(2ちゃんねる哲学板)なぜ動物か右翼なのか?

pikarrr2005-04-16

*1
437 :ローカルルール審議中 :2005/04/12(火) 22:23:38
無限のメタゲーム/伝言ゲームの囁き・・・のような状態では、もはや何を主張してもだれかよりはメタレベルだし、他方ほかのだれかにとってはネタでしかない。そして、このような混乱した情報環境においては、結局のところひとは動物的に生きるしかないのだし、実際生きている、というのが僕の考えなのです。・・・言い換えれば、メタゲームはいまでも行われているのかもしれないけど、それはもはや何の意味もない、と主張しているのです。

近代社会の大きな物語は、伝言ゲームの複雑性を縮減してくれる装置でした。しかし、僕たちはそれを手放し、グローバルな伝言ゲームへと足を踏み入れてしまった。この荒野においては、アイロニーはほとんど役に立たない。僕はむかし、このような荒野のことを「郵便的」と形容したことがあります。

ひとびとが動物化するのは、世界が郵便的だからです。近代社会が作り上げた巨大な郵便局(大きな物語)はいまや壊れてしまい、ひとびとは、・・・無限の伝言ネットワークのなか、メタレベルの志向の宛先を見失ったまま、局所最適に基づいて動物的に生きるしかなくなってしまった。これが僕のすべての議論の中核にある世界認識です。

2005年04月12日 メタと動物化と郵便的世界 「渦状言論」 東浩紀 http://www.hirokiazuma.com/archives/000135.html

477 :ローカルルール審議中 :2005/04/13(水) 22:33:53
否定神学」批判の陥穽 中野昌宏

http://nakano.main.jp/mn/theology.pdf

495 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/14(木) 10:43:56
人間の情報処理能力は七バイトしかないらしいですが、もともと単純な情報量で考えると人間化する必要は見えてきません。それでも人間化することがまさに人間なわけです。

477の論文にもつながりますが、ボクは「デリタも恋をする」と表現しましたが、否定神学を否定し疑い続けても、恋をすることからは、のがれられないラカンのいうように、(本当は錯覚でしかないことはわかっていても)手紙はかならず届いてしまう、すなわち恋をしてしまい、動物でなく人間に留まるということです

それを恋は錯覚だといいつづけることは、ジジェクがいうように強迫神経症だということです。そしてボクなどがいっているのは、恋の仕方が動物化している、すなわち「動物的人間」化しているということです。恋なんか錯覚だ、動物化しているといいつづけることによって恋いすることが騙されような、間違いのようなヒッステリックになる。恋いした他者が間違ったものであるように、暴力的になっている、というようなことです。

否定神学は477の論文のように倫理であり、デリタもラカンも否定し続けることは不可能であると認識している。すなわち動物にはなれないということを理解しないといけないでしょう。

それでも東はもう恋なんてしないのだただ発情すれは処理するだけなのだというでしょう。そして家にかえって嫁さんには土下座するでしょう。


538 :ローカルルール審議中 :2005/04/16(土) 07:03:58
笠井氏と北田氏は(さらに付け加えると——詳しい説明は省略するが——僕の動物化の時代を「不可能性の時代」と言い換えようと提案している大澤真幸氏も)、全共闘から新人類(とオタク第一世代)へと受け継がれたメタゲームの果てに、いまの動物化現象があると考える。僕は、『動物化するポストモダン』でも、またそれ以降も繰り返し主張しているように、そうは考えない。

僕の主張は単純に、メタゲームはもう必要とされていないのだ、なぜならば現在のネットワーク環境は(それがいいか悪いかはともかくとして)みんながまったり動物的に生きる文化的世界を用意したから、というものである。

2005年03月14日 『嗤う日本のナショナリズム「渦状言論」 東浩紀 http://www.hirokiazuma.com/archives/000127.html

みんなまったり生きている。今後この傾向はますます強くなるだろう


549 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/16(土) 15:03:19
「まったり革命」とは私の造語。意味を求めて頑張って生きるより、意味から解放されて脱力して生きることを選り好む態度が一般化することだ。家族・学校・地域を覆い尽くした「学校的なもの」から、遠ざかる生き方の一般化だ。十年前に各所で私はそう書いた。

■その頃から既に十年が経った。「第四空間」に逃亡した者たちは、感情的安全を手にし、尊厳(自己価値)を獲得できただろうか。残念ながら、ごく一部の者を除いては失敗した。当時の私が成功したケースだと思った者たちも、多くが不安定なオクスリ系へと退却した。

