まなざしの快楽とあぼーんする快楽

pikarrr2005-12-17

■コンテクストという社会性


まなざしとはコンテクストです。ボクたちはコンテクストに拘束され、行為します。なぜならコンテクストが共有されないとコミュニケーションできないからです。場(コンテクスト)違いな行為は他者から、外部として排除されます。誰でも経験があると思いますが、場から排除されたときの苦痛はものすごい負荷となります。特にそれが慣れ親しんだ場であったら、なおさらです。もはや行き場がありません。さらにコンテクストは生き物のようにたえず新陳代謝していますので、乗り遅れないようにすることが必要です。

たとえば2ちゃんねるでは、「コンテクストを共有できない」というコンテクスを共有して、コミュニケーションしています。だから2ちゃんねるで社会的に認められない誹謗中傷が許容されます。「あー2ちゃんねるならしかたないよ」ということです。それほどまでしてもコンテクストは生成されます。

人はそもそもにおいてコミュニケーションせずにはおれません。いわば人は止まることができないのです。刺激としての「無垢」を求めて、コミュニケーションを行われます。このような数々のコミュニケーションがコンテクストを新陳代謝させています。


■コンテクストの深層構造


人はコンテクストから解放されるときがあるのでしょうか。人は意識しているときのみ、コンテクストに拘束されているわけではなく、無意識の状態でも、コンテクストの拘束されています。たとえばボーとしてるときの、一人のときも、コンテクストから解放されていません。かといって、密室では人は非公共的になります。ここにはコンテクストに深層構造があるということです。コンテクストからの解放は日常的には泥酔したときが一番近いかもしれませんが、完全にコンテクストから逃れると人は、自分が何ものであるかもわからない精神病になってしまいます。


■身体という下部構造


このような人を拘束するものとしては、先天的な遺伝子があります。これは「身体」によって具現化します。たとえばボクたちが魚のように水の中で息ができないのも、鳥のように飛へないのも、遺伝子として限定されています。さらにはなにをどのように感じ、どのように反応するかなどの身体的な限界としての拘束を受けています。

このような身体という先天性はコンテクストの下部構造として働きます。コンテクストが新陳代謝するという下部構造である、人はコミュニケーションせずにはおれない、ということも身体性からの拘束です。だから身体が耐えられないような状況ではコンテクストも糞もありません。たとえば飢えたような身体的な極限ではコンテクストの拘束は働しにくいでしょう。しかしまた逆に身体に負荷がなさすぎる状況、飽食のような状態も、コンテクストは働きにくいといえます。このような身体性の先行によって、コンテクストが消失することをあぼーんすると言います。


■社会性の過剰としての主体性


昆虫などの低級生物の群れではコンテクストによってではなく、先天的な身体性そのものによって秩序を保ちます。群れの各役割で身体構造さえ違います。このような昆虫では群れという集団の方が高い秩序性を持ちます。ここでは個体とは一匹の昆虫というよりも、群れ全体といえます。

高等な動物は社会性というコンテクストを持っています。群れの秩序は先天的な集団性とともに社会性によって保たれます。その中でもより高等な人間群の秩序は社会性によって保たれます。これが人間にとってコンテクストが重要な理由です。しかし昆虫の集団と人間の集団を比較すればわかるように、その秩序性には大きな差があります。コンテクストという社会性は不完全な集団性なのです。不完全である故に、過剰に繋がりを求める。その過剰性が「この私」という主体性として現れているといえます。「我思う故に我在り」とは社会へ向けての叫びです。


■集団性という力への意志


なぜ人はコンテクストによって「群れる」のでしょうか。場から排除されたときの苦痛はものすごい負荷となります。また完全にコンテクストから逃れると人は、自分が何ものであるかもわからない、主体性が消失します。ここには群れることの根元性があります。ここには低級な生物に見られる集団性が下部構造として働いているということです。

まなざしの快楽は主体性の獲得によってこの私という主体を勝ち取る快楽であるとともに、コンテクストを共有し繋がる快楽です。コンテクストという社会性は不完全な集団性である故に、過剰性が現れます。そしてあぼーんする快楽はこのようなコンテクストが溶解し、主体性というコンテクストの拘束が解体する快楽であるとともに、失われた集団性へ回帰する快楽である。
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