ヘタレ化するポストモダン その2


1 なぜ「ヘタレ化するポストモダンなのか?」
2 動物化とヘタレ化のメビウスの輪
3 ヘタレマップ
4 ヘタレサイクル
5 「もはや事件に会議室も、現場もないんだ!」
6 無垢欠乏の時代
7 ヘタレたち
8 ヘタレたち2
9 ヘタレはネットで覚醒する
10 サルでもできるヘタレ化


[まとめ] ヘタレ化するポストモダン その1 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051129#p1
の続き




6 無垢欠乏の時代

無垢(フロンティア)欠乏の時代


簡単にいえば、現代は「無垢(フロンティア)欠乏の時代」といえるだろう。「大きなこと」はやり尽くされ整備され、泥にまみれず歩けてしまう。無垢の欠乏は僕らに耐久的な強度を強いる。簡単にいえば、動物園の動物的な「強度」である。野性の動物にとって、ジャングルとは未知に満ちた無垢の場である。なにがあるかわからない。油断すると死にいたる。無垢は緊張感と恐怖を強いるのだ。そしてそれは人でも同じである。人が突然、未知の暗闇に放り込まれたら、それは恐怖である。

今の環境も、無垢から逃れたわけではない。明日には大地震が起きるかもしれない。あるいはビルの上から巨大が看板が落ちてくるかもしれない。しかしそのような確率が低いことを知っており、それを絶えず心配しながら生きてはいない。

ボクたちは、このようなジャングル的な未知を文化によって整備してきたのである。それは、建築的な意味というよりも言語的な意味である。たとえば、朝、ボーとしながらも通勤できるのは、それが反復だから。電車が同じ時刻にくるだけでなく、同じような人々、同じような雰囲気という同じような環境が繰り返されからであり、少ない情報処理能力で通勤という行為を行えるからだ。ある朝、そこが戦場になっているようなことはないのである。

このような「複雑性の縮減」は、「建築的」に環境が整備されたというだけでなく、人々の中で、社会的な価値が共有されていることによる。通勤のときの姿、振る舞いということが儀礼的に共有され、人々がそれを反復するから、みなが安心できるのである。

「完全なる無垢」の世界などはないだろう。想像できないが、そこでは人は狂うしかないだろう。多くにおいて、世界は複雑性を縮減され、反復として現れる。しかし「完全なる反復」はありえない。それは死した世界である。だから反復と無垢(差異)はいつもある割合で現れる。そして現代は、未知に満ちた無垢の多くを反復へと開拓し、豊かさと安全を手に入れたのである。

もはや生死を心配する必要がない。豊かさと安全がついてるくる。求めていた究極がここにある。しかしここには、「何のために生きているのだろう」という問いが生まれくる。それが「無垢への欲望」であり、「ヘタレ化」である。




過剰流動社会という無垢の欠乏


たとえば、現代は過剰流動性の時代と言われる。かつてのように良い大学をでて、良い会社に入っても、先に何が起こるかわからない。大きな会社でも潰れるし、リストラされる時代である。それは先が見えないという未知の恐怖であると言える。しかし本当にそうだろうか。むしろボクたちが恐怖するのは、リストラされたあとに復帰することが困難であるということを知ってしまっている、そのような古い社会の体質=反復ではないだろうか。

たとえば、引きこもりの恐怖は、将来どのようになるかわからないという無垢への不安であるというよりも、引きこもりによって学歴を持たない人々が就職しても、社会的にどのような待遇を受けるか、あるいは引きこもり続けてもどのようになるのか、ということが「社会の反復」として見えてしまっていることではないだろうか。彼らは多くにおいて、無垢という可能性が閉ざされている、あるいは閉ざされているように感じているのである。




「本当の無垢」「無垢の幻想」


無垢とは「予測できない未知な外圧」である。未知なジャングルや予測不可能な事故などが、「本当の無垢」であるが、物質に満たされ、安全が確保された現代において、社会の中の「本当の無垢」は消失した。環境からの「本当の無垢」が開拓され、安全が確保されれば、まったりすればよいのではないのか、と思うが、それでも人々は強迫的に無垢を求めてしまうのである。

