(2ちゃんねる哲学板)なぜ動物か右翼なのか? その2

pikarrr2005-04-18

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605 :ローカルルール審議中 :2005/04/18(月) 02:08:00
なぜ動物か右翼なのか?に答えていない。


606 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/18(月) 10:09:26
「リアル(現実界)の近接」(現実への逃避(大澤))のあらわれです。ようは主体は拡散し、そのゆらぎの中で主体の取り戻し(収束)のために、即時的に「生き生きしたもの」に感染してしまう。動物化も右翼、さらに北田のロマン主義的なものも同じことの表現の違いです。

日本人にとっての生き生きしたものは、ロリであり、中国人にとっての生き生きしたものが、「日本人」なわけです。


609 :ローカルルール審議中 :2005/04/18(月) 11:20:42
後者はともかく、前者は右翼じゃなしに、ロリコン変態男じゃねーか?


610 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/18(月) 11:29:26
ロリ傾向とは、新鮮な、処女地的なところへの神性さを求めるようなことのメタファーです。ボクがいう「上から2冊目の本」*2であり、現代の消費の物神性の根底でもあるのではないでしょうか。


612 :ローカルルール審議中 :2005/04/18(月) 11:38:27
ブーブレス的経験的事実やデータ(ソース)への偏執が リアル(現実界)の近接(現実への逃避)傾向のあらわれだとは認めるけど。宮台やぴかぁ〜が指摘するようなことなら、故山口乙矢先生の頃だって同じジャン。ポモ経由のアイロニカル純化の右翼は何に「生き生きしたもの」を感じ、「上から2冊目の本」の生理的暴力に走るのか?90年代後半とは違ってネット右翼も多様化しておるからなぁ。


615 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/18(月) 12:12:42
現代は象徴界の流動化が加速されている時代です。だからマジになったら負けなんです。一見、はまっている、熱くなっているように見えても、メタな視線、アイロニーを残していないといけません。なぜならブームはすぐ去り、もたもたしてると取り残されるからです。このような「無限のメタゲーム」は、つぎつぎ乗り切るカーレーシングゲームのように楽しいです。その究極が2ちゃんねるですね。


617 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/18(月) 12:21:39
しかしこのような状況にみんな疲れてもいます。そのときに求めるのが、「メタのない存在」なんです。たとえば幼児にはメタがありません。動物のように即時的に反応します。ペットもそうです。簡単にいえば「癒し」です。

人々はメタのない生理的(動物的)に共有されているだろう価値、生き生きしたもの、現実界への近接に収束していきます。痛い、かわいい、感動などが過剰に欲望されます。あと暴力ですね。オウムは人々のメタを奪う(洗脳する)ためにこれらの生理的なものをうまく提供していました。

なぜみんなマック、あるいはコンビニに行くのか。動物のように腹をみたすのか。マックにはメタがないからです。流れ作業で食料がでて食べるだけ。街の食堂では店の人の目線があり、あやしいやつとみられているんじゃないか、などのメタが介入し、つかれます。


623 :ローカルルール審議中 :2005/04/18(月) 13:01:57
1970年代生まれには「メタレベル」という言葉はもう通じない。なぜなら元々のオリジナルな状態からのメタ化体験がないから。まあしかしこんな体験はしないほうが幸福だ。無限のメタ化を目指して際限のない意味除去運動に走って、とんでもない苦痛を味わうことになるから。


626 :ローカルルール審議中 :2005/04/18(月) 14:38:47
マックとかはメタの種類がちがうんじゃなーの?


628 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/18(月) 15:29:27
幼児、あるいはペットから癒されるというのは、本当は「嘘」です。これら「動物」は、人のいうことなど聞かないし、手がかかるし、汚いし、何をするかわかりません。これが本来の動物の姿であり、現実界の不確実性です。だから幼児愛好傾向に反して、幼児虐待が進んでいるのは、「象徴的な幼児=ロリ」愛好と「現実的な幼児=動物」虐待として考えることができます。すなわち、動物を「癒し」と呼ぶこと、幼児を「ロリ」、動物を「ペット」として呼ぶことは、象徴化された虚像であり、本当の幼児は、めんどくさい存在である、ということです。

マックに行くことも、人のまなざしを気にしなくていいから、とともに、「マック」だから行くのです。「マック」には「人の目を気にしなくてもいい」というような人々の了承(まなざし)があるから、「ブランド」として象徴化されているのです。

すなわち、「生き生きしたもの」というのは、動物化した個体が快楽を求めて行う」というよりも、象徴化(人間社会で了承)されている故に、欲望されるのです。ボクたちが女子高生を欲望するのは、それが単に若い女性であるからでなく、「女子高生」だからです。そして決して存在しない「女子高生」であり、「ロリータ」であり、「ペット」です。ラカン的には「欲望は無への欲望である。」ということです。

「生きしたもの」はみんなが「生きいきしたもの」というから、「生きいきしたもの」である、というアイロニーが作動しています。あくまで象徴界に留まったところ(=人間であるところ)の現実界の近接です。


629 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/18(月) 15:32:35
北田さんは、社会が複雑になってくるにつれて、メタゲームがどんどん発達すると考えている(あえて簡単に要約すると)。しかし僕は、社会があまりに複雑になると、メタゲームは有効に機能しなくなると主張しているのです。・・・

