(2ちゃんねる哲学板)なぜマルクスも必ず恋をするのか 中

pikarrr2005-06-07

■イマジネールな死闘とサンボリックな秩序
346 :くろしろー(本物):2005/05/27(金) 20:05:31
「構造と力」(ISBN:4326151285)で価値形態論とあわせて「みなが殺しあう状態になって、解決策は一つ誰か一人を殺し、それが聖なるものになる」みたいなのがあったけど、価値形態論の理路整然と比べれば、浅田の思い込みなんじゃねーのと思う。例えば端的に皆が同時に殺しあうのをやめる事を思いつく、でもいいわけだし。キリスト教文化圏の哲学がキリスト教の物語を抜け出してないだけだと思う。

349 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/05/27(金) 21:16:19
それは、象徴化以前の想像的関係だからだね。人は他者の鏡像によってしか、自己を獲得できないとすると、自己の取り合いをかけた殺し合いになっちゃんだね。

364 :くろしろー(本物):2005/05/29(日) 00:07:05
「図解雑学」レベルの話だが諸法無我と言う観念がある。そこでは自分は他人との関係性で自分と見えるだけだ。例えば親と自分、自分と子供、自分と他人の関係性で自分であるだけだ。本当は無我なんだ、と言う教えだ。これって要するに周りが全部鏡像と言うことだろう。だが殺し合いは起こらない。自分を鏡で見て「あ、そう」と思うだけ。浅田のはもろキリスト教文化の影響を受けているよ。

370 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/05/29(日) 00:46:04
>例えば親と自分、自分と子供、自分と他人の関係性で自分であるだけだ。本当は無我なんだ、と言う教えだ。

これは、浅田の「イマジネールな死闘」とは違うでしょうね。「イマジネールな死闘」には、親、子、などの社会的な位置さえないという、もっと根元的な関係です。このような死闘を起こさないために、社会的な位置が与えられるんです。これは、フロイトのエディプスコンプレックスですね。本当は、純粋なイマジネール(想像界)の関係はなくて、そこには必ず、死闘を起こさないようにサンボリック(象徴界)な関係、すなわち社会性(親子の関係もその一つ)があります。社会的な関係性がパラノイアを抑えているとしても、実感として人はどこまでもパラノイアだと思いますが。すなわち誰かのようになりたい故に、生きているということです。他者は他者だよ、の方が、嘘くさいですね。

391 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/05/29(日) 08:10:19
イマジネール(想像界)、サンボリック(象徴界)は、フロイトのエディプスコンプレックスに対するラカンの読解なわけです。生まれてきた子供は、母とのイマジネール(想像界)をもつが、そのままで、「死闘」になるために、父の名によって去勢される。すなわちサンボリック(象徴界)へ参入させられる。浅田のはなしは、これを展開しているわけです。このラカンの物語も、浅田の物語も、概念的な話でしかないということです。しかしパラノ関係を律するために、社会性があるというのは、とても納得しやすい話だと思います。

393 :くろしろー(本物):2005/05/29(日) 15:51:41
なるほど、そういう流れなら話わかる。ただ、何ゆえか「母とのイマジネール(想像界)をもつが、 そのままで、「死闘」になるためにのメカニズム」がやっぱりよくわからない何で死闘となるのか? そこが問題だ。

397 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/05/29(日) 21:25:11
「欲望とは他者の欲望である。」というパラノですね。そもそも一人で自分を作り得ない。人は、他者の鏡像によって自分を見いだそうとする。しかしそれは他者であらねばならないという 一つの「疎外」であり、どこまでの満たされない不完全である。それ故に、さらに他者の鏡像を望む。というような物語でしょうか。しかしそれ以上に、「欲望とは他者の欲望である。」というのは、実感ではないでしょうか。パラノそのものが人間の根元性である。実感として、生きていく上で、嫉妬というのは避けては通れないし、自分でも押さえられない湧き上がる感情です。

399 :くろしろー(本物):2005/05/30(月) 16:08:00
うーんすると欲望を手に入れるために他者を殺すって言うこと?贈与じゃ駄目なの?それに仏教では自分では自己を築けない諸法無我三法印という根本教義におく。やっぱりそこには西洋思想の限界を感じる。

405 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/05/30(月) 18:39:50
イマジネールな死闘とサンボリックな秩序のバランスとということだと思います。たとえば、純粋な贈与などなく、贈与には絶えず、死闘と秩序のバランスが働いているということでは?死闘と秩序のバランスを崩し、死闘にいたらないために、教義があるのでは?人の本性に死闘がなければ、そのような教義は必要がないわけで。


