(2ちゃんねる哲学板)なぜマルクスも必ず恋をするのか 上 

pikarrr2005-06-06

■無垢とは老練?
273 :くろしろー(本物):2005/05/25(水) 23:06:04
ぴかあーと俺との差は、無垢に歴史性を見出すかと言うこと、または制度ー構造を見出すかと言うこと。これは入門書レベルで申し訳ないが、構造主義に通じる考えかたなのではないかな。ぴかあーは無垢を無垢とみるが漏れは無垢だが老練とみる、その差だよ。無垢であれば老練なものが対象としてでてくる。ぴかあーは老練を提示していない。

俺ももちろん混沌としたものとして現代をとらえる。だがその背景に歴史性、構造があっての混沌と見る。ぴかあの場合どこかでカオスという言葉で「単なる無垢」「老練な無垢」がごっちゃになっている。それは無垢と言う言葉の安易さのせいだ。無垢は無垢だけど「老練した無垢」なのだ。それでこそフロンティアと言う言葉が生きる。

281 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/05/26(木) 01:17:05
いや、くろちゃんこそ、ボクの「無垢」の意味を取り違い得ている。なんどもいうように、ボクは「無垢」を二つの意味で使っている。大人は、状況に対して、とるべき社会的な行動が決まっている。だからベタ。それに対して、幼児というのは、社会的に未分化でなにをするか変わらないと言う意味で、カオスであり、無垢だ。でも、ロリータというときの無垢は、「生き生き」させるデフォルメされた無垢だ。だから本当の無垢には、歴史性も、構造も、老練さもない。ただカオスなわけ。それを、人がデフォルメして、幻想(歴史性も、構造も、老練さもない)を加えるわけだ。だから議論される、無垢さとは、本質的に幻想的なものなわけだ。

283 :くろしろー(本物):2005/05/26(木) 11:03:52
うーん。背景に老練を見るならよしとしたいのだが、無垢の二つの意味が現代の現象的な意味で使われている。「大人のベタ」「幼児の無垢」「作られた無垢ロリータ」だが「幼児の無垢」が問題だ。これはピュシス的で生物的であるものながら、パンパースに代表されるような制度ー歴史としての無垢があるということ。俺が指摘したいのはそんなこと。

「幼児の無垢」さもそう。生物的に無垢であるのは動物を見ればわかるが、その無垢をどう受け入れるかが社会的、環境的、歴史的等々によって違うとされる。例えば幼児ではないが、子供は近代の産物とされる見解もある。昔は子供も一定の役割を満たそうとして、働いていたとか。

286 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/05/26(木) 11:40:57
子供は近代作られたか。たしかに、若者は50年代にアメリカでつくられたし。だからそれは幼児の幻想(ファンタジー)な無垢だね。じゃあ本当の無垢そのものをひとは認識できないこととしよう。人が言語なしには世界を認識できないように。「無垢」とは制度、歴史によるエピステーメー?的幻想である、ということ。欲望はそんな無垢を欲望する。

そして、このような幻想の無垢から抜け出せないこと、欲望せざる終えないことを、ボクはデリダも必ず恋をする」いい、あるいはラカン「手紙は必ず宛先に届く」といった。この幻想の無垢をメタメタメタと脱構築しつづけることはできないわけ。「恋をした」ことを疑いつづけることなどできないし、苦しい。だからアイロニストはベタなロマン主義に落ち込みやすい。

「子供って無邪気でいいよね。」「でもこれってロリータじゃないのか?」「ロリータって所詮作られてものだよな。」「ボクが子供が無邪気って思ったのは、一種の洗脳かな。」「いやでも、子供を無邪気って、思うだけで、ロリータと思うことこそが、洗脳じゃないのか」「ぼくはただ素直に子供はかわいいって思っただけなんだよ。」「でもなんか性的な感情がないとはいえないかも」「幼児を性的な対象として見るように毒されてしまっているのか」「いや、そのように疑うこそが倫理的な過剰じゃないのか」「あーもういいや!かわいいには違いないじゃん!」「ロリータ萌え〜!!」・・・・とあぼーんする快楽」

