なぜ認知科学は「リアル」なのか? スラヴォイ・ジジェク「ジジェク自身によるジジェク」 <収束するポストモダン その4>

pikarrr2005-03-30


ジジェク自身によるジジェク


スラヴォイ・ジジェクジジェク自身によるジジェク(2005/2)ISBN:4309243312。その題名のようにインタビュー形式でジジェク思想のダイジェスト版であり、ラカン思想をもとに、政治、社会、文化、サブカルまでを軽快に?語られ、なかなかおもしろいものになっている。しかしラカンの主体像はすでに古いモノになっているとも言われる。ポストモダンにおいて、人々に共有された「正しさ」を支えていた象徴界が不安定になり、もはや欲望の方程式は時代遅れだ、と言うことである。




認知科学的な私」


現在の主体像を支えているのが、認知科学ではないだろうか。生物としての私、遺伝子としての私、脳としての私など、認知科学的な私」が、TV番組であり、本であり、「利己的遺伝子」から、「馬鹿の壁」クオリアなど、その手のものが巷にあふれている。そして、なかなかおもしろい。

科学的言説とは偶有性の物語である。この世界はなにものの意図もなく、偶有性によりできている。それが科学体系の最終目標である。たとえば神の啓示のような美しい自然法則の方程式も、その先にはかならず偶有性から説明されるだろう、ということである。

だからこのようなラカンがいうところの現実界における知」ジジェクのいう「科学的な現実界」)の解は、「単なる分子の配列であり、一個の脳の妄想である。」という「あなたがあなたであることに意味はない。」という偶有性である。だから認知科学的な私」と言う言葉は、パラドクスを含んでいる。認知科学が提示するのが、そこに生物(動物)としての人間はいても、主体としての「私」はいない、ということである。




ジジェク的な主体


このような問いに対するジジェクの解答は、遺伝子や脳に還元されえない「過剰」がそこにあるということである。

認知主義者にとっての謎は、自覚という単純な真実を解明することです。なぜ私たちの身体は盲目的な機械のように単純に機能できないのでしょうか。・・・すでに認知主義者自身によって確立されているのは、自覚とは実際のところ還元作用である、ということです。私たちの脳や身体は無数の刺激やデータの一部を処理しており、知覚のインプットはきわめて豊富です。しかし、周知のごとく、私たちの意識は最高でも一秒間に七バイトしか機能しません。ですから意識というのは、大幅な簡素化であり、ヘーゲルの抽象と還元の力を称していたものを反映しています。意識は知覚によるインプットの99パーセントを無視するので、機能するためにはなぜかりにも自覚が必要とされるのか、という問いが存続することになります。

もし認知主義者の言うことがすべて真実だとすると、なぜ人類はこのような実在主義的な問いに取り憑かれているのかということです。もし自覚という進化論的機能に、自問や心の神秘の解明が刻みこまれていないとすれば、なぜこの問いがそれほど執拗に浮上するのでしょうか。・・・宇宙の根本的な構造とは何か、また人生の意味とは何かなど、到底答えられない人間の自問によって、いわゆる人類の進歩と呼ばれているもののすべてが出現したのではないでしょうか。進歩はこうした形而上学的な問いの巻き添え(コラテラル・ダメージ)として生み出されたのです。

精神分析によって私たちはもう一つ別のパースペクティブを定式化できるのではないかと思います。意識とは錯誤−進化の機能不全−のようなものである、そしてこの錯誤のなかから奇跡が生じたのだ、という矛盾する考え方です。・・・意識とは本来「何かが間違っている」という瞬間、あるいはラカンの用語を使えば、現実界の経験、不可能な極限の経験と結びついています。本来の自覚はある失敗や死すべき運命−−生物学的な織物のなかの暗礁のようなもの−−という体験によって推進されています。そして人間性、哲学的内省、進歩などと関係する、あらゆる形而上学的な局面は、この根本的なトラウマ的裂け目ゆえに、最終的に出現するのです。

ですから認知主義そのもののなかに、なんらかの行き詰まりが見られるように思います。その一つは、意識を説明しようとすればするほど、それがまさにラカン対象aと呼んだもの−これは完全に意味を成さない残余です−になってしまうということでしょう。

ジジェク自身によるジジェクP80-85

「私はなにものであるか?」と問うことそのものが、還元されないということである。動物と変わらない分子情報であり、脳という器官にそのような過剰はどこにも見いだせない。この過剰こそが人間そのものであり、それが知としての現実界ではない、現実界の近接としてトラウマ的裂け目である、というである。




なぜ認知科学に引きつけられるのか


なぜボクたちが認知科学に引きつけられるのか。生そのものに関係しないにも関わらず、解を求めるこの過剰性こそが「人間」であるということである。そして「私はなにものであるか」という問いに、認知科学は、「あなたは単なる脳だ、遺伝子でしかない」というトラウマ的な解答を与える。

このときに起こる「何かが間違っている」という思い、それは小さなリストカットのように私に小さな痛みを与える。そしてこの現実界の経験」が、「主体を存続」させるのであり、現代のリアリティを支えているのある。