無限のメタゲーム/伝言ゲームの囁き・・・のような状態では、もはや何を主張してもだれかよりはメタレベルだし、他方ほかのだれかにとってはネタでしかない。そして、このような混乱した情報環境においては、結局のところひとは動物的に生きるしかないのだし、実際生きている、というのが僕の考えなのです。・・・言い換えれば、メタゲームはいまでも行われているのかもしれないけど、それはもはや何の意味もない、と主張しているのです。

2005年04月12日 メタと動物化と郵便的世界 「渦状言論」 東浩紀  http://www.hirokiazuma.com/archives/000135.html
東の「無限のメタゲーム」はもはや何の意味もない。動物的に生きるしかない。」という見解に反論するとすれば、確かに東がいうように「メタゲーム」の内容そのものは意味がないかもしれない。しかし「無限のメタゲーム」することそのものが、この言語ゲームが可能であるというコモンセンス(共有性)を支えている。ボクたちはコミュニケートし、ともに「興奮」することができるということによって、「人間」であることを確認している。ということです。

ラカン的にはそもそもメタ言語はないとともに、「語ることは真実を語らないことであり、嘘を言い、欲望の闇の真実を隠蔽することである。あらゆる社会は、こうした象徴的な交換に基づく。そして社会は、「嘘言の分かち合い」を前提としている」ということでしょう。

宮台がいうのも同じではないでしょうか。左翼的主知主義は、「無限のメタゲーム」に陥っている。だから右翼的主意主義的な「正しい」「コモンセンスな感受性」を作動すべきである。それを宮台のいうように右翼に求めるべきかはわかりませんが。


632 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/18(月) 16:18:16
これは大澤のいう「アイロニカルな没入」ですね。そして、このような「アイロニカルな没入」は、ジジェクの指摘したナチのユダヤ人迫害などのシニシズムであり、とても「人間らしい」行動ですね。

これは、いまの中国での反日デモにも当てはまります。日本製品大好きで、笑いながら行進する中国人。彼らにはアイロニーがあるが、経済成長によって拡散しだした主体性への漠然とした不安を、日本人を「スケープゴード」にしたナショナリズムというコモンセンスを使い、興奮を共有=没入し、安心しているのかもしれません。

これは、2ちゃんねるの祭り(たとえばイラク人質バッシングなど)と同じ構造です。ネットの伝達性の向上は、不安などの感情の共有を容易にしています。

さらに文字会話が中心のネットでは、コミュニケーションが文字圏に閉じやすく、異なる文字圏を排他する、すなわちエセナショナリズムが立ち上がりやすいのではないかと、思っています。韓国のHPをみると、ハングルで埋め尽くされた「意味不明さ」に、韓国語を聞く以上に、「疎外感」をもたされます。

人間ってやつはどこにいっても人間だなあ、というオチです。


646 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/19(火) 07:51:06
いまさらですが、なぜラカンなのか?東の人間/動物の概念はコジェーブからきているわけですが、ラカンはコジェーブの弟子なんです。そしてコジェーブの「人間」を深化させたのがラカンの欲望論です。さらに東の師匠のデリダはフランス思想界のラカンのあと世代ですが、先の論文やスピバク?解説のように、同じ構造の上に立ち、ラカンが主に収束に語ったのに対して、デリダは拡散について語ったわけです。そしてデリダの拡散をやや過剰に?受け継いだ東は拡散=動物化について語るわけです。そしてラカン的欲望(収束=人間)は、機能しないというわけです。だから東への反論はラカンの欲望論は、いまも機能していることになります。


650 :ローカルルール審議中 :2005/04/19(火) 08:40:34
市場における人間と人間との特殊歴史的な社会的関係が、デジタル・ネットワーク上の関係として現象する事態が生じ、ICタグなどで事実上はトーレーサビリティが向上しているにもかかわらず、消費現場においてはもはや<他者たちが日々積み重ねている全体のプロセス>をイメージすることはない。それは短期記憶の限界などではない。環境管理型権力の表象を受容しているにすぎない。

マニュアル化され、メディア化され、流通管理が行き届いた現在の消費社会においては、消費者のニーズは、>できるだけ他者の介在なしに、瞬時に機械的に満たすように日々改良が積み重ねられている

これは頽落ではない。批判しても始まらない。教師、上司、親との係わり合いの煩わしさを回避し、介護をも公的サービスや商品で代行したいと望むのは、それが可能な社会的基盤があるから。他者を意識せず生活できる、生きていける環境があるから。それが戦後60年間かかって営々と築いてきた豊かな社会だ。幼児的自己中そのままに生涯が遅れるマトリクス世界にラカンは不要だ。


652 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/19(火) 09:03:14
欲望は無への欲望である(ラカン)。ブランド好きはブランドを買っても満たされない。なぜならほしいものはその先にあり、決してみたされないから。しかし現代消費は、提供サイクルを早めている。底無しの欲望につぎつぎ対象を提供すると、一見満足が継続する状態=「動物的欲求」に見える。しかし欲望の不確実性をあなどるな。環境管理を乗り越え、思わぬところに欲望はあらわれる。「キモかわいい」とか、「萌え」とか新たな欲望はどこから生まれてきたのか。それが企業も悩む不確実性の時代だ間違いない!

だからいまこそ、己の欲望に譲歩するな。環境管理なんか道具でしかない。

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*1:ised東浩紀スレッド43【盛り上げて】  http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1111579701/l50

*2:アウラな世界 その2 「上から二冊目の本」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040518

*3:画像元 http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20050416it03.htm