■超越論的他者の欲望
417 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/05/31(火) 17:06:57
動物は、欲求する。欲求はマルクスの使用価値のようなもので、その対象自体が必要とされる。そして浅田やラカンの鏡像と殺し合いが、欲望。マルクスのいう商品、貨幣の物神性(フェティシズム)も、欲望。他者が望むから望む構造です。

418 :◆S36.4IHnMg :2005/05/31(火) 17:18:35
いやマルクスによると他人の欲望を満たすものが使用価値だ。欲求ではない。物神性は資本主義的構造に神秘的な絶対的なもの見出してしまう、と言うことで単なる欲望概念ではない。自らも他者からももとめる欲望のありかに、神秘的なものを見出してしまうものである。浅田とラカンノ殺し合いも欲望の一種類であってそのものではないと思う。

419 :くろしろー(本物):2005/05/31(火) 17:39:01
使用価値はもともと商品の分析として出てきたもの。商品は他人の使用価値であるから売れるわけだ。もちろん自分も他人にとっては他人である。だから使用価値をもとめないわけではない。と付け加えておこう。商品化されない使用価値、例えば空気とかでは単なる個人の欲求になるわけだが。

421 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/05/31(火) 17:54:02
欲求/欲望はヘーゲルから出てきたものです。定義が混乱しているのではないでしょうか。マルクスのいう、単なる欲望概念ではない物神性こそが、構造主義的な欲望です。その神性は、超越論的他者であり、大文字の他者よる承認という構造を持つものです。すなわち、商品が物神性を持つのは、それが誰か他者がほしがっているだろうという超越性によって、物神性を持つのです。またそれが、ボクのいう「まなざしの快楽」です。

使用価値に(超越論的)他者は必要ないでしょう。それが実用的に有用であるか、どうか、だけです。たとえば、カバンの有用性は、実用性だけですが、シャネルのカバンの価値は、物神性であり、(超越論的)他者が、そこを望んでいるだろうことにより、価値を持つのです。これが、ボードリヤールのいう「もの」シニフィアンとして消費されるということですね。

424 :くろしろー(本物):2005/05/31(火) 18:34:46
混乱しているね。主観的に欲求、他者が出てきて欲望と理解するが、ここでの他者は意味ないよ。商品で使用価値が他人の欲求であるとはあまりにもベタ。お決まりのマルクス用語なのだが。空気などは商品形態をとらないときは自分が欲求してもかまわない。

また物神性は超越論的他者を必要としない。ただ他人と自分の使用価値、交換価値が構造になってそこに神秘性を感じる、絶対性を感じると言うだけだよ。そこが超越論的なのかもしれないが、そういう見方をすることこそマルクスが批判したわけよ。所詮構造に過ぎないことを何神秘的だとか超越論的だとか言ってるんだってね。それこそがフェティシズムだろうと。超越論的他者を持ち出すからごっちゃになる。自分と他人それだけでいい。

428 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/05/31(火) 19:32:57
混乱しているね。マルクスの価値形態論は、古典経済学が無視した商品、貨幣の物神性(フェティシズム)に注目したのですね。なぜなら、それが資本主義の根元だからです。柄谷は、「探求」(ISBN:4061590154)の中で、この神秘性をヴィトゲンシュタインのパラドクスと絡めて、「命がけの飛躍(マルクス)」と呼びます。すなわちある商品がいくらになるか、ということは、古典経済学が考えるような商品そのものに内在する価値ではなく、他者に価値を決定されるという「命がけの飛躍」を必要とするからです。このヴィトゲンシュタインのパラドクスとは、どのような規則もそれを決定することはできない、ということです。たとえば足し算でされ、どのような場合もそれが正しいということはできない。12+36=48というときには、人々は「命がけの飛躍」をしているわけです。

それに対する、クリプキの解答は、共同体です。みながそれが正しいだろうと考えていることが、規則の正しさを支えている。大澤は、第三者の審級によって支えられているといいます。これは、ほぼラカン大文字の他者の意味ですね。これば、ボク的には「まなざしのネットワーク」と言うことになります。すなわち、超越論的な他者によって、規則は正しいという支えられている。超越論的他者によって、その商品に価値がある、ということです。ラカンによる、欲望とは大文字の他者の欲望である。ということです。人がシャネルを欲望するのは、大文字の他者が欲望することです。それは、超越論的な他者、シャネルをほしがっている人がいるという無意識が、シャネルへの欲望になっている。そしてシャネルの価格を決定しているのです。それがシャネルの物神性(フェティシズム)です。

