なぜマルクスも必ず恋をするのか 番外
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■本当の無垢とは?
- くろしろー :
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「本来の無垢」、「虚構の無垢」は、俺が指摘したとおり、相補概念的なものもあるが、人間が自然に対してどういうことをするか?という点でマルクス的なんだな。単に無垢といってしまったほうが、ブログと見出しとしては面白いけど、果たして読むほうはどうか?ぴかあーが無垢、無垢といっているのは。「虚構の無垢」に過ぎない。「本来の無垢」に会うと人間は崩壊してしまうから。そこら辺を突っ込まないとピカーのマイ哲学もあぼーんになる。
- ぴかぁ〜 :
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くろちゃんはなかなか鋭いな。簡単にいえば、混乱しているのさ。では、もう一度整理しよう。「欲望は(虚構の)無垢への欲望である。」ということ。ボクたちがロリータを欲望するのは、決して一般的な幼児ではなく、ロリータという幻想なわけだ。(虚構の)無垢への欲望が、ロリータを作り、欲望するわけだね。ここまではよい。
ではこの「(虚構の)無垢」とは、何ものであるか、ということなんだよ。本当に単なる虚構か。たとえば、ボクたちは「女性」とエッチしたいとおもう。しかしこの「女性」でさえ、「(虚構の)無垢」なんだよね。だからラカンは「性関係は存在しない」といった。すなわち、本当にボクたちが「女性」とエッチしても、それは幻想なんだから。
しかしこれは、独我論であり、ボクたちが幻想の世界に生きて、本当はエッチもしていなくて、エッチの幻覚をみているだけだ、ということではない。欲望して、「女性」とエッチをしたことは確かだけど、「本当の性関係」=「動物がする本能としての生殖のための性関係」ではない、ということ。そして人間には、「本当の性関係」はできない、ということ。幻想(ファンタジー)に毒されてしまう。
- ぴかぁ〜 :
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しかししかし、もう一回反転して、ボクたちは、教育されたから、そして女性に欲情するのが正しいと言われたから、女性に欲情するのか。そうではない。だからロリータにも、女性にも、エッチにも、言葉に毒されてはいるが、その先に、「本当の無垢」があるのでは、ということだね。
ラカンはその先がないということではなくで、人には認識できないから、「存在しない」と表現したわけだね。そして、「(虚構の)無垢」の場所を、ボクたちが認識できる、象徴界であり、想像界と呼んだ。また認識外を現実界と呼んだ。そしてラカンは現実界を深く掘り下げなかった、なぜなら認識できないから。
- ぴかぁ〜 :
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しかししかししかし、科学はこの現実界を掘り下げているわけだよね。精神病でも、精神分析ではなく、薬など科学治療が行われているのもそのためだよね。「本当の無垢」が重要になっている。それは、フロイトの「死の欲動」、ラカンの「享楽」、ニーチェの「力への意志」、ドゥルーズの「差異と反復」である。さらには、科学でいえば、複雑系の「カオスの辺縁」、「1/fゆらぎ」に注目している。
1/fのゆらぎとは、人は半分の反復と半分の差異に安らぎをおぼえるというもの。たとえば電車の眠くなるのは、電車の音が、半分のガタゴトガタゴトと、半分のカオスなノイズからできているから。たとえば、波の音もそう。人間の鼓動も。すなわち差異とは、「(本当の)無垢」であるわけだ。
- ぴかぁ〜 :
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さらに、パースペクティブを広げると、この世界に反復など存在しない。生命はその稚拙な情報処理能力故に、世界を反復に還元して認識しようとする。まったく同じものなどないが、それは同類として分類し認識することで、記憶する情報量を削減する。その延長線に言語があり、象徴界があるわけだ。しかし同じように認識、同じように行為してたら、生き延びられないから、そこには絶えず、反復に回収できない差異がうまれる。そしてその差異こそが重要である。その生命の特性が「本当の無垢」への欲望ではないのか?
まあ、ここまで拡散するつもりはないけど、あぼーん化する現代社会での、「(本当の)無垢」への欲望の意味を考えようとしているわけ。*1
■カオスの辺縁という転倒、反転 - 考える名無しさん :
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「無知への欲望」、フロンティアが対象a、享楽だとすると、「秩序への欲望」、ホーム、つまりノスタルジーはラカン的には何?単なる欲求?
- ぴかぁ〜 :
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なぜ無垢を欲望するのか。無垢を秩序へと変えるためです。これが対象aです。「無垢への欲望」と「秩序への欲望」は裏表なのです。
ボクは「偶有性から単独性への転倒では神性が捏造される」と言いました。すなわち「デリダも必ず恋に落ちる」のです。それは、「ボクは誰でもない唯一のこのボクだ。」という承認です。
それに対して、「単独性から偶有性へのリバース(反転)」が起こります。「デリダも必ず恋をするが、恋は必ずいつか冷めるのです。」捏造された神性が、暴露されるのです。完全なる「ボクはこのボクだ。」という承認は、終わり(死)です。だからリバース(反転)するのです。リバース(反転)によって、新たな偶有性((本当の無垢」)を呼び込むのです。
そしてまた、恋をするのです。このような運動が、主体を維持し、社会を維持しているのです。
これが無垢(カオス)と秩序の境界すなわち「カオスの辺縁」、対象aです。すなわち、ラカンの「手紙は必ず届く」とデリダの郵便的、「手紙は必ず届くとは限らない。」は、「カオスの辺縁」の裏表なのです。そしてそれは、エントロピーの減少と増加である。
*1:本内容は、2ちゃんねる哲学板「● マルクス と ドストエフスキー ●」スレッド http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1114173221/ からの抜粋です。ただし内容は必要にあわせて編集しています。
*2:本内容は、2ちゃんねる哲学板「まなざしの快楽(未知への欲望) PART6 」スレッド http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1116841958/ からの抜粋です。ただし内容は必要にあわせて編集しています。