(2ちゃんねる哲学板)なぜマルクスも必ず恋をするのか 下

pikarrr2005-06-08

■「くろちゃんはかならず恋をするが、かならずすれ違う。だから再び必ず恋をする。」
458 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/06/01(水) 08:13:38
マルクスは、物神性を見いだし、否定的にとらえた。まさにそれが失敗の理由ですね。欲望を甘く見た。かといって、資本主義も欲望をコントロールできず、危険を抱えている。だからマルクスはいまも読まれる意味がある。

マルクスは諸悪の根源が欲望にあることに気付き、コントロールしようとした。資本主義は無頓着で、神の見えざる手によりほっとけばなるとかなるとした。そして欲望のコントロールは失敗する。マルクス的にも、資本主義的にも。なぜなら「くろちゃんはかならず恋をするから」

469 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/06/01(水) 12:45:45
ボクは物神性の構造を「偶有性から単独性への転倒は神性を捏造する」といった。柄谷は単独性を固有名とつなげる。固有名、名付けられることは、確定記述の束に還元されないことであり、そこに他者性という剰余が生まれる。すなわち名付けられることが「偶有性から単独性への転倒」であり、超越論的他者のまなざしがうまれるというわけだ。「この商品」がほしいと欲望されるとき、それは世界の唯一の商品となる「なもん、いくらでも山積みされてるがなあ」といっても意味がない。恋には代替はないのであり、「くろちゃん」にも代替はないのだ。

だからこの場合に超越論他者が否定神学であるのは、人が必ず恋をするように、神性から逃れることができないからだ。恋をしているものに、恋人など、錯覚であるということには意味はないし、だれもが恋をするのである。445のように「ぴかぁは資本主義社会および商品フェティシズムの必然性を人間存在が持たざるおえない必然性にまで高めて理解(誤解)してしまっている」というのは、間違いである。物神性(フェティシズム)は言語を持った人間の根元的な特性であり、ただマルクスのいうような歴史観、資本主義社会における共同所有から個人所有への転換は、欲望の発生ではなく、欲望の強度の増加である。

しかし勘違いしてはいけないのは、商品の物神性であり、名付けであり、恋であり、それはすれ違うしかない。すなわち自分の中にしかない。単独性は反転して自分の単独性をえるため、すべて自分が承認されるための行為なのです。だからラカン「性関係は存在しない」といいます。しかしまた自分が承認されることはない。「くろちゃんはかならず恋をするが、かならずすれ違う。だから再び必ず恋をする。」これぞ欲望であり、これぞ人間であり、資本主義の原動力です。

472 :bbs :2005/06/01(水) 17:13:18
確かに、得た瞬間にそれらの価値は消えますね。ですが、自分で単独的に考えるのはどうかと思います。価値は常に他者と関係することで生まれ、交渉によってそれらは統制されるでしょう。暴走しやすいのは資本の外部性が無視されるためです。それは、適切に他者を見ない(超越論敵他者のみで認識する)ためであり広い観点を個々の個人が持てないためです。交渉の高度化によって資本主義もまた発展の可能性があると思います。

473 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/06/01(水) 17:41:01
柄谷が探求で独我論に陥らないようにと、指摘し、東が否定神学といったたのもまさにそこです。しかし問題はボクたちが独我論から逃れるすべはないということです。数学だろうが、会話だろうか、価格設定だろうか、それは言語ゲームでしかない。安易に他者と仲良くということに意味はないのであり、恋を「命懸けの飛躍」で告白し実り、彼女もどんなにボクが好きでも、ボクが考えているように彼女がボクを好きかなどわからない。会話とはすれ違うしかなく、「性関係は存在しない」のです。

だからといってこの世界は独我論だ!といっているわけではなく、そのような断絶が存在する、「神話なき神話の世界」に生きていることを理解しないと、マルクスも資本主義も正しく理解できないのではないか。なぜならそれでも「くろちゃんはかならず恋をするからです」

