なぜ「継続」こそが「正義」なのか?
マイケルジャクソンが全面勝訴したらしい。*1マイケルファンのボクとしてはなによりである。有罪といえるまでの証拠が提出されなかったかららしい。「疑わしきは罰せず」それが法である。では「マイケルは本当に犯罪を犯したのか?」
ボードリヤールは「湾岸戦争は起こらなかった」といった。テレビから流された「湾岸戦争」という意図的な意味は、虚像でしかない。ということだろう。
しかしさらに根元的には、真実とはなんだろう、とうことがある。たとえば湾岸戦争に参加した人であろうが、マイケルの幼児虐待を目撃した人がいたとしても、彼らの証言は、真実ではない。何ものの「物語」でしかない。なぜなら真実は、存在しないからだ。(現実界にしかないからだ。)マイケルも、湾岸戦争も、一つの「転倒」でしかない。そしてその「物語」について虚像性を暴露する言説、たとえば脱構築であっても、それは「反転」であるようで、それ自体はもう一つの「転倒」でしかない。
「アウシュビッツはなかった」、「南京虐殺はなかった」という人もいる。このときも、同じである。アウシュビッツも、南京虐殺も「物語」でしかないことにはかわりがない。
だから語らなければならない。そして「〜はなかった」と反論されることこそが、重要である。それは、「転倒」を継続することである。なぜなら、本当の「反転」とは、語られなくなること、忘れられること、エントロピーの増加、「忘却」のみだからである。
<転倒/反転の構造>
■転倒・・・「偶有性から単独性への転倒では神性が捏造される」外部から内部へ(超越から内在へ)、形而上学、「デリダも必ず恋をする」
■反転・・・「単独性から偶有性の反転では神性は解体される」内部から外部へ(内在から超越へ)、ポストモダン、「デリダの恋も必ずいつか冷める。」
■カオスの辺縁・・・外部と内部の境界、転倒、反転の往復運動の起点、自己組織化が起こる位置、生命が発生する位置、主体そのものの位置
■転倒/反転の構造は、虚像/真実の構造ではなく、継続/忘却=エントロピーの減少/増加である。「継続こそ真実であり、正義である。」
たとえば解体的であることが必ずしも反転ではないことは、東がゲーテル的脱構築を否定神学と呼んだことでわかる。否定神学とは反転に向かい言説が実は転倒に転じていることである。さらにいえばどのような言説もかならず反転から転倒に転じる。これは主体であるための「宿命」である。それはデリダ的脱構築であろうが、柄谷の「他者」でも同じである。ボクたちは限りなく「神話なき神話」の世界にすんでいるのであり、ラカンの象徴界、、マルクスの物神性の世界と呼ぼうが、この「ラカンの呪縛」からは逃れられない。だから語られ続けることのみ価値がある。だから「問題」は反論されること、暴露されることも含めて、語り続けられることが重要である。