60年代の反省ではまだ疑い続けた先に何かある、あるいは疑いつづけることができるという希望があった。すなわちそれこそ未分化な「無垢」だよね。だから人々は生き生きできた。いまの中国に頑張れば、先になにかあると信じられる「無垢」があるように。でもいま、日本ではそんな「無垢」はメタメタに解体され、なにかなんかない。お金でさえかえないと、ベタ化された。すなわち「歴史は終わった」わけ。それでもきみは何かを求め疑いつづけるのか?あぼーん動物化)して、お祭り気分で自分が無垢になるしかないでしょ。

ただあぼーんとして、「ハプニング」に向かうのはヤバすぎだから、自ら「幻想の無垢」を生産する、すなわち「クリエイティブ」にいくことが良いと思うわけ。重箱の隅のわずかな無垢を便りに自分で新たな未知の世界を作り出す。ボクがここ、あるいはブログで書くこともそうだよね。たしかはかつては2ちゃんねるで暴れて祭って、ハプニングで無垢をつくったけど刹那すぎるし、反動で凹むよね。それよりクリエイティブに自分の世界を開拓する。まあハニカムハーツ」化であるが。

ボクはくろちゃんにはブログを進めるね。ブログの可能性は、クリエイティブにおいて、いままでのオタクは閉じすぎてる。2ちゃんねる、ケータイは開かれすぎで、クリエイティブさにかける。その中間な感じじゃないかな 。

292 :くろしろー(本物):2005/05/26(木) 13:52:37
ウン大体俺が言わんとしていたことが、通じてきたようだね。俺が無垢に対していいたいのは、原始時代の無垢と現代社会における無垢とは違うんだということ、現代社会の幼児も現代社会における無垢であったが、無垢を取り巻く環境が違う。幼児はそれを鏡像にして自我を身につけるから無垢は当然違って当たり前。


■「歴史の終わり」
293 :くろしろー(本物):2005/05/26(木) 14:05:18
だから幼児に対してはそれでいいわけだけど、大人が発する無垢と言うものがある。それと歴史は終わったのかと言うとそうでもない。共産主義の終わりで資本制が終わりなき日常性を清算しているが、ただそれだけのこと。資本制自体は環境問題や資源枯渇の問題で歴史は終わったとはいえないと思う。環境問題はかなり政治的な問題で、2020年問題と言うものがあって、世界人口が100億を超え資源がそれに追いつかなくなるという。到底発展途上国から死んでいく。このときに暴動的な何かが産まれてくるのかもしれない。資本制が絶対とはいえない状況だ。イスラムの問題もあるし。

つまり「大人のベタ」「大人への無垢」「幼児に関する無垢」全てが今後変わらないというのは幻想ではないかと。資本制は問題を含んだ一経済体制だから、その先に変化があるのではないか。

ただマルクス的に動くことを言いたいわけではない。俺はマルクス自身の予想は死んだと考える。資本制に問題があるから、社会主義共産主義に動くって言うのはもはやありえない。歴史の終わりのフランシス・フクヤマヘーゲルに帰れと説く。ヘーゲルは入門書レベルで申し訳ないがこれで歴史が終わったと考えていたらしいね。

がどうか? 化石燃料に依存した資本制がいつかは崩壊するが、もとはマックスウェーバーがプロ倫で言っていた事。「最後の化石燃料を使い果たすまで」だったかな?環境問題や資源問題を解消しない限り、資本制が永続できるとはかなわない。まあ環境問題自体も疑わしい面があるが、資源は天然物に頼っている。これを解消できないと、どうにもならない。資本制が発展途上国から崩れ、やがて先進国にもおよび、時代の逆行した低コスト社会が出来るかもしれない。

