていく。
   「モーヲタはなぜ人を殺さないのか

たとえば、教育者などははなぜ倫理的でなければならないのか。それが犯罪でなくとも、「不謹慎な行為」をすることは非難のまとになります。これは、コミュニケーションにおける同意は、多くの説明よりも、余剰を回収ような記号コミュニティ、あるいは、神性という他者の捏造によって、あの人(神性)のいうことなら、あの話(神話)なら信用しようというレベルで行われるからです。
   「痕跡の世界

単に「人は寂しい動物」ということではない。それは、自分とはなんであるのか、ということである。自分とは、コミュニティに帰属し、その位置によって確立される。だから自分が自分であるためには、このような記号コミュニティへ帰属し続けなければならない。そしてテクノロジーの加速的な発展が、そのような欲望を加速させているのである。そしてその先にあるのが、「見られたい人」に見られたいということだ。それはコミュニティに帰属し、私がなにものであるかとということを、より複雑に、詳細に私のコミュニティ内の位置を相対化する他者である。
   「人はなぜ繋がりたいのか?

では、「見られたい人」とは誰か?ブログをするということは「ブログ」という記号コミュニティへ帰属することである。だから他のブログは気にかかる。そして他のブログとの相対化によって自己位置がより明確になる。これをボクは「差異化運動」と読んでいる。・・・「見られたい人」とは、「私である他者」であり、私が何ものかを、より複雑に明確にしてくれる他者である。そのような出会いによって、私は私であるという充実感を得ることができる。
   「ブログはなぜ書かれるのか