■それとも関連するが、若者たちに「引きこもり」「鬱(軽鬱)」の現象が蔓延し、またかつて多重人格と呼ばれた「解離」現象が拡がった。また、自己の尊厳と他者の存在とが無関連な「脱社会的存在」──人を殺すことの敷居が極端に低い若者たち──も増えた。

投稿日時:2004-09-10 戦後家族の空洞化への処方箋 MIYADAI.com Blog 宮台真司 http://www.miyadai.com/index.php?itemid=151

550 :ローカルルール審議中 :2005/04/16(土) 15:41:10
宮台の場合は内在系でいけると思ってた時期もあったが超越系に転向した政治的になったり社会学の基本的な解説を始めたり映画分析を始めたりでもこれだとものを考えなくなった若者に一生懸命、語りかけるって感じになっちゃう人々がものを考えなくなり、しかしどんどん便利になっていく社会に対してまじめに、このままではいけない、と叫んでもあんまり効果ない「なるようになる」結論はこれだ!


551 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/16(土) 15:51:31
「なるようになる」は、いままでのポストモダン的。ボクはこれを、ポストモダンの拡散過程」と呼びます。いまは、まったり、疑似動物化からの転落、すなわち「収束過程」に移っているということです。

簡単に言えば、ポストモダンとは拡散なんですね。価値の相対化。このような価値の相対化は、人々を「自由」にしますが、また主体を拡散させます。よりどころの見えにくい、宙づり状態にします。これに対して、二つの傾向が見えています。

1)拡散
 拡散を受け入れるために、特定の価値に固執せずに、多面性、 柔軟性、即答性をもち、流される。=動物化する、まったりする。

2)収束
 しかしそれに耐えられず、主体を取り戻そうという動きもある。しかし一度拡散した主体が、収束するときには、 かつてのモダンな理性的な、倫理的な主体としては、収束しない。とんでもないところで主体化する。 たとえば、エセ宗教への帰属、反社会的な価値への帰属など。

さらに最近見られるのは、情報化による一時的な突発的な収束です。(サイバーカスケード) 拡散はもともと不安定な状態ですから、一見、まったりいていたはずが、なにかをきっかけに突発的に収束し、統一した倫理観もどきが生まれる。イラク人質バッシングで見られたような集団的収束(没入)です。

宮台のやりたいことは、この不確実性が高まった収束をコントロールしたいということではないでしょうか。だから日本古来のシャーマニズム的なコモンセンスを再帰させる例えば、日本人の桜への感受性みたいなものです。ボク自身は、この右翼傾向自体はいまひとつピントきませんが、全体のやりたいことは、わかります。


556 :ローカルルール審議中 :2005/04/16(土) 17:26:11
まぁテロ組織に核がわたってるなんて話もあるし、中国も内部に深刻に問題を抱えてたりするし餓死者だって信じられないくらい多いし、日本でも年間自殺者3万人越えだし、世界は混沌としてるでも一方で、そんなことをまったく考えないでゲームばっかりしてるような人もいるそんな何も考えないような、まったりしてる人の心にどうやって言葉を届けるかということが問題だね。それでも世界は回ってる。 ←結論はこれ(:.´艸`:.)


558 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/16(土) 17:58:15
僕が収束というときには、二つの意味があります。一つの社会状況の変化、さらには知識人の言説の傾向です。これらは相関しているとは、思いますが、ポストモダンのモダンな主体の解体をとく言説は「もう流行らない。」いかに収束させるかが、知識人の思考ゲームのテーマになっているというようなことです。


566 :ローカルルール審議中 :2005/04/16(土) 19:04:54
多様な状態は不安定だからこそ安定してるという様な危なっかしい状態だからちょっとしたきっかけで暴走してしまう、というようなことはよく言われてますね。

そのときに、宮台が「すごいもの」「訪れ」といった物を持ち出すというのはわかる。しかし、それは哲学で散々考えられてきたことだから、哲学で言い古された言葉をなぞることになってしまう。桜、天皇など何でもいいがそういったものを媒介に世界にアクセスするという事は、どう伝えたらいいか、非常に難しい。実際宮台はそのことに正面から向き合った本を一冊も書いてないし、浅田彰もうまくごまかしてるしね。


567 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/16(土) 19:13:34
宮台は、「名状しがたい、すごいもの」への感染しろ、とだけ言っているわけではなくて、それをを手がかりとして、それに対して徹底的に論理的な思考して、拡散した世界へ開かれよう。みたいなことです。正直、これがよく分からないし、具体的なことは、まだ書いていない。