このような中で、多くの無垢は、「他者」によって生み出される。たとえばブランド品が無垢として作動しえるのは、そのブランド品をみなが欲望しているだろう「まなざし」によって、そこに到達すべき「無垢の幻想」が生まれるのである。

これは、広義の意味でのコミュニケーションである。他者は限りなく「私」でありながら、どこまでいっても「私」にはならない。人々は「無垢の幻想」を消費しながら、内部内部へ向かう。そして共有されたコンテクストが生み出されるが、そのブランド品は本当に欲望されているのか、本当に知ることはできないという、必ずコミュニケーションが失敗することによって、征服すべき「無垢の幻想」が生まれ続け、さらに内部内部へ向かうのである。




愛によって無垢を奪い合う人々


豊かさはテクノロジーによって支えられている。テクノロジーの発展とは人々が無垢を消費することであるから、消費されゆく残された無垢へ人々は押し寄せる、そして無垢の幻想を懸命に生産する。このように人々の無垢への欲望は強迫性を増していく。

仕事は男の戦場だ。子育ては女の戦場だ。受験は子供の戦場だ。ストリートは不良の戦場だ。これさえもはや過去のことなのだろうか。それでもみなが「生き生き」するために、無垢を欲望する。

無垢の奪い合いには、親子、友達、恋人だろうが容赦がない。親はまだ可能性という無垢を内在した子供を愛情という束縛によって、まるで自分の無垢のように、子供の無垢を搾取する。恋人たちは相手が誰であるかよりも、ドラマのような「恋愛関係」あるいはセックスなどの未体験という無垢を欲望し、搾取しあう。




「萌え」という「無垢の幻想」


帝国の幻想を夢見る人々がいて、もはや大きな政(マツリゴト)というは無垢は消失している。なにをしようが、だれがしようが、社会は変わらないし、豊かさはかわらない。だから小さくても流動的な方向へ、小さくても無垢の幻想が生産される方向へ、すなわち人々は「消費」へむかう。

それももはや生活必需品的な「大きな消費」に無垢の幻想は生まれにくい。流動性が高く、変化がはやいソフトな、情報の分野の消費にむかうのだ。ブランド品は良いだろう。もの自体はありきたりだが、他者への優越感を生む。優越感とはコミュニケーションである。テレビ、雑誌などのマスメディアを介した向こうにいるだろう「まなざし」の他者たちを羨み、羨まれるのである。

あるいは、オタクはもっと賢いかもしれない。オタクはマニアな消費だけでなく、二次創作により自ら小さな「無垢の幻想」を生みだし、消費しあう自給自足な人々だ。彼らは、多くにおいて、「予測できない未知」を内在する「幼稚」を、性という社会的に禁止される短絡によって、デフォルメして、女子高生、天然少女、ロリータ、アイドルなどの「萌え」という無垢の幻想を二次創作して遊ぶ。

だから「無垢の幻想」を自給自足できずに、生身の少女から無垢を搾取しようとする人たちは、本当のオタクではない。生身の少女を切り刻もうが、そこには「無垢」はなく、落胆するだけだ。それはアダルトビデオなどの商品としての性を消費する人々にも起こりがちなことだろう。商品としての性はデフォルメされた「エロ」であり、生身の女性とのセックスにはないのだ。




ネットという新世界(フロンティア)は、無数のコミュニケーションの失敗でできている。


このような流れの中に、ケータイ、ネットの爆発的な普及を位置づけることができるだろう。社会的なコミュニケーションにくらべて、ネットコミュニケーションには、「軽さ」がある。「軽さ」とは、物理的には距離を越えて瞬時に届くことであり、社会的には、匿名性であり、容易に離脱可能であることだ。この「軽さ」故に、応答性の早いコミュニケーションが可能になり、会話者たちは、社会的な拘束の儀礼から解放される。また「本音」を語りやすく、密なコミュニケーションを可能にする面もある。

ネットコミュニケーションは、その応答性の速さを達成しつつ、ベタレベルを懸命にコミュニケーションしようとする場もあれば、特に2ちゃんねるでは、コンテクストのすれ違いと、あえてすれ違いを演出するために、メタのメタへと高度に、複雑にすれ違いを演出し、無垢の幻想を捻りだし、遊ぶ。このようにネットコミュニケーションは、決してクリアーされず、たえず裏切られ、無垢を生み出し続ける「最高級なゲーム」なのである。