300 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/05/26(木) 19:12:08
「歴史の終わり」にも、ヘーゲルからコジェーブ、そしてフクヤマとあるわけだけど、ボクがいうのは、コジェーブで、くろちゃんのいうのはフクヤマかな。コジェーブの「歴史の終わり」は、アメリカ的消費社会」であり、動物化だよね。ボク的には、大きな無垢は消滅し、あとはあぼーんの快楽」でハプニング的に無垢を作り出すしかない、ということかな。フクヤマはリベラルな自由と平等が、世界の終わりでしょう、ってことだね。くろちゃんがちょっと勘違いしているのは、これは時間的な終わりではないということ。たとえば、世界が破綻し、帝国主義にもどっても、またリベラルへたどる道を歩むだろう。と言う意味で、いわば「歴史の果て」だね。コジェーブとフクヤマアメリカということで繋がるわけだよね。だから、リベラルな自由と平等による豊かな資本主義社会によって、大きな無垢は消滅し、あとはあぼーんの快楽」で無垢を作り出すしかない、ということかな。

カタストロフィはいつの時代も語られるわけだけど、現代の一番は、「環境問題と人口問題」かな。カタストロフィを語る意味は、まさに無垢への欲望だね。未来が現在の反復(ベタ)であることへの反動として、過剰に未規定な無垢なものとしたい。カタストロフィは、そのとき無垢が欠乏している人によって語られる。くろちゃんはその傾向が出過ぎだね。

資源枯渇に関しては、エネルギー自体は、石油は増えているし、原子力という手はあるし、天然ガスはまだまだ大量にある。それを枯渇するというのは、現時点では、隕石が地球に落ちるから対策を!に近い。環境問題は、資源枯渇よりも、温暖化だよ。でもこれもなかなかあやしい。いまだにエネルギー消費のCO2が温暖化要因と証明されていない。さらに、多くにおいて環境問題は、無垢への欲望として作動しているね。なんでも環境対応の製品だといって、消費を煽っている。新しい無垢が消費を活性化させている。それに、地球が温暖化すると、悲観的なシナリオだけなのか、というものある。人口問題は、国際的に動きがとれないのは、根本は各国が考える国内問題だからね。国が貧乏なのに、人口増やすと、貧困になる。途上国が貧しいままなのは、実際は、先進国と途上国の搾取の構造があるわけだけど。あと、人口問題は宗教問題が絡むからね。

302 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/05/26(木) 19:21:35
リベラルな自由と平等による豊かな資本主義社会によって、大きな無垢は消滅し、あとはあぼーんの快楽」で無垢を作り出すしかないく、「歴史の終わり」に生きるくろちゃんは、マルクスというベタを語ることさえできずに、カタストロフィを語るあぼーんの快楽」によってしか、無垢作り出せない。

303 :くろしろー(本物):2005/05/26(木) 20:20:28
フクヤマのは丁度ソ連がこけた時に出した便乗商法だと思っている。資源は数千年先を見ての話、次々とエネルギーが出てきても天然である限り、いつかは枯渇するよ。発展途上国から死人が出て、先進国へと広がる。水素社会が実現すればいいのだろうけど、そうでない可能性もある。その数千年後、天然資源が枯渇し、また代わりのエネルギーがなくなった場合にリベラルな民主制であるかと思うと自明ではないわけよ。

304 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/05/26(木) 20:32:59
くろちゃんの「無垢」を潰すようで悪いけど、数千年先なんて、わけわからんよ。あと数十年で火星移住するとも言われているし、常温核融合だってできるし・・・

305 :くろしろー(本物):2005/05/26(木) 20:40:04
端的に無垢といわれても概念が混乱するのでやめたほうがいい。この場合仕掛けの無垢ーロリコン的なものが破綻したため『アボーンの快楽』に向かう。そういってくれればわかる。つまり仕掛けの無垢、共産制がこけたために資源の話で『亜ボーン」を味わおうとするのはマルクススレでよく見られる話。それが怪しいのは知ってるよ。『幻の水素社会』藤井耕一郎を読んでるが、まあ、これ事態怪しい本だが、環境問題の怪しさや政治性が垣間見られる。

