なぜラカンは最強なのか?

pikarrr2005-06-10

ラカンの呪縛
美大
無垢(未知)への欲望、フロンティアが対象a、享楽だとすると、秩序(既知)への欲望、ホーム、つまりノスタルジーラカン的には何?単なる欲求?

ぴかぁ〜
なぜ無垢(未知)を欲望するのか。無垢を秩序(既知)へと変えるためです。これが対象aです。無垢への欲望と秩序への欲望は裏表なのです。

ボクは「偶有性から単独性への転倒では神性が捏造される」と言いました。すなわちデリダも必ず恋をする」のです。すなわち脱構築し続けることの不可能性です。それは、「ボクは誰でもない唯一のこのボクだ。」という承認です。

それに対して、「単独性から偶有性へのリバース(反転)」が起こります。デリダも必ず恋をするが、恋は必ずいつか冷めるのです。」捏造された神性が、暴露されるのです。完全なる「ボクはこのボクだ。」という承認は、終わり(死)です。だからリバース(反転)するのです。リバース(反転)によって、新たな偶有性(無垢)を呼び込むのです。そしてまた、恋をするのです。

この秩序/無垢の間の転倒/反転は、ラカン象徴界現実界、柄谷の内在/超越の往復運動です。そしてこのような運動が、主体を維持し、社会を維持しているのです。これを無垢(カオス)と秩序の境界、「カオスの辺縁」対象aです。ラカン「手紙は必ず届く」デリダの郵便的、「手紙は必ず届くとは限らない。」は、「カオスの辺縁」の裏表なのです。

この転倒/反転は、エントロピーの減少、増加にも対応する。たとえば、時間とはエントロピーの増加という不可逆性である。これは、たえず「(本物の)無垢」が進入していることをい召している。ボクたちはこの「(本物の)無垢」を反復へと回収する。すなわち象徴界へと回収する。秩序立て、エントロピーを減少しようとする。ここに反復(秩序)と差異(無垢)のサイクルが生まれる。それが時間の経過である。

美大
なるほど。ラカン的に秩序(ノスタルジー)を説明すると超越し続けることに耐えられない、ゆえに内在するって感じか。無垢(フロンティア)への欲望の順序を逆に辿ることで説明できるわけですね。そうすると秩序(ノスタルジー)における主体を揺るがすような強度も説明できますね。単独性の安心感を味わっているつもりでも、そこには偶有性、届かない手紙が顔を覗かせている。それは捏造された神性としてまたリバースする。内も外もないわけか。ラカン強っ

ぴかぁ〜
そういうことです。ここには、ある意味、デリダ差延も、郵便的も、ドルゥーズの差異と反復も含まれています。さらにいえば、ニーチェ力への意志も含まれている。ラカン最強なわけです。

美大
ただそれだけ切れ味が良いとラカニアンは逆に「生き生きしたもの」に出会いにくい気が… ベタにメタをやってもメタという時点で反復というバイアスがかかっていって、アウラという幻想も確実に消尽しているわけで。蓮実のジジェクは同じことしか言わない」とは、そのへんのことを言っているわけですよね。東は動物の存在を知ったがために二度と動物にはなれないわけですから。デリダ的なものまでラカン的に処理されてしまうとするならば、アルトー、バルト的な主体消失の制度は働かないわけですよね。ラカニアンにイリヤの夜は不可能なわけですよね。それは単に「存在しないもの」として主体側から処理されてしまう。そうなってくると疑問なのがラカニアンは「生き生きしたもの」に出会えるのかどうかということ。あくまでも形而上のラカニアンは、てことです。 形而下のラカニアンは出会いまくりでしょうから。「性関係は存在しない」とかではなく強度の次元においてラカニアンの主体は維持できるのかどうかという問題です

ぴかぁ〜
だからボクは最近ずっと「生き生きしたもの」と ノイローゼ的?に言い続けているわけです。 そして周りの人には苦悩がまったく伝わらない。ラカンから脱出を試みて、「まなざしの快楽」からあぼーんする快楽」 (すなわち象徴界から現実界への逃避)と言ってみているわけですが、実は、ラカンの強力さから抜けられなく成っているわけです。