ネットにユーザー、クリエーター、プチクリを含め大挙して上陸し、新大陸(フロンティア)と言われている。ネットは電脳世界という物理的、空間的なイメージでいわれるが、ネットがフロンティアであるのは、他者とのコミュニケーションは必ず失敗するという無数の「無垢の幻想」が生産され続けるからである。




「帝国」という「無垢の幻想」


現代は、プロフェショナル(スペシャリスト)>エリート(ジェネラリスト)の構図がある。これはみごとにモダンからポストモダンへ対応してる。しかし当然この構図は古い。大きな物語=エリートは消失しつつある。それでもなおこの構図が作動し続けているように見えるのは、エリートが消失し、無垢が欠乏し、無垢に飢餓する人々によって、「無垢の幻想」として、延命しつづけているのである。

現代のマルチチュード「帝国」という幻と戦いながらいきる。差異化するための幻想の「帝国」、たとえばマスメディア、抵抗勢力、エイベックスなどがなければマルチチュード足りえない。自己組織化できなく、無垢が欠乏する恐怖である。まさに2ちゃんねる「祭り」が作られる構図である。

この流れは、自己責任、情報公開などのリバタリアン化でもある。幻の帝国に対抗するためにリバタリアン化するということで、マルチチュードという内部(コミュニタリズム)を作動させるというヘタレ化の構造であり、自由を唱いながら、内部を作動させるというネオリベネオコン)である。




なぜ無垢を欲望するのか?


無垢を欲望するのは、フロイト「快感原則の彼岸」に対応するだろう。本来、環境からの刺激(本当の無垢)を消費することで、刺激は低減され、安心としての快感は得られる。それに対して、人は安心に充足できずに、自ら刺激(無垢の幻想)を生産し、消費するのである。動物とは異なる人のこのような所作をヘーゲルは動物の「欲求」に対して、「欲望」と呼んだのである。

ではなぜ人は、安心に充足できずに、自ら刺激(無垢の幻想)を生産し、消費するのであろうか。これは主体の維持にかかっているのではないだろうか。群れの1個体、(偶有的存在)ではなく、「私」という単体(単体的存在)としての充実を求めるということだ。私とは他者からの応答、すなわちコミュニケーションなのである。その継続性を求めて、人は自ら刺激(無垢の幻想)を生産し、消費するのである。

主体がなぜコミュニケーションを行うのか、というと、根底的には他者が欲動の対象だからである。始源的他者としての母は、主体にとっては欲動の対象であり、その対象−他者が存在する時にのみ、欲動は喚起され、欲動の運動として原初的主体がそこに立ち現れる。主体があり、その上で他者があるのではなく、他者の場から主体は生じ、そこでは他者は主体に先行する。

通常のコミュニケーションにおいては、他者はこのレベルで登場するわけではない。・・・この他者の絶対性は、通常のコミュニケーションにおていも無縁ではなく、その深部に埋め込まれ、幻想という加工された構造を通じて作用する。

コミュニケーションと主体の意味作用 ラカン社会学入門」 樫村愛子 ISBN:4906388698

このように「ヘタレ化」とはいわば人間であること、あろうとする根元的なものであるが、現代においては、豊かさと安心によって、無垢が欠乏する故に、リストカットなどの自殺的行為など死をかけても、無垢を見いだそうとするようなところまで、強迫性が増しているのである。




7 ヘタレたち

繋がり系ヘタレ 2ちゃんねらー


かつてのような反体制運動へ向かう大きな物語もなく、「小さな物語」の世界で「動物」としてまたーり暮らしていくはずだった。しかしめまぐるしい価値の転倒は、「安心という反復」へ引きこもらせ、小さな檻の中で無垢が欠乏していく。そんなとき、あらわれたのがネット世界だった。安心に無垢を楽しめる場所。新世界(フロンティア)。

世界にむかって懸命に叫んだ。「ってどうよ?」オマエモナー」。返答があった。体に血が戻る気がした。ぬくもりを感じた。生きてるんだ。「もまいらサイコー」繋がること、かまってもらうことを欲望した。ヘイトスピーチで悪ぶってみせるのは受けた。そして究極が「祭り」だ。ネタはなんでも良かった。「祭り?キターーーー!」そしてみんな仲間だと安心する。

