続 なぜ上から二冊目の本を買うのか 宮台真司 仲正昌樹「日常・共同体・アイロニー」 <収束するポストモダン その6>

pikarrr2005-05-03


「日常・共同体・アイロニー


宮台真司 仲正昌樹「日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界」 (2004/12) ISBN:4902465043。再度、宮台の戦略を考えてみる。

生活実感を評価する物差し(宮台)


何を規定できないのかを、規定した瞬間に、背理に陥るということです。規定不可能性は規定できないのです。そうしたことへの理解は超越論的なものへの通路を開きます。<世界>のなかにあるとも外にあるともいえない未規定な領域です。私は『サイファ』でこの古典的な問題を現代的な観念ツールによって表現しました。内在では完結できない感受性−私はこれを内在系に対比して超越系の実在(私とは、世界とは、何かを問うてしまう)と呼びます−を抱えた読者たちに、踏み留まってもらう本です。

<世界>の根元的規定性を、<世界>の外の超越という特異点に集約せずに、むしろ未規定性そのものへと差し戻す営みを、奨励しました。でも、オウム信者らに馬鹿な連中が呼びかけたような「内在に留まれ」をいう言い方は決してしていません。むしろ、内在に自足できない超越系の実在を、全面的に肯定しています。(宮台)P102

「社会の底が抜けて」、超越論的なものへの通路が開き、オウムなどに没入するときに、「内在へ留まれ」と引き戻しても、抜けた底は埋まらない。私とは、世界とは、何かを問うてしまう感受性=超越系の実在を肯定しつつ、「超越という特異点に集約せずに、未規定性そのものへと差し戻す営み」を、奨励する。

この「超越という特異点に集約せずに、未規定性そのものへと差し戻す営み」は、サイファの逆変換」ということです。より具体的には、「名状しがたい、すごいもの」への感染という「体験」の意味を徹底的に考える」ということです。ナイーブな感染に「あえて」という視線を忍びこませる強度をもつ、アイロニーに振る舞うということでしょう。

「あえて」することの意味(宮台)


世の中にはナイーブな輩が溢れています。いまだに超越やら普遍やら全体を持ち出す輩だらけです。<世界>を規定されたもので覆い尽くすことで安心しようとする此岸的な輩です。この手の連中は、彼ら自身の言葉の孕むアイロニカルな構造へと追い込んでいけば、自滅します。

私もそうした作業をやっていますが、大事なのはその次です。アイロニカルな構造が、主観にかかわるものというより、<世界>の構造に関わる問題だとすると、誰かが誰かを笑う振る舞いも、所詮は「目くそ鼻くそ」のたぐいになります。「だったら何でもありだ!」「やってもの勝ちだ!」ネオコン的に居直る奴が出てくるゆえんです。

遠くから見ると「目くそ鼻くそ」でも、あえて五十歩と百歩の違いにこだわったり、五十歩と百歩の違いをつくり出すことで、辛うじて依拠できる前提を構築しつつ、それに人々を巻き込んでいくこと。それによって「目くそ鼻くそ」から「だったら何でもありだ!」へとジャンプする輩が出てくるのを、抑止することです。そうすることで、相対主義「所詮」から、「あえて」へと焦点を転じます。

このとき「俺は五十歩、お前は百歩」といえるための物差しをみなさんで自覚的に共有することが重要です。するとますます仲正さんのいう「自己決定の共同体」にならざるを得なくなります。そうした「自己決定の共同体」を形成したり維持したりできるのかどうか、私にはわかりません。(宮台)P142

このような「あえて」を維持するために、「自己決定の共同体」としての右翼だということでしょう。右翼的な感受性の取り戻しと、それを疑う強度を持ち続けること、それによって、新興宗教などの「超越という特異点に没入せずに、たえず感受性を持ち続ける、ということが、宮台の方法論だと思います。




生き生きしたもの


これに対して、仲正の立場は微妙だ。「父の像」に向かって勝手に話しかけているようなちぐはぐな感じなって(仲正)」、ぶつかり合わないが、最後まで平行線をたどり続けているが、はしばしに批判が見て取れるだろう。

市民社会の外部に生き生きしたものを求める(仲正)


近代市民社会とは、各個人が主体として生きているということを前提として、各主体が自由に競争しながら、みずからの主体性または個性を磨いていくような社会だといえます。しかし資本主義的な経済システムが発展していくと、主体的に生きているといいながら、じつはみんなと同じように生きてしまうようになっていく。・・・近代社会の中で、主体的であるといいながら、みんな同じことをやらないと、自由競争では勝てない。だから自由であることを強制されているような、変な状態になっている。

日本の場合は、全共闘運動にかかわった世代までが、主体性にかわる主体性を求めるという方向性を持っていたと思います。闘争相手のブルジョアは、近代的な主体性を持っている。だから自分たちはさらに強い主体性を持って、相手のシステムをぶち壊そうということですね。