「現実的なもの」をもとにした「主体の存続」とは、「現実的なもの」の近接は、人間にとっては、人間を解体する、あまりにトラウマ的なものであるために、象徴的なものを介して近接せざるおえない。だから「現実的なもの」の近接は、まさに人間である契機であるということになる。

近代以降、このような科学的言説の浸透は、リアリティを「現実的なもの」へと近接させてきたのではにだろうか。たとえば、それは「ボクたちは動物化している」という言葉にも見られるのではないだろうか。




動物化「動物的な私」


東の動物化は、動物は「現実的なもの」を受け入れてしまう。だから「現実的なもの」の近接を、人間が「素直に」受け入れ、自己充足できれば、みんながまったり動物的に生きることができる。煩わしい他者からおさらばし、自己充足的に生きる。そこには言葉さえ必要がない。しかしここにまさに「認知主義的な私」がいるのではないだろうか。

「あなたは動物になっている。」というトラウマ的な解答が、「リアリティ」なのであり、動物化という言葉自体が、「動物的な私」という「主体を存続」させるために、象徴界「裏返した形式」でかろうじて回復しよう」としているのではないだろうか。




転倒する「動物的な私」


現代の動物化が、東がいうような「(人間からの)動物化であるのか、主体を存続させるための、「動物的な私」動物化によって人間を存続させる」)であるのか、ではその意味は逆である。そして北田、大澤、ジジェク等が問題にしているのは、現代におけるリアリティの「現実的なもの」への近接が、このような「主体の存続」されるための「動物的な私」という転倒を生んでいるということだろう。

「(人間からの)動物化はだれでもない存在として、充足することができるが、「動物的な私」では、だれでもない存在でいることに我慢できずに、どこかで感情的、暴力的な叫び(言葉)をあげ、それによって他者との間主観的な世界を開こうとするものである。それは極端には、他者とコミュニケートするためには、自分の手首を切ってみせるかか、相手を刺すかしかないということである 。

このような「動物的な私」は、ボクの言葉でいえば、主体の「拡散」が進めば進むほどに、その反動としての「収束」への転倒は、暴力的なものになる、ということであり、ネオコン支持にしろ、イラク人質バッシングにしろ、オウムにしろ、充足しているようにみえ、突然豹変するような転倒である。




ジジェクというリアリティ


ジジェクは、ラカン思想の中でも特に、現実界=現実的なもの」を巧みに語るだけでなく、そして「現実的なもの」をもとに「主体の存続」にこだわっている。倫理的な「収束」を演出しようとするのである。ジジェクが支持されることそのものが、ボクのいう現代における現実界における近接によるポストモダンの(主体の)収束過程」に対応した現象である、といえるのではないだろうか。

現実的な<現実界>と現実(リアリティ)という概念で重要な点は、ラカンの<現実界>は堅固な核−−私たちの象徴的な虚構のみに対立するものとしての真の現実−−のようなものではないということです。<現実界>はある意味で虚構であり、だからこそ<現実界>はその後に象徴化されるなまの自然のようなものではないのだと思います。自然を象徴化しますが、そのために、まさしくこの象徴化において、あなたは過剰、あるいは欠如を対照的に生み出しているのです。そしてそれこそが<現実界>なのです。・・・象徴化の身振りはまさに、現実にギャップを導入しているのです。<現実界>とはまさしくこのギャップであり、このギャップのあらゆる実定的な形は空想を通して構成されているのです。・・・すなわち不可能性はまさしく象徴空間の条件として生み出されているのです。これこそが<現実界>の究極パラドクスです。P111-112<現実界>は単に象徴化にとって外的な極限なのではなく、それは厳密には象徴化に内在するものなのです。象徴化そのものによって生み出されたギャップなのです。この意味で<現実界>は、象徴的な織物との関係におていほとんど脆弱と言ってもよい特質があると言えるでしょう。P143

ラカンパースペクティブは・・・象徴的虚構は現実と混同あるいは誤認されるべきではないという通常の禁止とは逆に、ラカンの中心的な洞察は<現実界>を象徴的虚構と取り間違えるべきではないというものです。つまり真の哲学的な技芸(アート)は、現実の背後にある虚構を認識することではなく−−例えば現実として何かを経験し、その脱構築主義的な批評によってそれが単に象徴的虚構にすぎないということを暴くことではなく−−、単なる象徴的虚構であるように見えるもののなかに<現実界>を認識することなのです。・・・真の取り組みは、象徴的虚構として現実を同定することではなく、虚構以上のものである象徴的虚構のなかに何かがありうることを示すことなのです。P144-145

ジジェクによるジジェク

主体を解体しようと言う「脱構築主義的な批評によってそれが単に象徴的虚構にすぎないということを暴くことではなく、単なる象徴的虚構であるように見えるもののなかに<現実界>を認識すること、虚構以上のものである象徴的虚構のなかに、(主体を存続させる)何かがありうることを示す」ことである。


そして「ジジェク的な主体」だけでなく、「認知科学的な私」、東の動物化、にボクたちが「リアリティ」を感じるということ、それらに傾倒する過剰性は、現代、生理的あるいは動物的なもの、「剥き出しの生」のような「現実的なもの」がせり出してきているということに対応するのだろう。


ボクですか・・・ベットの中では野獣です・・・