                    
■ピュシスと無垢
308 :くろしろー(本物):2005/05/26(木) 20:48:48
無垢はマジで分けたほうがいい。違う概念を同じ言葉で使うから、ぴかあーの無垢は通じづらい。「生来の無垢」「仕掛けの無垢」と名づけた方がいい。

で、だ。話は戻るが「生来の無垢」ですら周りの時代や歴史性、構造制度もろもろから逃げられない。そういうものを自分と対象させて生きていかねばならないわけだからと言う視点をもつべきだといいたかったわけだ。

しかし「生来の無垢」「仕掛けられた無垢」とは違う。人間が動物である以上、「生来の無垢」であることは仕掛けられたわけではないわけ、「仕掛けられた無垢」「生来の無垢」を回復させるだけでなく、仕掛けに乗りたいと言う欲動を揺り動かす。

結局「構造と力」のピュシスとそのズレ欲動ではないかとw

316 :くろしろー(本物):2005/05/26(木) 21:42:13
無垢については浅田の焼き直し程度は書ける気がする。「生来の無垢」とは「ピュシス」に対応する生物本来の無垢だ。「仕掛けの無垢」とは例えば学校、会社、サークル等々、さまざまな人間の仕掛けに対応する無垢だ。例えば、朝目覚ましで起きる。眠い。このとき「生来として無垢」は眠りにつくことを宣言するが、そうはいかない。仕掛けに乗りたいという「仕掛けの無垢」がそれを上回り学校なり会社に行くために起きる。といった具合だ。

生物でも意識や理性や制御や大人であることはできるからだ。(「生来の無垢」)あくまで仕掛けに乗りたいという欲動なのだ。だから、クロマニヨン人と同じストレス反応を持つ体をストレス環境にさらす、そしてぶっ壊れる奴が出てくるわけだ。

323 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/05/26(木) 23:22:03
「生来として無垢」「仕掛けの無垢」ねぇ〜そのようなんだけど、なんか違うような。生来の無垢=「ピュシス」は、人には認識でいないわけだよな。本当の無垢は、認識(言語化)するとすでに汚されるから。だからどのような無垢は、すべて「仕掛けの無垢」でしかない。ということ。

325 :くろしろー(本物):2005/05/27(金) 01:19:53
ならば反論しよう。「生来としての無垢」は言語を含むよ。人間は言語を話す動物だから、それが自然。「ピュシス」は人間にとっては言語も含むものであるよ。言語つきで「ピュシス」にいたって言い訳。だがそれが出来ないからこそズレが発生しピュシスからでた「仕掛けとしての無垢」がでてくる。全てが「仕掛けとしての無垢」なのではなく、人間も動物として無垢でありうるということ。問題はその環境だな。それは仕掛けに満ちている。

326 :くろしろー(本物):2005/05/27(金) 01:28:21
生来の無垢(周りは仕掛けだらけだが、人間は生物であるので。)
仕掛けの無垢(これは自然状態を超えた文明だとか文化だとかに乗りたい願望)

こんなところかな。ピュシスと言う言葉は撤回してもよい。生物としての人間を認める自然状態とでも言っておくか?そもそもぴかあーの無垢概念は二つでなかったか?

大体動物だっていろいろな言語未然をもっている。言語が彼らにはないのか? と言うと疑問だ。人間が得意に言語的なだけな気がする。注意してくれよ。俺は生来の無垢を語ったが「その周りは仕掛けだらけ」と言うことを。

328 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/05/27(金) 08:50:08
「本当の無垢」に人が接すると人は破壊される。だから言語化して取り込んでいく。人が無垢を欲望するのは征服により不完全な自分を取り戻し、リアリティを勝ち取るためである。だから無垢は人が世界を言語化する中で、未開発だろう言語としてあらわれる。様々に語られることにより、開拓されとりこまれる。無理な無垢の取り込みは主体を不安定にし、幻想をみることにより緩和しようとする 環境問題、精神、宇宙の果て、ロリータ・・・無垢はかならず言語としてあらわれる。