これは、実はジジェクだけでなく、東の動物化、さらにはデリダドゥルーズさえも同じではないかと思います。現代思想自体が、ラカンから抜けられなくなっているのかもしれません。


フロイトは猿を精神分析するか
考える名無しさん
柄谷、浅田あたりはぴかぁの理論は全否定だと思うけど。彼らはぴかぁ理論が最終根拠にしてるニューサイエンス的な生の哲学を嫌悪してるからね。

ぴかぁ〜
ニューサイエンス???浅田の「構造と力」(ISBN:4326151285) もなかなか生です。もはや芸術作品ですね。しかしラカン現実界でも、柄谷の「他者」でも良いが、科学とのスレスレまで来ている。現にジジェクや、斉藤環はアクロバティックに越えてる。たとえば、柄谷の「他者」「コミュニケーション可能な他者」というときに、もはや科学へ近接しているでしょう。

考える名無しさん
ラカン現実界や柄谷の「他者」概念が科学すれすれ?柄谷の「他者」「コミュニケーション「不」可能な他者」だろ?関係の絶対的外在性(内面化不可能性)から倫理へ、というほうが正当で、そこから科学へ、って・・・意味がわからん

ぴかぁ〜
柄谷の「他者」はカントの「物そのもの」であり、「自然」であり、というようなに、必ずしも「コミュニケーション可能性」を必要しないようです。しかし「他者」から倫理へと導こうとするときは、そうはいかない。

この倫理に自然は、犬は、猿は、含まれるのか。含まないためには、どうしても「コミュニケーション可能性」の境界を想定しなければならなくなるのです。たとえば、柄谷の「教える−学ぶ」を考えるとわかりますが、外人、子供などといっていますね。それは、「関係の絶対的外在性(共同体外)」ということですが、そこには、教えることができる、学ぶことができるという、最低限の「コミュニケーション可能性」が担保されているわけです。

ここでは、ボクたちが、とりあえず「話しかけてみよう」と思う境界はなんだろうか、と問われます。最近はシャレで犬語の翻訳機バウリンガルとかありますが、日本語、ラテン語などの言語の違があっても、懸命に話しかければ、通じ合うことができるだろう「コミュニケーション可能性」フロイトが猿を精神分析しようなどと思わないだろう、ということです。

それは、ベイトソンのコミュニケーション理論の「ゼロ学習」です。「ゼロ学習」的な「コミュニケーション可能性」とは、生態学の要請する同一種のコード/デコードの機能の同一性」、すなわち生態学的同一種の人間ということです。猿や犬では得られないような、言語を越えたところで「わかりあえる。」ということ。そしてこれは、ラカンが、「性関係は存在しない」というコミュニケーションのレベルです。だから、ラカン的には「柄谷の「他者」は存在しない」わけです。これはデリタの「他者」にもいえます。

柄谷は、「探求Ⅱ」(ISBN:4061591207)でおもしろいことを言っています。「実際のところ、内部/外部及びその境界といったタームは、ロートマンがそうであるように、数学的なものである。」*1この意味は、現実界に限りなく近づく表記方法は数学である、ということ。数学を含めて科学を、ラカン現実界の知」と呼ぶます。すなわち「存在しない他者」現実界を表記するためには、(数学までは達していないが)「ゼロ学習」というような科学な知が必要になるということです。

考える名無しさん
違うだろ。対話(交換)以前には最低限の「コミュニケーション可能性」すら担保されないんだよ。それを事後的に見ると最低限の担保の根拠を任意のものに負わせることが可能であるかのように見なすことも出来るが、それは捏造であると。これはラカンデリダ、柄谷、浅田、ジジェク、東あたりに共通した考え。