477 :くろしろー(本物):2005/06/01(水) 18:16:46
まあ、論理だけだろう。「性行為が存在しない」「利潤の源泉は全て搾取である」「恋を必ずする」のも独我論「他者」「超越論的」なのもサイファも」。しかし論理と現実は必ずしも一致しない。現実的には労働力商品として代わりは在るし、恋でも代わりはあるさ。

485 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/06/01(水) 18:46:26
くろちゃんはマルクス師匠からなにを学んできたのでしょうか。これらが単なる論理なら、みんなジャージを着ればいいのです。国が大量生産する統一したジャージを着ればいいのです。ヒラヒラや、赤青や、ノンノンも、自分だけの部屋の飾りも必要がない。恋も必要がない。ここにあるのは、意味不明な原始的な呪物崇拝の世界と何ら変わらないのです。

492 :くろしろー(本物):2005/06/01(水) 19:13:01
それらが現実ではないからみんなジャージを着ないんだよ。俺から言うと。

494 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/06/01(水) 19:17:28
違うでしょう。それが現実であり、その現実を変えるために、マルクスは、みんなにジャージを着させようとしたんだね。

495 :くろしろー(本物):2005/06/01(水) 19:23:22
マルクス自体に未来の展望はほとんどない。断片的なものだよ。だから好き勝手にアレンジできる。ジャージをはく社会は旧共産圏ではありうることだろう。要するにマルクスは無責任なんだよ。

497 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/06/01(水) 19:31:29
マルクスは、個人所有を否定し、共有所有へ回帰することを説いた、すなわち個人所有が生む欲望の暴走を抑圧しようとした。みんなにジャージを着せようとしたわけだ。欲望は人の根元的なものだから、その抑圧は暴力的な、不条理なものにならざる終えない。同じジャージなど誰も着たくないから、権力によって、人権を無視するように着せるしかない。そしてジャージを着せられた人々は意欲を失っていく。

500 :くろしろー(本物):2005/06/01(水) 19:41:38
それはどの文献? イメージだけだろう。マルエンでは生産手段の共有で私的財産は保障される。否定の否定だ。だから必ずしもジャージではないわけ。生産手段を共有し、ジーパンを作ってもかまわない。

マルクスは実際無責任な話だが、共産主義論を書けなかった。共産主義に関しては断片的でしかない。そんなものをシステム化しようとしたなれの果てが旧共産圏。それがジャージだが、実際上手くいく共産主義が提案されたためしはない。まさに神頼み状態。

503 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/06/01(水) 19:57:49
今の、マルクスの価値は、精神分析的資本主義の正確な描写にあるのでは。そして現代は、精神分析が陳腐化しつつあるわけだね。マルクス的な描写は越えられようとしてとも言える。資源枯渇的な物語も、陳腐化している面がある。

ではなにが新しいのか。それは「まなざしの快楽」からあぼーんする快楽」である。このときにジャージを着ることへの反発はなくなることはあるのか。たとえば薬物などで、あぼーんと快楽が与えられるときに、人は着るものなど、気にしなくなるのか。「くろちゃんは必ずしも恋をしなくなるのか?」その極限が、遺伝子操作だね。


■社会の素朴実在論
525 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/06/03(金) 10:37:25
マルクス伝記呼んでますが、まさに「無垢の時代」ですな。産業革命プロレタリアートの出現と無放置な搾取、ヘーゲル止揚が信じられ、野蛮で力みなぎる騒乱の時代。そこではマルクスもピースの一つでしかない。言葉そのものが何かを変える、力をもちえた、まだまだ無垢な言葉が存在した時代。それに比べて現代の言葉のいかに軽いことか。

528 :くろしろー(本物):2005/06/03(金) 18:39:23
まあ、それはともかく。哲学そのものに興味のあまりない僕にとっても?となる哲学用語がある。例えば現実界これは象徴界想像界しか人間はわからないのだから現実界?と「?」をつけるべきであると思う。あと象徴界も相補概念として「言語的なもの」「体感的なもの」に分けるべきだと思う。たとえば学問とスポーツとか。同様に知りえないものとして、イデア?、物自体?、と「?」が必要だと思う。まあ細かいことだけど。

