続 なぜジェットコースターに乗るのか

pikarrr2005-12-16


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■ジェットコースターの快楽

たとえば、ジェットコースターの楽しさはなにか。あえて危険を味わうのである。ここに「あえて」、すなわち「安全は確保されている」というコンテクストがなければ、それは本当の恐怖であり、楽しむことはできない。「安全は確保されてる」ことは理解しているのに、ジェットコースターに乗ると体から恐怖がせり上がってくる。「うわぁ〜怖いよ、怖い」と、「恐怖」する身体を客体として楽しむのである。この心身二元論の快楽は、テクノロジーによるヴァーチャルな体験の楽しさの根底にある。

たとえば、ボクはジェットコースターが嫌いである。単純に怖いのである。「あえて」であって、せり上がる身体からの「恐怖」を楽しむことができない。怖いものは怖いのだ。安全であるか、ないかではなく、身体に起こる「恐怖」という不快は不快なのである。

このような考えに対して、考えていないで素直に楽しめばいいんだよ、とう考えがある。このような人々は、当然「安全は確保され、ジェットコースターは恐怖を楽しむ」というコンテクストを受け入れていて、さらに「恐怖」を不快としてとらえていないように思う。

いわば、「流れに身を任せている」のである。そもそも「恐怖」であるということそのものが、端的な身体の反応ではない。いわばコンテクストから切り離された「恐怖」は存在しない。どのような苦痛もそこにはすでにコンテクストが忍びこまれているのである。早いスピードで移動させられ、体に重力がかかるということが、「恐怖」である、という時点で一つのコンテクストなのである。

流れに身を任せるというのは、コンテクストそのものをカッコに入れよう、ということだ。だからまだ社会性の低い子供の方が楽しむことでできるのである。流れに身をまかせるという客体化されることの快楽である。コンテクストをあぼーんして、環境に流され、身体への刺激を享受する。当然、完全にあぼーんなどできないが、「安全である」というコンテクストが、あぼーんされることへの引き金になる。



あぼーんする快楽」とは主体を溶解させる快楽

「まなざしの快楽」とは、主体の快楽である。みなに見られているだろう、コンテクストを共有しているだろうことが、「このような主体たれ」と主体を立ち上がらせる。それはコンテクストという社会性の中で立ち上がる「この私」という単独性の実感である。「この私」という単独性によって社会性としての繋がりの実感を味わうことができる。

あぼーんする快楽」は、このような主体性を溶解させる快楽であり、主体を主体たらしめる拘束としてのコンテクストを溶解する快楽である。社会性からの解放であるとともに、生物としてそもそもに持っている集団性へ回帰である。社会性(言葉)によらない完全な繋がりであり、群れの中で、誰でもない客体として存在する、あるいは環境の中で溶解するという器官なき身体的な快楽である。

しかしボクたちは容易にあぼーんすることはできない。ボクたちは言語の獲得によって、社会に参入し、主体であることを強要される。このようなコンテクストは簡単には排除することはできない。コンテクストの消失は分裂病になるようなことだ。

人間では、このようなコンテクストの解体は、身体を通して行われる。たとえばジェットコースターでは、まずその恐怖という身体への影響によって、身体が主体を維持できないことによって、「女性はおしとやかに」というようなコンテクストは解体される。さらには簡単には、酔っぱらうことによって、主体性は維持できないのである。



■ボクたちはほとんどにおいて主体的ではないのだ

このようなあぼーんする快楽」は、ジェットコースターような強制的なコンテクストの排除ではなくても、「無」化、客体化、群れ化として様々な場面で現れる。むしろボクたちはほとんどにおいて主体的ではないのだ。

たとえば家でくつろぐときには、なれた環境の中で環境の一部として客体化している。あるいはマックなどではオートメーション的に扱われ、強い主体としてでなく、客体化として扱われることを望む。あるいは様々な道具を使うときには、道具の一部となる。さらに物理的に人々が集まった集団の中では、社会的であるというよりも群れのように客体化しているのだ。
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