だからかつて東は柄谷の「探求Ⅰ」を評価したが、それ以後の「Ⅱ」「Ⅲ」には不満で存在論的、郵便的を書いたわけでしょう。

ぴかぁ〜
「それを事後的に見ると最低限の担保の根拠を任意のものに負わせることが可能であるかのように見なすことも出来る」とは、先にボクがいった「偶有性から単独性への転倒」のことですね。これを、ラカンデリダ、柄谷、浅田、ジジェク、東あたりに共通した考え」ということはできます。しかしそこにはベイトソン「ゼロ学習」は含まれていないのです。たとえば斉藤環「文脈病―ラカンベイトソンマトゥラーナ(ISBN:4791758714)で、ラカン「ゼロ学習としてのコミュニケーション可能性」が抜けており、ベイトソンラカンのコミュニケーション論は、綺麗に補完関係にあると言って、オートポイエーシスによる強引な?カップリングを試みています。

ボクも含めて、ラカンデリダ、柄谷、浅田、ジジェク、東あたりに共通した考え」ラカン派と仮に呼べば、ラカン派には、「ゼロ学習」は存在しないのです。ラカン派においては、人と人のコミュニケーションは「すれ違い」でしかなく、逆説的に、犬や猫と植物さえ(ラカンは月とのコミュニケーションを語るが)人と同じようにコミュニケーションできるのです。

だから柄谷やデリダのようにここに倫理を呼び込むとき、どうしても、「ゼロ学習としてのコミュニケーション可能性」が立ち現れていくのです。そしてそれは、強引ではあるが、ベイトソンのような科学によってしか、表記できないのです。

この「ゼロ学習」という科学的な手法は、柄谷だけでなく最強ラカンにも使える、「反転」を突き抜ける可能性の一つです。しかしいまの哲学には「存在しない」ために、斎藤環のようなアクロバティック性が必要とされるでしょうが。


リストカットという内在への「転倒」
ぴかぁ〜
東の動物化も、「反転」の突き抜けを目指します。しかし斎藤環「解離のポップスキル」(ISBN:4326652888) の中の斎藤×東の対談を読めば、わかりますが、必ずしも上手くいっていないようです。「斉藤さんと僕の違いはラカンの用語を使うかどうかの違いしかない(東)」

逆に、宮台は、「反転」から「転倒」へ運動を問題にします。たとえば超越と内在は、宮台の「世界」「社会」になります。そしてポストモダンという「反転」する世界、すなわち「社会のそこがぬけている」中で人々は超越に、動物化して、まったり生きるはずが、その反動で急激な「転倒」が起こっている、ということです。これは大澤も同じ視点であり、現代を「不可能性の時代」と呼びます。

それがオウムなどのような新興宗教への没入です。またたとえばリストカットも極端な転倒でしょう。反転し、超越へ向かうと主体は拡散します。すると「死」も拡散する。超越には生命機能停止はあっても、「死」は内在にしかないのですね。リストカットは、「私は生きているんだ、この痛みが私だ。」というような内在へ「転倒」する極端な行為なんですね。宮台の右翼とは、このような無理な転倒をやめて、正しい転倒の仕方としてあるんです。

しかしここに転倒、反転をコミュニティレベルで考える傾向が見えます。別に全員で花見をしなくてもみんな日常でマイブームとして小さな祭りをしているということです。柄谷は、「”個人”もまた内部と外部を持つ限りにおいて一種の共同体なのだ。」*2とは言っていますが、マルクスの影響からも「社会」/「共同体」=外部/内部のように、コミュニティレベルで語ります。ここに宮台も同じ傾向があることがわかります。

たとえばジジェク「隣人」現実界であるといいます。この意味は柄谷風にいえば、隣の他者は内在であると同時に超越なのです。どのような他者とのコミュニケーションにおいても「命懸けの飛躍」は存在し、「教える‐学ぶ」の関係は含まれている。ヴィトの言語ゲームもそのようなことだと思います。これはボクが言う主体の転倒/反転構造です。すなわち無垢と秩序(内在と超越)は裏表であるということであり、その境界「カオスの辺縁」の位置に主体がいるということです。

*3
*4

*1:P336

*2:「探求Ⅱ」P347

*3:本内容は、2ちゃんねる哲学板「まなざしの快楽(未知への欲望) PART6  」スレッド http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1116841958/ からの抜粋です。ただし内容は必要にあわせて編集しています。

*4:画像元 http://mogeran.gooside.com/tora.html