のまネコ問題は、「ヘタレの逆襲」だ。「動物」「エリート」のまネコなどに興味がないだろう。しかしそれは僕たちの「居場所」をかけた戦いだった。「居場所」とは、安心して反復し、差異(無垢)を生みだし、主体であることを保証してくれる場所だ。エイベックスは完全に馬鹿にしていた。「たかが2ちゃんねらーごときが。」もしここで負けると、僕たちが作り上げてきた2ちゃんねるという「居場所」が崩れる。ただの負け犬になれば、多くの人たちが去っていくだろう。僕たちの共有財産モナーは守らなければならない。そして勝たなければならないのだ。

電車男をまたーりオタクの世界に生きていた「動物」が恋をして、普通の人に再帰する物語と読んではいけない。きっかけは、エルメスとの出会いではなく、2ちゃんねるでかまってもらえたことなのだ。2ちゃんねる「もまいら」と繋がり、居場所をみつけたこと、すなわち「動物」「ヘタレ化」した物語である。だからエルメスは繋がりを継続するネタでしかない。

そして電車男に多くの人々が感動したのは、「動物」たちの中にある「ヘタレ」=本当は繋がりたいんだ、という欲望と共鳴したんだろう。映画、ドラマでは描かれないが、エルメスと成就したあとも実際の電車男「ヘタレ」でありつづけるために醜態をさらしたのは有名だ。




セカイ系ヘタレ  理系オタク


いまどき哲学に興味があるなんて「ヘタレ」の極みなわけ。さまざまな思想はポストモダンを通過してアイロニカルになっているが、理系の素朴な科学主義がいまだにベタなのに驚く。人生にひねりなく、学校教育の経済至上主義に根ざした素朴な唯物論のままに生きてきたのだろう。

理系がもてないのもこの辺りにあるじゃないだろうか。女性はもともと空気読みに長けて、アイロニカルだから、ベタな理系は馬鹿にみえちゃう。

それでも「動物」としてまたーり生きてる分には問題ないんんだろう。しかしあるきっかけで、生きる意味、世界の成立、社会の不完全が不安になたったとき、素朴な科学主義からファンタジーへ転倒する。生活世界と唯物論的ファンタジーの短絡が、セカイ系をうんでいるんだろう。




下流層ヘタレ


社会には確実に下流層が必要になる。頭が悪く、もの言わずもくもくと働き、搾取される労働力。しかし情報化社会ではみなが知恵をつけ、賢く立ち回ろうとする。ではだれがこの船を漕ぐのか?

しかしヘタレ化は単に搾取する資本家/搾取される労働者という単純な構図に回収されない。本来搾取する側までヘタレ化している。金持ちであるだけで、満足できずに、ヘタレ化する。

製造業大国日本としては、いわば理系頼みである。彼らは素朴な唯物論を信仰し、仕事一筋で「動物」として日々生きている。彼らが世界に競争力あるものをもくもくと開発してくれればよい。彼らは、社会の裏をよんだりしない。それに比べてヘタレときたらどうだ。口を開くと、あーいえばこーいう。ヘタレず、手を動かせ。




居場所系ヘタレ  引きこもり


豊かに苦労しらずにまたーり生きてきた子供が突然社会の洗礼を受ける。すなわちオレって全体の一粒?生きる意味ないじゃん?動物からヘタレへの転落し、突然不安にかられて世界の全体性を欲望し、わかったふりをして、社会の矛盾への不満を自分の不安と短絡させるしゃべり場「思春期セカイ系

会社の歯車として仕事なんかしてる場合じゃない。自分の意味をみつけないと、昔なら放浪にでもでたんだろうが、いまは物理世界の移動より情報世界の方が刺激的だし、生活には困らない。といいながら引きこもってみたものの体力、気力は減退し、どうでもよくなる。しかしどんなにまたーりしても不安は回帰してくる。

2ちゃんで議論し、祭りで騒ぎ、ブログを書いても、砂の一粒の不安からは抜けられないし、逆に引きこもる自分がなさけない。こんな自分にしたおや、社会が悪いという被害者という居場所のみが自分の意味だ。




