「クオリア」はなぜ語りえないのか。

pikarrr2005-12-22

クオリアマニフェスト 茂木健一郎
http://www.qualia-manifesto.com/manifesto.j.html

私たちの世界観の中で心的現象が本来占める重要性に対するいきいきとした感受性を持ち、心の中の様々な表象(representation、Vorstellung)の重要性を指摘したのが、フッサールハイデガーらの現象学者たちであった。

私たちの心の中のクオリア「私」が見るという構造は、「私」という「主観性」(subjectivity)の構造に支えられている。「私が赤を見る」という心的体験のうち、「赤」「赤い感じ」クオリアであり、一方、「私が○○を見る」という構造が主観性である。このように、クオリアと主観性は、表裏一体の関係にある。これが、私たちがクオリアと主観性を同一のフレームワークの中で理解しなければならない理由である。

主観性の起源の解明のためには、クオリアに対応するニューロンの活動の時空間的なパターンの解明のために必要な議論よりもさらにシステム論的な議論が要求される。

ハイデガーの、フッサールとの違いは、コンテクスト主義と言われている。すなわち物理主義など、現象を因果律だけで説明するのではなく、間に解釈項を入れる。ハイデガーではそれが「現存在」である。対象を赤いとみるのは主観という解釈項である。これはパースの記号論の3項であり、ラカン的には現実界(ものそのもの)から想像界への解釈項としての象徴界(言語)となる。だからラカン的には、クオリアは言語のように構造化されているとなるだろう。

事実、神経学によると、人が感じる色は、光の波長でなく、言葉として認識した色と近いと言われる。だから当然、同じ波長の赤でも見えているものはちがう。たとえばデザイナー、画家など色職人は様々な赤を日頃認識している。当然、なんでも赤の僕達とは見え方が違う。たとえばこれはオートポイエーシスが考えられたもとでもある。

オートポイエーシスは神経システムをモデルにして組み立てられている。マトゥラーナが問題とした神経システムは、色の知覚に関するものである。外部刺激に対する視覚神経細胞の活動は、外部刺激の物理的特性に1対1に対応していないという実験結果がある。つまり、神経システムを外部刺激−細胞活動のスタティックな写像として見ると、実験結果が説明出来ない。こうしたことから、神経システムはそれ自体の関連の内部でのみ活動しているはずだとマトゥラーナは考えた。

http://rikou.st.ryukoku.ac.jp/~nomura/docs/autopoiesis/node4.html

たとえば、盲人も普通の人と同じように色がわかるという。たとえば盲人は、赤は派手、明るい、ショック、危険などなど色をイメージとして認識している。そして色は言語であるというとき、普通の人も盲人と近い形でイメージとして色を認識しているということである。

それでも、この赤という意味(クオリア)は、派手、明るい、ショック、危険などの確定記述の束に還元されない。これを赤のイデアと呼んでも結局、言語への還元でしかない。ラカンが意味は現実界にあり、人は知りえない、あるいはヴィトゲンシュタインィトの「語りえぬもの」とは、このような意味である。

それでも、意味にさかのぼるなら、アフォーダンスという考え方がある。赤を人の認識に還元するのでなく、たとえば赤い花は赤いことをアフォードしていると考える。赤い花は動物、昆虫を引き寄せるために赤を訴えている。人が赤に感じるクオリアはこのような進化上の経験によるということだ。これは進化心理学であり、憶測でしかない。すなわち意味とは、このようなことである。美とはなに?なんのために生きているの?などなどだから意味は現実界(ものそのもの)にしかない。それは、簡単には以下のよう意味になる。

クオリア(意味)=遺伝子による進化上の経験+言語による文明的経験+生まれてからの記憶された経験

主観と客観とはなんだろう。たとえば人間の先天的能力で赤く見えるものは、客観である。しかし最近は「やわらかな遺伝子」などといわれ、遺伝子は単なる先天的なものではなく、後天的な発動の問題がある。だから遺伝子的にも先天性と後天性は明確でない。いわば後天的解釈項(それは言葉でも育つ環境でも良いか)によって、遺伝子がどのように発動するか、わからないということであり、意味(クオリア)はこのような複雑なコンテクストの彼方にある。
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*1:Photo by (c)Tomo.Yun http://www.yunphoto.net