ポスト全共闘といわれる世代になると、直接的には「主体を立てる」ような考え方をしなくなってくる。主体のことを考えていると、自己矛盾に陥るとか、主体などウザいと思うようになります。そのかわりに何を求めはじめたかかというと、「生き生きとしたもの」を求めるようになりました。

いま生き生きとした主体性を求めるべき対象はどこにいるのか。いまや労働者を生き生きとした主体性を持っているとは思えません。そこでどういうわけか、生き生きとした主体性を、サブカルチャーに求める傾向が強くなります。・・・自分自身は主体的ではないのに、「生き生きとしてもの」「外」に求める傾向がある。市民社会から排除された他者たちにそれを求める。援交をやっている女の子が他者だとは、私が思いませんが、そういう女の子が「他者」だといいたがる人がたくさんいるのです。「生き生きした世界」を外部に見いだそうとするタイプの議論をする現代思想家が、世に中で受け入れられるような状況になっている。それに宮台さんが含まれるかどうかは、すこし微妙なところですが。(仲正)P20-25

エクリチュールのパラドクス(仲正)


デリダエクリチュールの問題として、指摘していることです。現代人はなぜか、「主体性」の問題に関心を持ちつつ、「生き生きとして経験」から成る「世界」を求めている。しかし生き生きとして経験というものは、あくまでも瞬間的なものである。言葉という他人から与えられたものを媒体として、他人に分かるように語ってしまえば、その瞬間に体験そのものは、文字によって「死んで」しまう。

ドゥルーズの本に『差異と反復』がありますね。この本には、差異というものは、自分でつくるものではなく、どこかからやってくるものだと書かれています。二回目にやって来るときには、不可避的に純粋な「差異」ではなく、「反復」になっている。「生き生きとしたもの」を求める人というのは、たいてい「反復」してしまう。・・・エクリチュール化して死んでいることに気づかないで生き生き感を再現できると錯覚する。・・・外部に生き生きとしたものを求めるのですが、そう簡単に見つかるわけはない。「生き生きとして若者」がメディアで取り上げられているとすぐに飛びつき、そして飽きてしまう。・・・宮台さん自身は。生き生きとして世界を論理的に否定しているにもかかわらずに、メディアにおける宮台真司という存在が「生き生きとした世界」の象徴になっていると思う。(仲正)P27-32

ここでは、明らかに宮台の方法論の批判が見られるのではないでしょうか。宮台のいう「名状しがたい、すごいもの」への感染」「生き生きしたもの」を求めることの、欺瞞。さらに宮台は、「名状しがたい、すごいもの」への感染」」するだけではなく、その「体験」の意味を徹底的に考える」というアイロニカルな位置取りを目指します。しかし仲正の指摘は、そのような宮台の言説そのものが、「生き生きとした世界」の象徴となっている。その言説の内容理解とは関係なく、宮台教のように信仰される可能性を指摘しているのではないでしょうか。 




アイロニズムからシニシズムへの転倒 


ボクも宮台には、仲正と近い意見を持ちます。本書内でも仲正が指摘しているように、「アイロニストであるということは、このように精神的・物理的に緊張を強いられます。理論とは別の、より”現実的”な側面から、保守主義に吸収されてしまう傾向は、少なからずあると思います。(仲正)P114」

宮台がいう、「まったり」と生きられない、「郵便的」「社会の底が抜けた」状況に人々は耐えられなくなり、動物化のフリ」が、不確実な宙づり状態から転落しているなかで、アイロニカルであり続けるという強度をもとめることはできるのだろうか、ということです。

それに対して、宮台はあくまで強度を求めます。アイロニズムシニシズムにいかに滑り落ちやすいか見えてきます。」「不徹底なアイロニストことが、不徹底さゆえにニヒリズムに滑り落ちます。だったら、ニヒリズムを回避するには、アイロニズムを禁圧するどころか、むしろアイロニズムの徹底を奨励すべきなのです(宮台)」




死んでいるものこそが、生き生きとしたもの


さらにボクは仲正に「生き生きとしたもの」求めることへの批判も問題があると思います。仲正は「生き生きとしたもの」がすでに「死んだもの」であると指摘しますが、ボクたちが求める「生き生きしたもの」は、「死んだもの」であるが故に、欲望するのです。

幼児、あるいはペットから癒されるというのは、本当は「嘘」です。これら「動物」は、人のいうことなど聞かないし、手がかかるし、汚いし、何をするかわかりません。これが本来の動物の姿であり、現実界の不確実性です。だから幼児愛好傾向に反して、幼児虐待が進んでいるのは、「象徴的な幼児=ロリ」愛好と「現実的な幼児=動物」虐待として考えることができます。すなわち、動物を「癒し」と呼ぶこと、幼児を「ロリ」、動物を「ペット」として呼ぶことは、象徴化された虚像であり、本当の幼児は、めんどくさい存在である、ということです。