さらにボクはそこから、「欲望とは無垢への欲望である」と呼びます。なぜ人がシャネルに高い金を出すのか?それはみな(超越論的他者)がほしがっているだろう、からであり、みなが所有する前に所有しなければ、というところに「(幻想的な)無垢」が生まれるのです。

431 :bbs :2005/05/31(火) 20:04:12
物質がその本質を超えようとするとき、その本質を超えた本質は、その時点ではないはずですから確かに実存的というか、幻想的です。ですが、人間が他者のまなざしからその価値を決めているとすると、その他者のまなざしの根拠は結局は自分自身の主観です。

日本人は水をほしがりませんが、砂漠地帯なら欲しがる人が多いために価値が上がるでしょう。結局は見えている他者のみが価値判断の基準でしょう。経済学のパレート最適の考えにある人の状態を他人の状態を悪化させずにその状態をもはや悪化させないことが状態として最適だという考えがありますが、ある主観的点の近傍における他者のみが問題でありそれは超越的ではないでしょう。

432 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/05/31(火) 20:14:49
主観的とは、なんでしょうか。ラカン「無意識は言語でできている」といいました。これは、言語が他者の言葉であるということであり、言語を習得するということは、自分の中で他者を住まわせることです。この他者が超越論的他者です。

434 :bbs :2005/05/31(火) 20:32:17
人間が一つの全体であるという説ですね。しかし、全体は既にこうして世界として存在している以上、その存在において主観性以上の要素は全体の中では無に近いのではないですか。この社会という全体の圧力の中では自分の世界性などあまり意味を持ちません。頭の中だけの行為は幻想的ではあってもあまり意味を持ちません。ノイズのようなものです。それに意味が全くないとは言いませんが。

435 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/05/31(火) 20:46:49
「人間が一つの全体である」というのは、ラカンであるよりもユング的ではないでしょうか。ラカンはむしろそれを否定したわけです。言語とか、完成された体系ではない、ということ、そのことが、規則の正しさは保証されない、商品の価値は決定されないということです。そのような意味での、一つの全体があるような超越的他者ではなく、超越論的他者なのです。

436 :くろしろー(本物):2005/06/01(水) 00:55:32
うーん超越論的他者で話が見えなくなって来たな。そこら辺がよくわからん。マルクスだけに限定するとはっきり言っていらない話なんだよね。超越論的他者。そもそも何故に他者なのか? 言葉の使い方から言うと一般的には他者=他人でしょう。ここでは哲学用語で他者=神くらいの意味になってしまう。それは何ゆえか、自ら=神でもいいではないか?

ただ柄谷なんかは「探求」で他者を追い回そうとしていたみたいだよね。俺はトラクリとマル中は呼んだけど探求は「教える学ぶ」「売り買い」を同レベルにしていたところでもうアウトで読まなかったけどね。だって共通のルールがあるからこそ「売り買い」が出来るわけで、「教える学ぶ」「売り買い」よりもっと深いところにあると思ったんでね。ナンセンスだと。

437 :くろしろー(本物):2005/06/01(水) 01:05:28
ただねフェティシズムについて言うと他者=神が欲しているから、シャネルに価値があるのではなく、自分と他人の使用価値ー交換価値の交差が社会的構造によって見えなくなリ、そこに神秘性を感じる。まあ神が出てきたから超越論的他者を感じるというだけで、マルクスはそれを否定的に見ているわけだよね。ぴかあの視点にはそれがない。超越論的他者=神が欲しているからフェティシズムなんだとマルクスが否定した幻想を見ているわけなんだよね。まあ超越論とか他者に疎い俺に話しても通じない。

438 :くろしろー(本物):2005/06/01(水) 01:12:10
価値形態論でも人間ー神(他者)ではないんだよね、人間ー人間の間に起きる交換を基礎においているだけで、それを他者(神)を持ち出してどうこう言うこと自体問題なんだよね。ナンセンスだと、亜流マルクス過ぎるんだよねそこんとこが。

440 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/06/01(水) 01:54:43
マルクスは、神秘性を否定的に見ているわけではなくて、資本主義の根本が、古典経済学が、無視した神秘性にあることを暴露したことになるわけです。しかし「自分と他人の使用価値ー交換価値の交差が社会的構造によって見えなくなリ、そこに神秘性を感じる。」では、なぜ神秘性を感じるのか、フェティシズムなのかの、説明になっていないでしょう。柄谷は、それを探求や、マルクスその可能性の中心で考察したわけですね。

