精神分析はなぜ敗北したのか

pikarrr2005-12-25

■精神と生物

ぴかぁ〜
生物学などの科学は基本は経済原則的な思考になる。それは、生存至上主義だね。いかに生き残るかという結果に向けて、原因を考える。

この当たりと対抗するのが、精神分析になる。フロイトの快感原則であり、快感原則の彼岸である。精神分析は、もっとも優れた人間観察学なわけだけど、そのはじめから、人間/動物の差異をその根底にもっている。進化論に還元できない「人間」性というもの。これはフロイトが哲学者であることから来ているんだろう。そしてフロイトは進化論者であり、神経学者でもあったわけだ。

むじんくん
確かに生物学が変なイデオロギーにつなげられしまうことは多いですね。市場経済ダーウィニズムなど。今時そこまで酷い人はいないかも知れませんけど、人間の本能にある種の理性が宿っていると信じる人は結構いるんじゃないですかね。

私も精神分析、およびマルクス唯物論を最も尊敬してますが、精神分析に関しては臨床的な面では完全敗北であることは明らかになってますね。氏か育ちかという話でも氏であるという方向が強い。生物学的精神医学が今は主流でしょう。まぁ、それまでのアメリカ型精神分析俗流フロイド主義だったわけですが。

ぴかぁ〜
精神分析が臨床的な面では完全敗北であるというのは、どうでしょうか。斉藤環などがいうのは、社会の心理学化ですね。精神分析の知識が一般になった結果、ベタな精神分析的病理が減り、軽い精神病理が一般的になった。

たとえば、あれ、なんか俺って最近、鬱気味じゃないか、神経症ぎみだなとか自覚的になったきたということです。精神分析では無意識に抑圧されたものを意識化、言語化することが治療方法ですから、ある意味で、自分で自分を掘り下げることができるようになっている。これは、価値の多様化、相対主義化した結果、そもそもにおいて、人がみなアイロニカルになっていることによるのではないでしょうか。そしてその価値の一つが精神分析的知識だったりする。

その意味で、「無意識に抑圧されたものを意識化、言語化する」という精神分析の臨床がもはや医者でなく、個人で行われているというようなことを感じます。

精神分析的カウンセリングなどは、もはやベタでウッディアレン的世界になってしまっているのではないでしょうか。だから科学の発達もあり、医者に望むのは、それが長期的な改善にきくかどうかよりも、即効性の高い薬をもらうことになっている、それが「生物学的精神医学」が主流になっているという実態ではないでしょうか。

結局、心身(心脳)問題ですね。科学は心を解明できない。その力は徹底的に身体へ向かう。精神分析が心を操作しようとするならば、「生物学的精神医学」は徹底的に身体へアクセスすることによって、心を操作しようとする方法です。しかしここでは本質的「心」が失われている面があります。

たしかに最近の科学では、脳をいじることで性格を変えることもできるようになっているし、そのような事が行われはじめている。鬱の人を健全?にすることができる。しかしそれが本質的な治療であるのか、ということはあるでしょうね。

ぴかぁ〜
「生物学的精神医学」精神分析は、人を動物として扱うか、人間としてあつかうか、ということではないでしょうか。たしかに動物としてあつかう技術が発達しいるから、動物として扱う方法が多くなっているとは思いますが、それは勝ち負けとは関係ないでしょう。

たとえば、これはフーコー、あるいは東の規律訓練型管理と環境管理(生管理)の話にも繋がります。現代のような価値の多様化では、規律訓練的に教育などで社会性を人の内面に植え付けること、人々の中で意味を共有させること、が困難になっている。

だから心ではなく、生の部分によって管理しようと言うものです。たとえば、国民総番号制にして、データーベース化して管理するようなことです。これも、そのような情報化技術の発達が、可能にしているのです。市町村の情報がCDROM1枚に入り、検索できてしまう。

しかし心の管理と、生の管理のどちらが正しいということではありませんし、コミュニケーションにおいて、意味の共有は必要であって、そのために規律訓練的なものは必要です。ただそれが学校教育、家庭のしつけによって行われると言うよりも、趣味的な小さなコミュニティ内で行われているということです。

心理学化する社会というように、精神分析が広まり個人レベルのおこなわれると同じように、心の内面化が小さなコミュニティなどの分散化していることがわかります。

実はこれも技術発展の結果であるといえます。技術発展による情報化によって価値が多様化して、心の共有が分散化したとも言えますし、また環境管理的な生のレベルの共有が可能になることによって、心の共有が分散化され、大きなコンテクストから自由になった、ともとれます。

むじんくん
精神分析の知識が一般になった結果、ベタな精神分析的病理が減り、軽い精神病理が一般的になった。

それは色々言われてますけど、精神病理用語が氾濫したためにというよりは、社会的な抑圧が無くなってきたということが第一原因じゃないですかね。昔加賀乙彦が言ってましたけど、都市部と地方では都市部の方が精神病の症状は軽症化している。また、昔よりも現代のほうが軽症化していると。

これは社会的な抑圧っていうんですかね。人間はこうあるべき、という価値観が一枚岩の社会では症状が重症化すると。ただ、軽症化が治りやすいということでは全くないんですけどね。

>その意味で、「無意識に抑圧されたものを意識化、言語化する」という精神分析の臨床がもはや医者でなく、個人で行われているというようなことを感じます。

どうでしょうねぇ(笑)。精神分析用語を知ったところで精神分析ができるか、できないんですね。仮にそういう概念が社会的に広く流通したとしたら、そのことの反作用として仮定される無意識を言語化する、というのが精神分析なわけですから。

