(2ちゃんねる哲学板)なぜマクドナルドの椅子は固いのか

pikarrr2005-04-05

1 :しろうと◆AUSirOutoE皇紀2665/04/01(金)23:36:21
現代の情報と自由について考えます。*1


3:しろうと◆AUSirOutoE皇紀2665/04/01(金)23:37:28
東…ジョージ・リッツァという社会学者の『マクドナルド化する社会』が、一九九九年に翻訳され、一部で話題になりました。この本は、マクドナルドの消費者管理の一例としてイスの硬さをあげています。イスが硬ければ、長いあいだそこに座っていられないわけで、客は何となく去っていく。そうやって消費者を回転させている。あと、これは都市伝説かもしれませんが、マクドナルドは込み合ってくるとBGMの音量を上げているとも言われますね。

これらはまさに、人間の「動物的」な部分に訴えかけた管理です。テーマパークの設計や都市計画の専門家はそんなことばかり考えていると思うんですが、この「動物的な限界」を、いかに有効に活用して社会秩序を形成するのか、それが今の社会の大きな方向だと思うんです。

繰り返しますが、これは従来の価値観からすると、良いとも悪いとも言いがたい。ビッグ・ブラザーが「食事は三〇分で終えろ」と命令する社会と、イスが硬いせいで何となく三〇分で食事を終えてしまう社会と、「管理」という点では同じ効果が起きているわけですが、そのどちらが良いのかはよくわからない。

東浩紀大澤真幸自由を考える』より*2


4:しろうと◆AUSirOutoE皇紀2665/04/01(金)23:37:48
■具体的に踏み込もう。レッシグによると、社会統制には4つのやり方がある。1.威嚇的命令、2.市場、3.規範、4.アーキテクチャー。厳罰化すれば統制できる(=1)。市場価格の上げ下げでも統制できる(=2)。学校教育でも統制できる(=3)。
■問題は4だ。これはシステムの設計のことだが、設計次第で人々の行動を変えられる。ネットを匿名性が確保されるように設計するか否かで人々の行動様式が激変するのは、出会い系サイト絡みの事件を見ても分かる。だがこれはネットに限られない。
■実は私自身も、社会学の伝統が、1威嚇的命令、2市場、3規範に比べると、4アーキテクチャーによる支配に鈍感であることに警鐘を鳴らしてきた。このタイプの支配は統治権力よりむしろ商業領域で膨大なノウハウの蓄積が進んでいる。例えばコーヒーショップの椅子の堅さ。
■椅子の堅さ次第で客の回転率を操縦できる。同様に駅前再開発をすると、空間の匿名性上昇を通じて、援助交際を増やせる。威嚇的命令による支配には、被支配者の不自由感が伴うが、2市場<3規範<4アーキテクチャーの順で不自由感は減る。
■そのため、被支配者が自己決定しているつもりで、支配者から見ると意図通りの支配が実現する。分かりやすく言えば、自ら喜んで支配に服する。これに抗するのは大変だ。自分は自由だと思っているので、対抗する動機づけが存在しないからだ。
■だからこそこうした事態には憲法的立場から統治権力が強制介入する必要があるとのレッシグの逆説的結論が導かれる。むろん憲法とは市民と統治権力の社会契約だ。是非は別に私たちは、まず問題に気づくこと、次に憲法とは、統治権力とは何かを見直すことを要求されている。

宮台真司のサイトより


36:ぴかぁ〜◆wMDHqGPerU:2005/04/02(土)13:16:53
一つ問題提議を。マクドナルドのイス」を例に取ると、その効果はどの程度継続性があるだろうか。ということがあります。なれてしまうのではないのか。そしてそれはイタチごっとになる。簡単には、カラスはその対策にすぐになれ、順応するというようなことです。環境管理は、「動物のもつ不確実性」を飼いならすことができるのか。

結局、これは、認知主義的な問題に行き着くのかもしれません。認知科学は、生命を、そして人間を説明しつくすることができるのか、ということです。説明しつければ、環境管理権力は最強です。しかしこれは簡単にいえば、現実界を管理することを意味するのです。結局、形而上学的な古い問題を根底にしてないでしょうか。絶対的な真理をつかみ、世界を征服したいという人間の欲望ですね。そしてその欲望自身が、真理への道を躓かせつづけるということです。