企業というヘタレ回収装置


本来は「ヘタレ回収装置」として宗教があるんだろうけど、日本は宗教アレルギーだから、作動しない。ボクの友達に小さい頃から親に連れられて仏教系にかようヤツがいるが、ほんとうにいまどきめずらしく、真面目でベタで、堅いと敬遠されがちだが、ベタでもオタクとは違い、信念を持っている。宗教は上手く回るとやはり魅力的な装置だなと思う。

日本の代表的な「ヘタレ回収装置」はなんと言っても企業だ。その企業が不況から、回収装置機能が弱体化させ、ヘタレ難民が社会にあふれいる。

フリーター、ニートなど、もはや仕事に生き甲斐を見いださない、といわれるが、それも怪しいのではないだろうか。やはり仕事は生き甲斐である。ただ年功序列傾向が強い日本では、「おもしろい仕事」をリストラを回避した既得権者が独占し、若手に回ってこない。「つまらない仕事」ばかりおしつけらえて、居場所として機能しなくなっているんじゃないだろうか。

しかし景気も良くなりつつあり、また数年で団塊の世代の大量退職時代に入るので、正常に作動し出すのではないだろうか。そうなると今の無職群は取り残された人々になるかもしれない。後輩が正社員で就職し、仕事に居場所を見つけて、無職群はフリーターとして使われる立場になるからだ。




思想なき世界のヘタレ


ヘタレとは「全体性」を希求してしまうものです。すなわち世界とは?とか、生きる意味は?とか、問わずにはいられない者たちです。サイゼでハンバーグ定食くって、ローソンでカールのチーズ味買って、ツタヤでコウダクミのベストと最終兵器彼女を借りて、モー板で雑談して、またーり生きれば良いものを、ヘタレは突然発作のようにやってきます。「オレ、なにやってんだ・・・」

ヘタレ化を考えるときにまず動物化を考えないといけない。なぜなら多くのヘタレが素朴だからだ。多くにおいて動物だからだ。豊かな家庭で、悩みなくのほほんとすごし、なにかのきっかけでつまずく、そして初めて距離をもち自分をみて、短絡する。「こんなはずでは・・・」

日本ではこのようなつまずきのためのアイテムがない。思想、宗教は嫌われ、親、先生自体が経済至上主義で生きてきているから語ることばをもちえていない。与えられた懸命に働くことが正しいという価値のみもち、挫折した負け組決定として、引きこもるしかない。




8 ヘタレたち2

「遊び」という「小さな不自由」


欲望とは、不自由への欲望である。その不自由がテクノロジーにより消失している。あるいはデーターベースによって、利便化されている。僕たちが直面しているのは、不自由が消失する不自由である。満足を享受しながら、不自由であろうとしなければならないとパラドクスの中にいる。

ここではもはや「大きな不自由」は望めない、「小さな不自由」を欲望しつづける必要がある。満足と不自由の反復。ここにボクたち不安定がある。満足しながら、不自由へということは、満足のさらに不満足を見いだす。それが「遊び」である。「遊び」とは、あえて不満足をつくりだし、それをクリアーする楽しみである。ゲームの困難さは、本来、必要のない困難さである。

そこでは、大きな困難よりも、小さな困難である「遊び」が求められる。たとえば2ちゃんねるでさえ、コミュニケーションという小さな困難を楽しむ「遊び」である。この小さな遊びは速度を生み出す。次々に作られる遊びをこなすには、小さいものである日必要があるのだ。




「多数的なもの」たち


情報化社会によって、「遊び」の細分化、クリエーター→プチクリ→極プチクリへの変化が、起きている。より価値が細分化され、誰もが容易にクリエイティブになれる。2ちゃんねるの1レスで極プチクリな発言をするなど。そしてそれは速度に対応している。クリエーターは重すぎて、速度に対応できない。

たとえば、お笑いにも顕著です。大きなお笑いよりも、キャッチなフレーズで、感性的な、ギャグ的な小さな笑いがどんどん乗り換えられている。「ゲッツ」「残念!」ヒロシです「フォ〜!」ここにあるのは、体感的なお笑いの速度です。