このような試みは、大澤の「アイロニカルな没入」よろしく、結局、宮台の言説に収束する「宮台教」へ向かうだけではないか、と思っています。


568 :ローカルルール審議中 :2005/04/16(土) 19:52:11
いや、宗教ってのは「世界へ開かれる」っていうのを擬似的に実現する物だから。宮台も、自分が言ってることは宗教とは違う、と言ってる無害化という言葉を使ってたね。確か近代化を徹底することが世界に開かれるみたいな事も言ってるね。これは日本浪漫派に影響を受けてる。

東の場合は、「それはわかるけど、じゃあ郵便局が機能しない時代にどうやってその考えを届けるの?」っていう事を言ってる


570 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/16(土) 20:14:43
そうですね。宮台は、「感染」によって、宗教(サイファ)を逆変換し、世界へ開かれる、ということですね。
①突発的な「名状しがたい、すごいもの」への感染を手がかりとして、 ②徹底的に論理的な思考によって各宗教ごとに固定されがちなサイファを逆変換し、 「世界の根元的な未規定性」に到達すること。 ③そのことによって、失われた「世界」との関わりを取り戻すと同時に、 ④「名状しがたい、すごいもの」への感染に対する理論的再解釈で、 「名状しがたい、すごいもの」への感染を他者による洗脳や マインド・コントロールに利用されないように防波堤を築く。

サイファ 覚醒せよ!」宮台真司) ISBN: 448086329X

しかし、ボクが、「宮台教」へ収束するのではないか、というのは、このような宮台の言説の内容を理解するのでなく、宮台の表出(カリスマ性)へ「感染」しているだけのではないか。すなわち、宮台の言説を理解せずに、信仰するのではないか、ということです。宮台支持者の多くは宮台「信者」であるということです。


574 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/16(土) 20:29:51
ボクが宮台の言説で、疑問に思うのが、「名状しがたい、すごいもの」への感染をとても特別視している点ですね。たとえば、宮台は今週のブログで右翼/左翼を主意主義主知主義の対立と捉えています。主知主義とは〈世界〉を知識で覆える立場、主意主義とはそれを否定する立場であり、主意主義には、コモンセンスとしてとしての感受性があり、それを「魂の系統」「情念の連鎖」と宮台は呼ぶわけです。

MIYADAI.com Blog 2005-04-14 【後期近代における「端的なもの」の露呈に対処して】
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=259

この二項対立を脱構築すれば、どのような言説にも神性(魂)が捏造されている。意味が意味として特定される(象徴化される)ときには、神性が捏造される。これはラカンシニフィアンの結束点、「クッションの綴じ目」の説明にもあります。

イデオロギーへの支持の多くは、その思想の理解によってでなく、感性(神性)によるものである、ということです。これは宮台自身が「意味から強度へ」(表現から表出へ)として表現しているそのものですが。

「言葉」「動機づけ」がメカニズム的に分離した近代の社会システムにおいては、人は「言葉」に納得するだけでは、(たとえば論理的な理解に達するだけでは)行動に向けて「動機づけ」られません。「表現」によって人を動かしたり人を変えたりできる部分は、むしろごく僅かだと思った方が良い。

サイファ 覚醒せよ!」宮台真司)より

589 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/16(土) 23:56:44
問題は、主体と言うものをどのように捉えるのか、ということだと思います。ボクが考えるのは、主体は東が考えるように「動物化」しているだろうが、 「動物」にはなりきれない。しかし宮台が考えるように「徹底的に論理的な思考する」ほどに、強い「人間」ではない。だから、エセ宗教や反社会的な価値へはまり、気が付くと突発的な収束 (サイバーカスケード)に「巻き込まれ」て、「スケープゴード」を叩いている、というようなことです。「世界」の2ちゃんねる化みたいなことですね。

しかしこのようなことは、情報化によって、拡散、収束の動きが活発化しているだけで、ラカンの欲望論から「人間」の歴史上の普通のこと、主体そのものの姿ではないかということです。

あらゆるユートピア的幻想の構築は、それ自身を構築するために、「スケープゴード」を必要とする。ジジェクの分析が指摘しているように、ナチのユートピア的幻想と「ユダヤ人」の例は格好の例であろう。・・・幻想の目的は、(不可能な)欲望を充足させることではなく、欲望をそのようものとして構成することである。

ヤニス・スタヴラカキス 「ラカンと政治的なもの」P200 ISBN:4907758103

*2