37:しろうと◆AUSirOutoE:2005/04/02(土)22:25:56
イタチゴッコになるのではないか、という疑問は当然ありますね。ただここでの環境はアーキテクチャのことで、例えばPCで考えましょう。ウィンドウズなどOSの仕様に対して「すぐになれ、順応する」のは無理です。リナックスに乗り換えるという手はありますが、それ自体が大変な事です。リナックスでは他のソフトが使えないというような、市場の外部性があります。このデファクトスタンダードの問題があるがゆえに、企業の支配は揺るがない。


39:ぴかぁ〜◆wMDHqGPerU:2005/04/03(日)00:02:19
ウィンドウズの例で考えると、私たちにはOSを選択する余地がない。ウィンドウズという設計思想に依存するしかない、ということでしょう。確かにこれは一つの問題です。しかしこのような環境管理は、「動物のもつ不確実性」を飼いならすことができるのだろうか、という疑問もあるわけです。

ウィンドウズは、ソフトを付加するなど、さまざまにチューンナップすることできます。特にハードにくらべ、PCソフトはチューンナップの有効性が高いことですね。ボクたちがこれほどPCを欲望するのは、まさに素早く、自分なりにチューンナップできることです。ここにあるのは、一つの疑似コミュニケーションであり、快楽なのですね。このようにボクたちは、設計者の想定を越えていこうとするということです。

それでも、もはやかつてほどウィンドウズに快楽を感じることはできなくなっています。Windows95が登場したときほどに、熱狂することはもうないでしょう。それは、ボクたちはすでにネットコミュニケーションという、PCの閉じたソフトに比べモノにならないぐらいに有効性が高い快楽を手に入れたからです。


40:ぴかぁ〜◆wMDHqGPerU:2005/04/03(日)00:02:57
ised「情報社会の倫理と設計」*3で東がやろうとしていることは、まさにこのような情報社会の環境管理をより良く設計しよう、コントロールしようとしうことです。情報社会の倫理とはなにで、それをもとによりよく設計しようということです。だからこそ問題になるのは、2ちゃねるなどでおこるサイバーカスケードなどのいつどこで起こるかわからないような、カオス性であり、不確実性なのです。

しかし、より良くであろうと、そこに、環境管理は「動物のもつ不確実性」を飼いならすことができる、そして世界を征服したいという欲望があることは否めないでしょう。さらには、2ちゃねる的な不確実性へのいらだちも否定できないと思います。

現代、もっとも問題にすべき管理の問題は、脳、ホルモン、さらには遺伝子操作などの生命を直接管理する技術ではないでしょうか。これは、もっとも現実界に近接したところからの管理です。これは、.アーキテクチャーというよりも、第五の管理方法でしょうか。しかしこれでさえも、管理できるのかと言う問題があります。生命力という不確実性は、このような管理を越えて、予測もできないような方法で「生き延びよう」とするからです。


44:しろうと◆AUSirOutoE:2005/04/03(日)21:52:17
環境管理は、「動物のもつ不確実性」を飼いならすことができるのだろうか、という疑問。「設計者の想定を越える」ものの代表に例えばウィルスがあります。

このスレの初期で企業が消費者を支配しているのか、消費者が企業を支配しているのか、という論点がありました。それは鶏と卵のように水掛け論になるのでしょうか?

否、企業の優越性は揺るがないように自分は思います。単純に「なかば強制的にお金を支払う」ということが根拠ですPCユーザの大多数はウィンドウズを選択の余地なく使います。更に端的に言えばビル・ゲイツが世界一金を持っている事態が証拠です


48:ぴかぁ〜◆wMDHqGPerU:2005/04/04(月)01:05:15
ボクが言ったのは、環境管理権力というものがあることは否めないが、「動物のもつ不確実性」を飼いならすことの不可能性も否定できないということです。