かつて渋谷は眠らない街、毎日が祭りなどといわれたが、2ちゃんねるであり、ネットで同じことが加速的に起こっている。これが、現代の姿である。このような「吹き上げ」が加速されていくのである。2ちゃんねるの安易な加速から逃れたブロガーでも、結局、同じことが起こっている。いまのブームはなにか?という高速の「多数的なもの」たちが起こっている。

このようなブームを渡り歩くヘタレな「多数的なもの」たち。これがおもしろい!という選択、消費に自己価値を見いだす「極プチクル」です。これは動物化と読んでしまっても良いのでしょうが、コジェーブのいうような「動物のような充足」ではなく、「脅迫的な不充足」故に、「ヘタレ化」と呼ぶのです。




ネットを蠢く狡猾な群れ


ヘタレ化とは、過剰に「小さな遊び」を求める、ブームを追いかけるような姿勢である。たとえば「祭り」とは、「小さな小さなブーム」である。このような姿は、グローバルビレッジ、スマートモブス、知民などのネットで達成される理想的な民主主義幻想、理性的な意志をもった集団でも、あるいは欲望をもつ主体群という定型な実体ではない。不確実で、不定型な実体として現れる。

だから「愚衆」ではないし、ただの「暴徒」でもない。そこにアイロニーが働くことを忘れては行けない。彼らはなかなかずるがしこく、「あえて」暴走すること、そしていつでも離脱可能なように担保している。それが「遊び」であることを知るずるがしこさを持っている。

すなわちあえて暴走という「遊び」を作り出すことによって、欲望を回収しようとしているのである。それは単に動物ともヘタレとのいえない、狡猾な集団である。しかしこの離脱、内部/外部への経験的な小ずるい彼らが、それを俯瞰する、知識、戦略を持っているわけではない。彼らは全体を動かす権力はないし、そのような意志もないだろう。ただ生きることに小ずるい、という意味でしたたかである。




なぜ2ちゃねらーはエイベックスに破れたのか?


たとえば、のまネコ問題にその傾向は顕著にでた。なぜ2ちゃねらーはエイベックスに破れたのか?彼らは祭りという圧力としてしか、働けない。交渉する主体性そのものまでは、作り得ない。そして、それは、熱しやすいが、冷めやすい。特ののまネコの場合は、本来、発散的、どこまでも拡散的である。2ちゃねらーが、モナーという神性を守るという、めずらしく受け身になったということがある。この受け身は特定の人にはわからないだろう。

エイベックスは、実体ない主体へあたかも交渉しているように、振る舞う。パフォーマンスをこれらの争いの外部へ見せ、引き延ばしつずけ、冷めるのを待ったのである。彼らの謝罪に関わらず、経済的になにも失っていないのである。

彼らは、著作権市場経済などの知識はない。そのような教養、戦略的なアイロニーはない。それはいわば、静的なアイロニーである。彼らは、内部/外部を作動し、「遊び」としてのアイロニーである。動的なアイロニーである。エイベックスとの交渉するような、高度なことは望めない。ただ圧力としてのみ、働いた。エイベックスは、2ちゃねらーとの交渉の仕方を示したと言えるだろう。

しかしこれがすべてではないだろう。たとえば、かつて2ちゃんねるの負荷危機の時には、プログラマーたちが、まるで知性な主体として動いたのである。これは、不定形故に、様々な形態をもつということであり、エイベックスの場合は、ボクが宗教戦争といったように、狂信的な形態として現れ、交渉しえなかったといえる。




抑圧されるヘタレたち


宮台がヘタレ保守と呼ぼうが、拡散する主体、拡散する世界、境界が失われ、透明になる世界において、強烈に自己を求める欲求が回帰するのは、当然の傾向である。それは多くの知識人が求める倫理の強度、「拡散せよ。主体を解体せよ。」という強迫への反発でもある。オウムへの没入、若者のウヨ化、嫌韓など、社会的な倫理とは逆行する傾向は、このような強度を強いる社会への反動という面が否めない。だれもが宮台のいう「エリート」になどなれないのである。

リベラルな知識人たちが求める世界は動物にいきつく。差異をなくし、発散へ。この運動を可能にするルールは私とはなに?と問わないことである。あるいは問うても良いか、個人的趣味の範囲でなければならない。それぐらいの空気を読む知識と教養ぐらい身に付けろよ。ヘタレども。とローティはいっているのだ。なぜなら歴史は終わったのだから、マテリアルワールドの勝利でいろんな理屈をたれようが豊かさが一番だってことだろ。ならへたれるのやめて動物化してまたーり行こうや、っというわけだ。

