なぜ「継続」こそが「正義」なのか? その2

pikarrr2005-06-16


自然主義への危険な近接


柄谷の「他者」とは「物そのもの」である。その意味するところは、「反転」を突き抜けたところにある。ボクはそれを斉藤環ラカンベイトソンの相補関係」から、「他者」の地平を以下のように説明した。「それは、ベイトソンのコミュニケーション理論の「ゼロ学習」です。「ゼロ学習」的な「コミュニケーション可能性」とは、生態学の要請する同一種のコード/デコードの機能の同一性」、すなわち生態学的同一種の人間ということです。」 *1これは、生物的な同種としての共有性の地点である。簡単にいえば、ボクたちにはこのような生物的な、あるいは先天的な地点に、共有する「価値」を持っている、だろうことである。

これは、カント以前の合理論と経験論の地点にもどれば、経験論とは違う先天的な地点である。しかし合理論とも異なる。それはいわば、進化経験論と呼べるものである。すなわちボクたちの経験の地平は、ボクたちが生まれてからをゼロ地点とするのではなく、その前の進化論的な時間軸をも経験とするのである。たとえば、なぜボクたちは花を美しいのかと考えるときに、それは進化上の経験によって獲得した価値なのである。最近の研究では、ミトコンドリアイブ=共通の母はたったの20万年前に行き着くのである。

これは認知科学とは異なる。認知科学はハードであれば、進化上の経験というソフトについて、であり、それは進化心理学などと呼ばれる。これはかなり危険な思想であることは、確かであり、自然主義的誤謬と同じところに存在するのである。




動物に性関係は存在するか?


この地点からラカン世界を見ることによって、新たな姿が見える。ラカンの基本である人間/動物の断絶は、連続性で繋がるだろう。たとえば、人間は不完全で、動物のように完全なコミュニケーションはできない。すなわちラカン「性関係は存在しない。」動物の生殖ための本能による完全な性関係はない、ということである。

しかし本当にそうだろうか。動物の性関係は遺伝子にプログラムされた完璧なものだろうか。最近では、動物においても、生まれたあとの学習が重要であることが知られている。さらにそのような世界は、まさにラカン的な世界がある。すなわちイマジネールな死闘から、サンボリックな秩序(社会性)である。動物も、ある種の象徴界の参入によって、群れの掟を知るのである。

ドルゥーズ的な人間の歴史物語あるいは、それを要約するような「構造と力」の物語は、人間/動物の哲学的な断絶を越えて、進化的時間へと延長されるのである。そのときに、認知科学であり、進化心理学であり、生物学であり、分子生物学であり、そして精神分析であり哲学の連続した物語が現れてくるだろう。




ポストモダンという忘却


デリダであり、柄谷の倫理は、「転倒/反転=虚像/真実」の中にある。デリダ脱構築が正義である」というとき、あるいは柄谷が「未来の他者」というとき、反転し続けること、物そのものへ近接し続ける試みが正義である、ということだ。あるいは、ラカン「自分の欲望に譲歩するな」という倫理も同じ射程にあるといえる。「物そのもの」という真実への近接の継続、すなわち「反転」し続けることに倫理を見いだす。

しかし疑うこと(反転)もまた信じる(転倒)ことであり、もはや「反転」「転倒」の差異に意味はない。ボクは、「転倒/反転=継続/忘却」へとつなげる。継続することそのものに意味がある。継続するという強度に価値がある。「継続こそ真実であり、倫理である。」というだ。

しかし、再度デリタ、柄谷とボクの考えを見直すと、きわめて近い位置にいることがわかる。ただボクが「反転」そのものよりも、「継続」に価値を与えるのは、本当の「反転」とは疑うことではなく、忘れることである、ということである。それは、この宇宙の法則であり、時間の根元である、エントロピーの増加という「力」へ対抗する「力」であり、エントロピーの減少こそが、生命の意味である。

ポストモダン思想の本質は、ポストモダンという状況が、懐疑が生み出しているわけではなく、情報量の増加が、忘却を加速化させている状況を示している。ボクがこのような状況を表現したのが、「マイフェイバリットからマイブームへ」である。それこそがポストモダン思想の「反転」の意味である。懐疑であり、脱構築とすることは、一つの「転倒」であり、新たな神性でしかない。だから、価値は、「継続と忘却」にしかないということだ。




アウシュビッツという「生き生き」


たとえば、ナチズムの問題を考えると、ナチズムを疑うことそのものに価値があるわけではなく、ナチズムを疑い続ける、さらには一部の極右がナチズム信じ続けることが、忘却(反転)を妨げる「転倒の継続」に価値がある。ということだ。

ボクは、ナチズムが悪であると言っているわけではない。それが善であるか、悪であるかではなく、「ナチズムは悪である」と言われ続けている「継続」に価値があると言っているだ。たとえばピカソゲルニカはすばらしい」と言い続けられる「継続」に価値があるとうことだ。

ナチズムは悪であると言おうが、善であると言おうが、「転倒」される。すべては「神話」である。アウシュビッツそのものも神話である。だからアウシュビッツはあった。忘れてはいけない」と言い続けられている「継続」に価値があるのだ。逆にいえば、なぜアウシュビッツは忘却されないのか。これだけの情報過多の時代で、繰り返し繰り返し語られるのか、ということ、そこに語られる価値がある、ということだ。

このような継続/忘却=エントロピーの減少/増大、というときには、「継続」とは、「生き続ける」という意味があるのだ。単なる反復では、飽きられ忘れられ、「死んで」しまう。そこに絶えず新たな差異が入り込み、神話が代謝されつづける、神話が生き続けるということ、欲望され続けるということ、「生き生きし続ける」ということが「継続」の意味である。アウシュビッツはいまも「生き生き」し続けていることに価値があるのである。




「継続」とは「私の中へ他者」への近接である


このような「継続」という考えの、容易な反論は、「間違ったこと」を継続して信じることもあるのではないか、というものである。これに対する反論の一つが、「間違ったこと」という価値はどこからくるのか、ということである。

さらには、単発の懐疑/信仰ではなく、「忘却(エントロピーの増加)」という力に対抗し、「継続(エントロピーの減少)」という力のバランスとは、自然淘汰(進化論)*2的な思想である。

ボクは先に、柄谷の「他者」に対して、同一種の「ゼロ学習」という地点を見いだした。それは、進化論的経験において、共有する価値=同一種としての共有性はあるだろう、ということである。これは、「私」という「物そのもの(現実界)」であり、「私の中の他者」と呼ぶことができるだろう。すなわち「継続」とは「生き生きした」神話の代謝であるとともに、「継続」されるという強度そのものに、人は決して認識することができないが、同一種として、進化論上獲得された、確かにある「私の中の他者」への近接があるのではないだろうか。
*3

*1:[議論]なぜラカンは最強なのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050610

*2:ダーウィンの進化論の本来の意味は、進化する(前進する)ことではない。変化することである。

*3:画像元 http://www.edu-japan.net/~setsugen/shiryou/etc/CALENDAR/DEC/1213.HTML