たとえば、なぜウィンドウズのシェアはこれほど高くなったのか。それは企業の権力によるものか、商品が良いものだったからか。商品としてはアップルの方が機能的に良かったと言われています。このようなことは、ビデオテープの規格などありますが、そこには「たまたま」としかいえないものがあります。インフラに近いものは、スタンダード化する傾向があるが、なにがスタンダード化するのかは、たまたまでしかない、そこには、商品を選択する「動物たち」のもつ不確実性=創発性があります。

だから「企業の優越性は揺るがない」、あるいは「PCユーザの大多数はウィンドウズを選択の余地なく使う」と言い切るときには、古い企業/ユーザーという二項対立に囚われているのではないでしょうか。「支配」にはたえず、偶有性と、共犯性が内在しています。メタ言語は存在しない」とも言えますが。逆に、それらを否定することに危険性があるように思います。東のised「情報社会の倫理と設計」でもいったように、逆に「支配したい」という欲望が隠れている、ということです。


50 :しろうと ◆AUSirOutoE :2005/04/04(月) 02:03:42
高いウィンドウズのソフトを使わされているんだから、企業が優越しているのは間違いないでしょう。


56:ぴかぁ〜◆wMDHqGPerU:2005/04/04(月)19:34:04
ボクのいっているのは、「ウィンドウズの高いシェアに問題はない」ということではないのです。そうではなくて、「企業が優越している」ということでは、まったく不十分であるということです。古い企業/ユーザーという対立で語ることは、逆に、「現代の情報と自由について」の本質を隠蔽し、このような議論を「支配したい」という欲望でしかない、ということです。

「ウィンドウズの高いシェア」によるマイクロソフトによる支配の問題は先に名無しさんが言ったように、独占禁止法などによる実質的な弊害として議論すればよい。(実質的な弊害はテクニカルな問題であり、どのような状況でも起こります。たとえばDVDの規格などのようにスタンダードが分散化していたとすれば、それはそれで統一し、利便性を上げた方がより、という問題が提出されるでしょう。)

「現代の情報と自由」を考える場合には、古い企業/ユーザーという対立が変質し、主体像、自由が変質しているということを考える必要があります。それが、>>3の東の「動物的な限界」を、いかに有効に活用して社会秩序を形成するのか、・・・これは従来の価値観からすると、良いとも悪いとも言いがたい。」という発言に繋がり、この「主体の自由」がどのように変質したのかが、まさに大澤・東の自由を考える」だったと思いますし、このスレの主旨ではないのでしょうか。


58:ぴかぁ〜◆wMDHqGPerU:2005/04/04(月)20:42:36
再度、まとめてみると、ボクが言っているのが、「支配」にはたえず、偶有性(不確実性)と、共犯性(創発性)が内在していると言うことです。

1)「現実(界)的なものがせり出してきている状況」

ボクがいった環境管理権力と「動物のもつ不確実性」とは、ラカン象徴界現実界に対応します。そして、レッシグによる管理の分類のうちで、1.威嚇的命令、3.規範は、いままでの象徴界ですが、2.市場、4.アーキテクチャーは、ジジェクのいう「現実的な象徴界、科学技術によって、現実界に近接した象徴界ということでしょう。

現実的な象徴界は、統計学によるシミュレーションの発達、「偶然を飼いならす」技術の発達、簡単にはコンピューター技術の向上によるものだと考えられます。そして、現代の科学技術の発展によって、象徴界現実界へ近接してきている状況を、大澤などが言っている「現実(界)的なものがせり出してきている状況」といえます。そしてこのように「現実(界)的なものがせり出してきている状況」「支配」には、たえず偶有性(不確実性)と、共犯性(創発性)が内在していると言うことです。


59:ぴかぁ〜◆wMDHqGPerU:2005/04/04(月)20:44:01
2)偶有性(不確実性)の増加

「人間」を管理するのは、法であり、規範のようなラカン象徴界によっておこなわれてきました。たとえば、マクドナルドで「長く店にいるな」ということは、相手に伝わります。しかし「動物」を管理するような環境管理(=現実的な象徴界)によって、椅子が固くしたから、必ずしも客が出ていくとは限りません。「動物」はどのように行動するのか読めないし、慣れてしまいます。