「だってね。イデオロギーとか宗教とか信条とかいいだすと、すぐにケンカになるじゃん。ぜったい譲るないと思うわけ。でもさ、豊かになろうよ。みんなで豊かになれる社会つくろうよ。そりゃさ、勝ち組、負け組はできりけど。平等に競争して、負けた人は勝った人が助けてあげればいいしゃん。だからヘタれちゃだめ。動物になってがんばるわよ。みんなファイト!」

みんなヘタレ隠し、動物として、生きているのである。気軽に見える女子学生でもほとんどか孤独を抱えてるらしい。いまはヘタレであることが嫌われる社会だから、みんないろいろたまっているのだ。そのために、ボードリヤールが言うように「透きとった悪」となる。へたれがあちこちに蠢いている。あるとき突然暴走したヘタレは、排除しようと、暴力となる。だから、隠れヘタレたちがネット上に表出するのは、ヘタレのオアシスとして有用であるのだ。




9 ヘタレはネットで覚醒する

マトリックス」と「電車男」の相似


映画「マトリックス」は、ヘタレの悲哀を描きました。動物化し、豊かさの中で日々楽しく生きるマトリックス世界で、本当の意味を求めて(ヘタレて)落ちた「現実の砂漠」。この構図が、世の隠れヘタレに共感を呼びました。豊かで安全な日常の中にある漠然とした不安、そしてそれに向かってヘタレる、そして覚醒(ヘタレ化)によって、マトリックス(動物の世界)を縦横無尽に暴れ回るというの神懸かりの能力を発揮するのである。

映画「電車男」はこのようなマトリックスの構造をそのまま再現している。電車男は、現実にオタクという動物であったが、2ちゃんねるでの人々との出会いによって、覚醒する(ヘタレる)のである。ここで重要なのはエルメスとであったことが、電車男を覚醒させるのではなく、エルメスに出会い、それを2ちゃんねるで報告し、「電車男」として名付けられることによって、すなわち独男板に居場所を見いだしたことによって、覚醒するのである。そして覚醒によって、現実世界(動物の世界)で超美女をゲットするという神懸かりの能力を発揮するのである。

すなわちこれらの物語は、日常に暮らす動物が覚醒し(ヘタレ化)して、日常(動物世界)で活躍する物語である。そこにボクたちのヘタレ性が共感するのだ。これは単なる現実の逃避だろうか。




現実(リアル)の在処


ジジェクは、対象aと現実(リアル)の密接な関係を指摘する。欲望することが現実感を与える、すなわち現実(リアル)は、動物側ではなく、いつもヘタレ側にあるのだ。現在、多くの人が日常に虚無感を持つのは、動物化し、欲望する対象を失っているからである。そして、電車男2ちゃんねるで本当の自分であるのは、2ちゃんねるでヘタレるからである。

現在において、現実社会が豊かさと安心から、無垢が消失し、動物化している中で、欲望を想起する無垢が移動しているネット上で、「本当の自分」が見いだされるのは、現実逃避ではなく、当然の流れなのである。そしてそこで覚醒された「本当の自分」が動物世界へ展開されることは、「電車男」だけでなく、今まさに起こっていることである。

ネット上で覚醒したヘタレたちが、動物化し虚無化した現実へ回帰し、活性化しているのである。これは単に出会い系ということだけではなく、誰でも多かれ少なかれそのような経験をしているのではないだろうか。




「革命」はネットに移る


もはや「革命」の戦場は、ネットにあるのだ。これはハッキングしろなどの、物理的な行為をいっているわけではない。たとえば、現在、リベラルを支えているのは、もはやかつてのような、道徳、規律ではなく、テクノロジーによる「環境管理権力」であり、権力は透明化しているといわれる。しかしそのまさに同じ次元に、ネットはあり、ヘタレは蠢いている。