330 :くろしろー(本物):2005/05/27(金) 09:15:01
それでは反論になっていないというか、俺のいう「生来の無垢」とぴかあーのいう無垢の意味には開きがあるのだ。「生来の無垢」とは唯物論的に、人が生物として持っている無垢と考えてよい。だから自分を壊すことはまずない。病気などといって自分を殺すこともあるがな。だが人間はしかける動物であってしかけの老練によって産まれた時から仕掛けが満載だ。この仕掛けを吸収して内面かして仕掛けに乗りたいという意思が起きるこれが「仕掛けへの無垢」だ。

無垢が必ずしも言語によっては現れないことは、フロイトの言う抑圧をおもいだせばいいだろう。マルクスの言う上部構造ー下部構造的なものでもいいだろう。抑圧をすり抜けた無垢だけが言語化できるし、言語によらない体感として現れる時もある。

そして老練も必要な概念だろう。「仕掛けへの無垢」は仕掛けに乗りたいだけだが、年を重ねるごとに仕掛けを作るがわに回り、やがて引退する。生来の無垢は仕掛けへの無垢を内面化するにしたがって抑圧されがちである。それでもその生物の本能的な部分として変化する。老人にも「生来の無垢」はある。

333 :くろしろー(本物):2005/05/27(金) 09:27:17
ぴかあーの言う無垢は意味が転々とするが、今度は「本来の無垢」ときた。だがそんなものはどこにあるのだろうか?社会に乗っている俺には見えない。

とにかくこれで無垢とされていたものが3つの概念提示されたわけだ。「本来の無垢」「生来の無垢」「仕掛けへの無垢」

335 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/05/27(金) 13:49:24
無垢の暴走だな。「本当の無垢」をどのように認識するのか。未分化だよ。認識されたとたんに言語に汚染される。たしかに僕ら自身が自然であり無垢であるが、それと認識とはちがう。世界は無垢であるが、人間の認識世界=象徴界は言語でできている。そして本当の無垢は言語化され、象徴界に送られシニフィアンの連鎖の中で消費されていくわけだ。

ボクの無垢ははじめから一貫しているよ。「本当の無垢」現実界「(幻想の)無垢」対象a

人はもともと欠けた存在なので、無垢を占領し満たされようとする。このために人は無垢という幻想を作り出す。たとえばロリータ。それの無垢を解体しようとあれやこれや語るわけだか、決して解体されえない。なぜなら「本当の無垢」は人には認識できず到達しえないから。

宮台的には世界/社会=「本当の無垢」「幻想の無垢」だろう。「本当の無垢」は社会に侵入してくる。それは名付けられ「幻想の無垢」として社会に送り込まれる。現代は無垢が侵入してもすぐに消化され、「幻想の無垢」が欠乏する。資源枯渇!という「幻想の無垢」は、すぐに石油埋蔵量が増えてるからと、解体される。なら僕らはどの「幻想の無垢」を生み出し、欲望すればいいのだろう。

無垢への欲望とは享楽であり、征服したいという暴力的な欲望である。無垢を欲望することは、社会的に禁止されたことである。たとえば新大陸の開拓、新分野の開発であってもそれは現状を変革してしまうことであり、禁止されたことなのである。しかし人は禁止の先の無垢を欲望するのである。

340 :くろしろー(本物):2005/05/27(金) 19:23:45
いやだからさ2種類あるんでしょ。これによると「本当の無垢」「幻想の無垢」。それを単に「無垢」としか表現しない文章を書きすぎるから概念がわからなくなるんだって言いたいわけだよ。ロリータ=「幻想の無垢」「本当の無垢」=人の到達できないエトセトラとはっきり分けて書いた方がいいよ。「本当の無垢」「幻想の無垢」と修飾語を頭につけないとわけがわからなくなる。