またウィンドウズにある種の環境管理思想を埋め込んでも、必ずしもそのようにユーザーが反応するとは限らないのです。そこには絶えず不確実性が忍びこみます。環境管理による「支配」にはたえず、偶有性(不確実性)が内在する傾向が増します。

たとえば、>>4で宮台がいうように、「このタイプの支配は統治権力よりむしろ商業領域で膨大なノウハウの蓄積が進んでいる。」といいますが、また現代の商業(ビジネス)において「不確実性の時代」という言葉がよく使われます。何がヒットするのかわからない、ということです。人の動物性を統計的に分析するマーケティングなどの環境管理によって、商品をヒットさせようとするが、簡単にはヒットしない。ヒットしたと思うと、それはマーケティングの成果というよりも思いもよらない要因でヒットしている。ということです。


60:ぴかぁ〜◆wMDHqGPerU:2005/04/04(月)20:44:32
3)共犯性(創発性)の増加

このような不確実性の増大は、創発性(自己組織化)をともないます。「不確実性の時代」に何がヒットするかは、支配者によってコントロールできないし、被支配者の明確な思考による選択によるものというよりも、「動物の群れ」がたまたま、没入するような創発性を持っています。不確実性な混沌から、秩序が突如現れてくるのです。

このように考えると、なぜウィンドウズがこれほどのシェアを勝ち得たのか、ということを、支配者によるもとのとは言えないのです。たとえば、ウィンドウズの独占性への批判を言いながら、ウィンドウズに熱狂する。このような人たちが、ウィンドウズの独占性を支えてきたというようなことです。これは、ジジェク「シニシシズム」、大澤のいう「アイロニカルな没入」に近い状態です。ここに現れる秩序には、企業(支配者)/ユーザー(被支配者)という単純な対立で語れません。自立した主体でさえないのです。

大澤・東の自由を考えるの中では、環境管理は偶有性をなくすことが問題であると言っています。データーベース化されることで、主体の他の誰かであった可能性=偶有性が失われると、指摘されています。たしかに、匿名と言われるネット上では、その言語を言った主体は、誰であると、トレースし特定することができますが、その言葉の責任、たとえばイラク人質バッシングのような言語に対して、その主体を特定し非難することに意味はなりません。これらの言葉は、サイバーカスケードな、主体なき言語だからです。その意味で、ボクは、環境管理が偶有性(不確実性)を高めると思っています。ここでの不確実性とは、原因に対する結果という意味での主体が不明確になる、「動物」になるということです。


62:ぴかぁ〜◆wMDHqGPerU:2005/04/04(月)20:52:37
4)自由とはなにか

このような状況の中で、「自由」とはなにか?という問題があります。

環境管理的な「現実的な象徴界現実界への近接は、単に支配者の新しい管理アイテムとして捉えることはできません。「現実(界)的なものがせり出してきている状況」において、もはやかつての象徴界にリアリティがなくなっている。人々は、社会的コミュニティへの帰属に興味がなくなり、現実界に近接したものにリアリティを感いているということです。リアリティを感じるとは、主体を確保するものだということです。

だから人々は不自由を望んでいるように思います。不自由が欲望を生み、リアリティを支え、主体を作るからです。「現実(界)的なものがせり出してきている状況」では、それは現実界への近接」という動物的な不自由に求められるのです。ボクたちは、環境管理という不自由に自ら向かっているのです。

大澤はそれを「不可能性の時代」、そして「現実(界)への逃避」と言いました。現実界(不可能)であることを求めて、「アイロニカルな没入」をするといいました。そのような不確実性な混沌への没入は、創発的な秩序を生み出しやすい状況にあるということです。「アイロニカルな没入」とは、人々が不自由にむかって没入する、不自由故に熱狂する、ということです。それが現代では、現実界への近接であり、不確実性からの没入を生んでいるのです。


*4

*1:2ちゃんねる哲学板 メタモナイズ6.0 http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1112366181/

*2:自由を考える 9・11以降の現在思想 東浩紀大澤真幸(2003) http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040515#p1

*3:なぜ知識人は2ちゃんねるにショックを受けるのか? ised@glocomの倫理研第1回の議事録を読んで http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20041204#p1

*4:画像元 http://www.tzap.ca/images/