すなわち、「生き生きしたもの」というのは、動物化した個体が快楽を求めて行う」というよりも、象徴化(人間社会で了承)されている故に、欲望されるのです。ボクたちが女子高生を欲望するのは、それが単に若い女性であるからでなく、「女子高生」だからです。そして決して存在しない「女子高生」であり、「ロリータ」であり、「ペット」です。ラカン的には「欲望は無への欲望である。」ということです。

[議論](2ちゃんねる哲学板)なぜ動物か右翼なのか? その2 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050418

ボクたちは、生の若い女性を求めているわけではなく、みなが求めているだろう「女子高生」という記号を欲望しているのです。ボクたちが欲望する「生き生きしたもの」ものは、「死しているから」生き生きしているように見えるのです。そして現代の消費とをまさにこのような死したものたちに生き生きしたものを求めることです。




「なぜ上から二冊目の本を買うのか」 


さらになぜ「死した」ものが「生き生き」しているのかは、ボクのいう、「偶有性から単独性への転倒」があり、そして「神性が捏造」があります。たとえばボクは「上から二冊目の本」として、これらを説明しました。すなわち人々が欲望する「生き生きしたもの」とは、「上から二冊目の本」という虚像であり、無であり、「死したもの」だということです。

「上から二冊目の本」効果


「上から二冊目の本」は、小さく「私は唯一の私でありたい」という欲求を満たすのである。この典型が、処女信仰である。処女は、性行為によって失われる唯一性を保有している。そしてそれが信仰となるのは、そこに価値が見いだされると言うことである。

たとえば現代では、アイドルヲタ、またロリヲタなどであるが、「上から二冊目の本」が示すのは、現代において「私は唯一の私でありたい」という欲求を満たすのは多くにおいて消費がになっているということである。

さらに「上から二冊目の本」的なものは世界に溢れている。たとえばオリジナリティへの信仰である。スポーツの記録、ギネスブック、コレクターのオリジナルものなど、様々な時間軸上の「はじめて〜した」ものには、価値が持たれる。

「小さなアウラの獲得は、生きていることの充実感そのものを支えており、いわば人の行為そのものは多かれ少なかれ、そこへ繋がっていると言えるだろう。

なぜ上から二冊目の本を買うのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20041002#p1

消費という信仰


現代はコミュニティ形態が虚像化し、強い帰属意識による統一されたコミュニティが形成されにくくなっており、かつての「大きな神」は信仰されることが困難になっています。すなわちベンヤミンのいうアウラの消滅」の時代です。それでも人が自己の単独性を見いだそうとすることは根源的です。宗教を信仰していなくとも、人は内的に神的な体験をします。われわれは日常の中で沢山の小さなアウラが見いだすのです。

それは現代では消費によって行われているのではないでしょうか。われわれが消費するということは、その商品の本来の機能を購入するのではなく、小さなアウラを所有することです。商品を手に入れるということは、(虚像的な)記号コミュニティへの帰属の証であり、そして記号コミュニティに自分の位置をみつけるという偶有性から単独性への転倒であり、商品に小さなアウラを見るのです。

アニメであり、ファッションであり、アイドルであり、家電製品、さまざまなものに人は小さなアウラを見いだしています。そして現在の消費でコマーシャル、デザインが重要とされるのは、小さなアウラを演出する方法だからです。現代においても人は日々神的体験として「小さなアウラを積み上げながら自己を獲得していくのです。

アウラな世界 その4 神の発明 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040524

このような考えは、宮台の方法論を脱構築するだろう。たとえば、宮台のいう右翼/左翼である、主意主義主知主義の対立という考え方、主知主義とは〈世界〉を知識で覆える(神を合理的に弁証できる)とする立場、主意主義とはそれを否定する立場」という考えは、どのような主知主義にも、神性が内在しているということと、すなわちこのような二項対立は存在しないということになる。

さらに宮台の目指すアイロニストでありつづけるという精神的・物理的な緊張は、神性への転倒へ向かう、すなわち仲正が指摘するように、そのような宮台の言説そのものが、「生き生きとした」対象となり、超越的な宮台教と変容し、人々が没入するのではないか。「無限のメタゲーム」そのものが、宮台教という疑似コモンセンス(共有性)を支え、(消費の祭りとして)熱狂され、まなざしのコミュニティとして作動する。

さらには、しばらくすると消費され、人々はまた次の教説へ向かうのではないのか。人々は「マイブーム」として宮台教に没入しながら、長期的にはつぎの「マイブーム」「生き生きしたもの」へ感染するという意味では、没入しながらもどこかアイロニカルな立ち位置を維持しているといえるのかもしれないが。