530 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/06/04(土) 00:20:41
たとえば、足の小指を打つ。「痛てぇ〜!!!」というとき、純粋に生理的な痛みは存在しない。必ず言葉(象徴界)に毒されている。すなわち純粋な痛みというのが、現実界なんだよね。でも科学の発達は、痛みを「痛い」という言葉以外で表現する。様々な計測によって数値化して示す。数値も一つの言語ではあるけど、やはり言葉とは違う。その延長線上で行くと、たとえば、くろちゃんは、医者にいくと、薬をもらうという。薬は数値的に管理されてものであるけど、それを飲むことによる生理的な体の反応は、もはや言葉で表現できなかったりする。すると、それは「存在しない」んだよ。すなわち「存在しない」ことが増えている社会になっているということ。

こういうのを現実界の知」というんだけど。斉藤環などは、ラカンのある意味の裏面を、サイバネティックスベイトソンで補完するとよいと言ったりしてる。

532 :くろしろー(本物):2005/06/04(土) 13:28:57
なるほど、現実界は感覚的にはつながっているわけか。そうすると俺の理解が間違っているな。まるで届かない世界ではないわけだ。物自体?、イデア?とも違う。生理的なからだの反応は存在しないわけではないだろう。言語化できないだけで、体感に「名状しがたい凄いこと」があるのは宮台も指摘している。言語化できないものを「存在しないこと」と認識したがる社会構造が広まっていると言うべきかな。あとマルクスは変な奴。資本家エンゲルスの援助があってなぜ子供が死んだりするのか? 金遣いが荒かったらしい。

533 :くろしろー(本物):2005/06/04(土) 13:31:59
例えばデリタやヴィトの哲学の破壊も言語に視野を主においている。しかし体感に意味があることを忘れてるんじゃないか?と思ったりもする。仏教や禅なんかは体感を元に気づきを得ようとしているね。

534 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/06/04(土) 13:44:51
だから物自体なわけですね。そこに何かがある。しかし人はその真の姿は見ることはできず、言語で毒された形でしか認識できない。それをカントは「物自体」とよび、ヴィトは「語り得ぬもの」とよび、ラカン現実界、あるいは「存在しない」と呼んだ。

535 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/06/04(土) 13:53:22
>しかし体感に意味があることを忘れてるんじゃないか?

実はこれが、ボクたちの素朴実在論的感想。科学技術世界。たいだい、哲学なんって今時奇特なものにはまらないと、認識(懐疑)論なんて知らないし、素朴実在論で一生生きていく。しかしそれはまた認識(懐疑)論を学ばないだけではなく、現代は社会が素朴実在論化していのではないだろうか。すなわち科学技術の発達が、言語を越えて、認識を越えて、すなわち意識+無意識を越えて、(ラカンは無意識は言語でできているといったから)生理的反応を豊かにしている。もどるけど、本来認識できない現実界現実界の知」として、知識化されている。くろちゃんの医者で薬をもらう話も、言語ではく、生理に向かっているわけでしょう。そこに現実界で、言語化できないところだけど、薬という「知識」によって対応するということは、現実界の知」として、言語化されているだけだよね。人には認識できなくても。

537 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/06/04(土) 14:03:22
マルクスも、思想、あるいは哲学そのものも、まさに象徴界的な世界だよね。かつては確かに、言葉そのものが何かを変える、力をもちえた、まだまだ「無垢な言葉が存在した時代」があった。いまは、もっと言葉に溢れているけど、それ故に言葉が軽い。たまに見かける選挙演説や、右翼の宣伝カーなどの演説口調もベタベタで無垢じゃない。その意味で、現代は無垢は、まさに言語化されない生理的な反応にあるのかもしれない。といいながら、ブログの流行は、まだまだ言葉が無垢があり、人々が言葉から逃れられないことを示しているのかな。



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*1:本内容は、2ちゃんねる哲学板「● マルクス と ドストエフスキー ●」スレッド http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1114173221/l50 からの抜粋です。ただし内容は必要にあわせて編集しています。

*2:くろしろー(本物)のはてな http://d.hatena.ne.jp/kurosiro1/