344 :くろしろー(本物):2005/05/27(金) 19:51:49
とりあえず、これで無垢に関してこう対照できるのではないかな。

俺    「生来の無垢」「仕掛けへの無垢」「本来の無垢」
       ぴかあ  無し/「幻想の無垢」「本来の無垢」


マルクスともドストエフスキーとも関係ない話のようだけどそうでもない。「白痴」なんて「生来の無垢」をもったムイシュキンが「仕掛けへの無垢」に挑む小説で最終的には元に戻っちゃうお話だ。「生来の無垢」だけの世界に。

   「生来の無垢」だが、これは人間で生物である以上、ある無垢だ。それ自体は人間を破壊しないが、病気をどう位置づけるかが問題だ。はじめはいろんな病気にかかる赤子も、だんだん抵抗力をつけていく。「生来の無垢」それ自体が変化していくもの、と今は仮に考えているが。

348 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/05/27(金) 21:12:34
「構造と力」読み直しているけど、くろちゃんはこの流れなんだな。P46の第一図がわかりやすいが、ボクはこの下の図で考えてるわけだね。カオスが「本当の無垢」であり、象徴秩序が「幻想の無垢」で、ピュシス。これが、くろちゃんのいう「生来の無垢」なんだろうが、ボクは、象徴秩序=「幻想の無垢」の中に含まれると思う。なぜなら、自然が完成された秩序であるというのは、人の認識した幻想でしかないと、考えるからだね。

350 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/05/27(金) 21:28:39
では、「本当の」「幻想の」をつけて、再度書くと、

「本当の無垢」は未分化であり、認識したたとたんに言語に汚染される。たしかに僕ら自身が自然であり「本来の無垢」であるが、それと認識とはちがう。世界は「本来の無垢」であるが、人間の認識世界=象徴界は言語でできている。そして「本当の無垢」言語化され、「幻想の無垢」として、象徴界に送られシニフィアンの連鎖の中で消費されていくわけだ。 人はもともと欠けた存在なので、「本当の無垢」を占領し満たされようとする。 このために人は「幻想の無垢」という幻想を作り出す。

たとえばロリータ。その「幻想の無垢」を解体しようとあれやこれや語るわけだか、決して解体されえない。なぜなら「幻想の無垢」に内在する「本当の無垢」は人には認識できず到達しえないから。 宮台的には世界/社会=「本当の無垢」「幻想の無垢」だろう。「本当の無垢」は社会に侵入してくる。それは名付けられ「幻想の無垢」として社会に送り込まれる。 現代は「幻想の無垢」が侵入してもすぐに消化され、「幻想の無垢」が欠乏する。資源枯渇!という「幻想の無垢」は、すぐに「石油埋蔵量は増えてるから」と、解体される。なら僕らはどの「幻想の無垢」を欲望すればいいのだろう 。「本来の無垢」への欲望とは享楽であり、征服したいという暴力的な欲望である。「本来の無垢」を欲望することは、社会的に禁止されたことである。たとえば新大陸の開拓、新分野の開発であっても、それは現状を変革してしまうことであり、禁止されたことなのである。しかし人は禁止の先の「本来の無垢」を欲望するのである。

356 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/05/28(土) 00:20:41
「構造と力」「一章 6 象徴秩序とカオスの相互作用」は、かなりボクの言っていることに近いですね。「秩序と混沌の弁証法「カオスの象徴的秩序への進入による象徴界の再構築」は、ボクの無垢の進入であり、さらに、「カオスの進入に関わる祝祭」は、ハプニングによる無垢の作成ですね。続けると、現代は、無垢が欠乏する故に、毎日が祝祭化している、繁華街や2ちゃんねるのように、ということとですね。それがあぼーんする快楽」というわけです。

2ちゃんねる 哲学板 「● マルクス と ドストエフスキー ●」http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1114173221/l50*1

*1:ただしスレッドの内容を必要にあわせて編集しています。