思うぞんぶヘタレなさい。思う存分祭りなさい。思う存分、のまネコなさい。それが、社会へ浸食しているのである。それこそが、革命であり、ここが現実であり、戦場なのだ。




10 サルでもできるヘタレ化

ヘタレは遊ぶ


祭りの楽しさは非日常性であり、反復からの逸脱である。そこに現れる差異(無垢)を消費するのである。しかしこの無垢は管理されたものでなければならない。自らに降りかかる偶然の災害などのように本当の無垢では祭りにならない。だから2ちゃんねる「祭り」も、自分は安全であるが故にすべてが祭りのネタになるのだ。

これは祭りだけでなく、遊びすべてにいえるだろう。する必要のないわずかな挑戦をあえておこない楽しむのだ。ペンを指で綺麗に回す必要がどこにあるのだろう。しかし挑戦するのである。ここには無垢を消費しなければ、正常を保てない人のサガがある。

遊びは、単に遊びでなく、豊かと安心に向けて進歩のための試行錯誤でもある。それによって、もはや世界はマニュアル化され「大きな無垢」をみいだすことが困難になっている。無垢のある場所は、より細部化し、社会の価値は多様化する。この欠乏の中で、それも無垢を見いだそうとするのが、ヘタレ化である。

このようにいうと、ヘタレとは暑苦しい人々のようであるが、そうではない。暑苦しいことが嫌いで過剰にスマートをめざす故に暑苦しい人びとである。たとえば引きこもりの過剰性は過剰な他者回避であり、反転して過剰な他者執着になっている意味でヘタレである。




現代のヘタレ化法一覧


現代では、無垢の生産、すなわちヘタレ化は多様化し、様々な方法が考案されている。

1)ワーカーホーリック法
仕事はいつも安定した無垢の供給装置だ。特に資本主義社会では無垢を生み出すことそのものを原動力として作動している。過剰は家庭崩壊、過労死にも繋がるので要注意だ。しかし仕事は、原則賃金との交換であり、義務である。そのために好き勝手はできない。特に最近は、リストラだ、なんだと、安定していないので注意。
2)消費法
現代において、商品とは無垢であり、消費とは無垢を手に入れることだ。しかし当然お金がいるのであり、過剰になるとカード破産などになるので気をつけよう。特に女の子が陥りやすいが、体を売って、消費するみたいな、悪循環にもなりかねないので、要注意。
3)フロー(陶酔)法
スポーツやゲームなど挑戦を身体的な反復によって行うことによって、体内アドレナリンの分泌が促され、ハイになる。健康法にもなるので、ぜひおすすめ。ただしゲームのように身体よりも頭脳に負荷をかけすぎるのは、不健全になるようで、ゲーム脳など危険が叫ばれているので要注意。
4)サブカル・オタク・プリクリ法
そんなときに趣味に無垢を見いだすのが良いだろう。ただし現代は趣味も細分化しているので、細部へ向かうことが必要だ。特に消費だけでなく、創造を取り言えると、小さいながらも自分自身の無垢(フロンティア)を見いだせる。
5)過剰つながり(弱者排除)法
消費のお金やオタクの時間や労力がかけられない人たちにいま大人気なのが、ケータイや掲示板などの、ネットコミュニケーションだ。ネットコミュニケーションはやりたいときにやり、降りたいときにおりる手軽さから、「コミュニケーションは必ず失敗する」という無限に小さな無垢を生み、それをモグラ叩きのように潰すというゲーム感覚が受けている。さらに上手くすると「祭り」「炎上」にも遭遇できるかも。
6)超越的他者法
起源を求めて思考するという形而上学的行為。最近では、軽いところでは、科学読み物によって、素朴な唯物論唯物論原理主義認知科学遺伝子工学への傾倒という唯物還元主義がおすすめ。亜流として、動物化していると言い張る、というのもある。さらに、ディープを求めるには、宗教や、カルトや、思想にどっぷり没入するのもおすすめだろう。日本ではあまり受けが良くないが、人類発祥からある伝統的な無垢共有法なので、はまれば、深い充実感を得られるのは、請け合いだね。
7)自己破滅(死への接近)法
これはあまりおすすめできないが、究極の無垢である死への近接する。リストカットはベタだけど、イラクなどの危険地帯へ旅するとか。あるいは最悪なのが、他者の死を掛けがねにするのが、一部で流行っているようだ。逃げ隠れするつもりがまったくない他者の殺害という、自己の虐待。死への近接はせめて自分の中で処理しよう。