これを、欲望論とつなげると、超越論的他者のまなざしということになると思います。シャネルの価値は、みんながそれをほしがっているだろうと思うから、たかがガパンが高いわけです。そこに宗教的な神は必要がない、というか、宗教的な神も同様な原理ということです。人は、たえずそのような超越論的な他者(大文字の他者)のまなざしの中にいるのである。それが社会という象徴界なのですね。どのような規則も、行為も、超越論的他者のまなざしなしには、成り立たないのです。みんながそう考えているだろう、みんながそうするだろから、行為は行われるのです。すなわち「構造と力」の示された、パラノによる死闘を避けるための、みんな=超越論的他者の機能があるのです。

441 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/06/01(水) 02:16:53
柄谷自身は、必ずしもクリプキ「共同体」であり、ラカン大文字の他者の超越論的他者を支持していないはいないようです。そして東はデリダを経由して、これを、否定神学と呼ぶわけです。ここまでくるとなかなか複雑で、否定神学のなにが悪い!と開きのることもできるわけです。

ボクは「偶有性から単独性への転倒において、神性は捏造される」といいまいた。たとえば、ある女性を好きになった。無数にいる女性の中でなぜ彼女なのか?それは、たまたま多く会った。やさしくされたなどであるが、とにかく、彼女は運命の人で、特別なのです。ここで偶有的な存在が、単独な存在へ転倒され、そのときに対象に運命、女神などの神性が捏造されるのです。

それは、みんなが彼女を欲望しているという超越論的他者の幻想が、彼女に神性をあたえるわけです。それがまなざしの快楽です。人は、否定神学を疑い続けることなどできず、「くろちゃんはかならず恋をする」のであり、人は必ずどこからに神性を担保する存在なのです。

それが、商品のフェティシズムの意味です。人はそれが特別な贈り物であるように振る舞うのです。なぜならそれが、自分自身の特別さを保証するからですね。


443 :くろしろー(本物):2005/06/01(水) 02:57:10
まず違うのはマルクスは物神性を否定的にとらえていたということ。なぜ神秘的かと言うと金さえあればどんなものでも買えるから。またはjj的ブランド志向マルクスはそれらに対してフェティシズムと読んだわけです。柄谷は労働価値説はパスして価値形態論を一番初めに出したがっている。だから怪しい。ムロン労働価値説が正しいいわけではないが

444 :くろしろー(本物):2005/06/01(水) 03:07:55
>自分と他人の使用価値ー交換価値の交差が社会的構造によって見えなくなリ、 そこに神秘性を感じる。

それはマルクスがベタな労働価値説を取っていたからです。だから怪しいなと思ったものを僕波排除してますが。そのもっとも怪しいと思ってるのは全剰余価値=全搾取です。とりあえずマルクスはいい気持ちになったんでしょう。等価交換と言う言葉を創造してから。まあ、説に取り付かれるとそうなるもんなんでしょう

445 :考える名無しさん :2005/06/01(水) 03:11:06
ぴかぁとくろしろの差異は、けっきょく資本主義社会における商品フェティシズムの必然性をどう考えるかの差異なんだな。ぴかぁは資本主義社会および商品フェティシズムの必然性を人間存在が持たざるおえない必然性にまで高めて理解(誤解)してしまっているのに対し、くろしろは資本主義社会および商品フェティシズムの必然性は強力だが、あくまで歴史的なものであって、廃棄不可能なものではない必然性であると考えている。もちろんくろしろのほうが正しいわけ(資源枯渇というのは極論だが、このへんを理解している証拠でもある)。

447 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/06/01(水) 03:27:17
マルクスが物神性を肯定的にとらえていたか、否定的にとらえていたかは、関係がない。否定的にとらえる前に、物神性を指摘したことが、新しいわけです。この価値形態論こそが、マルクスがいまだに価値のあるところでしょう。たとえばアルチュセールは、マルクス「国家は幻想の共同体である」「商品、貨幣の物神性」、あるいは「国家のイデオロギー装置」ということを「実践的イデオロギーとして、人間的、欲望論的に分析しました。

448 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/06/01(水) 03:34:42
単にマルクスの言説の中の、物神性の価値をどのように位置づけるの差だけです。柄谷であり、浅田であり、アルチュセール、要は構造主義を経過したものは、まさに物神性から欲望への展開を重視してみるわけです。くろちゃんには、その視点が欠けている。しかしマルクスは、その後のマルクス主義全般まで広いわけで、様々な切り口、考え方がある。
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