そういう意味では、精神分析というのは科学的知識のように、知ればそれを適応できるというものではないので臨床技術として定型化できません。アメリカの俗流フロイド主義的分析などがありましたが、これは定型化したが故に失敗したんですね。それに反対したのがラカンですけど、彼は晩年自らの組織を解散してしまいます。分析は教えることができないというのが理由だったかと思います。

むじんくん
言語の意味が文脈に規定されている。これは静的に観察すればそうなんです。意味とは単独で存在するものではなく、他の言語との差異であるというのはソシュールの講義なんかにも出てきますね。精神分析の例で言うならば、分析の言葉というものもコンテクストに従っているのだ、ということになる。だとすると、それが目標とするのは文脈から外れた状態から元に戻ること、コンテクストに患者を埋め戻すことになってしまいますね。そのコンテクストの起源は現実生活、分析医と患者を取り囲んでいる社会ということになる。

ソシュールの講義はそういう議論を明快にするわけですけど、彼が問題にしたのはそこではなくて、じゃあ人間というのはオウムのように所与の言説を脅迫的にリピートしているだけなのだろうか?という問いだった。当然そんなことないんですね。そうだとしたら動物と同じような生活になったと思いますけど、実際違う。人間の言語は言語自体に折り重なっていく、比喩の運動を行っている。それが端的に現れているのが詩人の言葉なので、ソシュールは晩年そこに注目していくわけです。

精神分析も同じですね。分析の用語を学習し、それを患者に適応する場合、当然目標は既存の社会適応となってしまうが、それだったら薬物で不安を抑えて現実生活に馴染むように仕向けたほうが効果的ですし、実際今そうなっている。しかし、精神分析の言葉というのは本当はそういうものではない。つまり、患者と分析医の間で交わされた言説自体を言説化する、つまり現状の社会のコンテクスト自体を対象化して言語化するというのが精神分析の言葉です。

クオリア論につなげますと、クオリアみたいな主張が発生するのは、上に書いたような言語の根本的な無限性というか、永遠の未完成状態をどこかで止めたいという願望からくるんですね。ある時点の社会的文脈によって成立している概念を永遠化してしまいたい。そうすれば安心だというわけです。自らオウムのように与えられた言説を繰り返して生きたいというわけです。

むじんくん
こういう分析する主体、社会的コンテクスト自体を対象化する”第三の目”は如何にして成立するか、世の風潮を信用しない相対主義ということなのか、違うんですね。逆接的ですが、絶対的な何かを仮定しなければこの分析する主体は出てこないと思います。それはソクラテスが神を信じていたように、超越的な領域、カントの言葉では物自体との関係を信じてなければ、社会的文脈の中に属しつつそれを超えるという視点は発生しないのではないか。

そういう超越的領域を前提としないで語るとどうなるか、クオリア論になっちゃうと思うんですね。認識不能だったはずの超越的存在を現世のどこかに探すという形而上学に迷い込んで、且つ認識の営みがそこでとまってしまう。カントの批判哲学では人間が無限の認識の拡張をするには、物自体がなければならないということだった。これは近代版の”偶像崇拝の禁止”です。そしてこれは今でも最良の哲学だと思います。


■生物学的脱構築

ぴかぁ〜
概略言っていることは同じだと思いますよ。ボクが精神分析の一般化=心理学化する社会ということでいったのは、精神分析用語、手法が一般に知れ渡ったという単純なことではないです。

「社会的な抑圧が無くなってきた」というのは、ポストモダン的には大きな物語の消失ですね。それは小さな物語の時代ということです。これは情報化社会によって、価値の多様化しているということですが、これを単に価値が多様化しているだけではなく、価値の多層化、メタ化が進んでいる。アイロニーですね。世の中にはいろんな価値の人がいる。ボクはこのような価値を信じているが、違う人もいるだろう。 これはある意味で、一人精神分析的なのではないでしょうか。抑圧される(する)自分を見る自分を見る。そこに精神分析の知識も活用されるわけです。自分をアイロニカルにみる、相対化する手法として。もはや大きな物語に抑圧され、悩むべたな主体はいなくなっている。

クオリア論につなげますと、クオリアみたいな主張が発生するのは、上に書いたような言語の根本的な無限性というか、永遠の未完成状態をどこかで止めたいという願望からくるんですね。ある時点の社会的文脈によって成立している概念を永遠化してしまいたい。そうすれば安心だというわけです。自らオウムのように与えられた言説を繰り返して生きたいというわけです。

これもボクが先にいったことを繋がるでしょう。


形而上学否定神学とはなにかといえば、還元なんですね。アナログ情報のデジタル化といってもよい。なぜデジタル化するかといえば、大量な情報を扱える程度に縮小するためです。人間の情報処理速度は七ビットっという認知限界があるから、ひとまず還元するわけです。なんでもクオリア、なんでもナチ。

現実界想像界に還元するときのデジタル処理法が象徴界(言語)なわけです。だからクオリアは言語によって構造化されている。質感がクオリア言語化され否定神学化されているように。

願望というか、人間の認知限界から否定神学はくるわけです。

ぴかぁ〜
絶対的な相対主義などいません。単なる分裂症でしょう。小さな物語(コンテクスト)であっても、どこかに帰属するから主体であり、コミュニケーションが行えるし、アイロニカルなれるのですね。デリダ脱構築が正義である」というとき、これは脱構築否定神学化しているのではなくて、脱構築し続けることが正義である。すなわち正義とは到達することがない、ということですね。

ボクが先にいったことはまさにそのことに繋がるのです。


すべてはいつも否定神学に帰結する。なんでもクオーク、なんでもニューロン、なんでもクオリヤ。まず名付け、還元する。そこから次の脱構築がはじまる。このリアルで、生き生きな質感はどこからくるのか。語りえぬものこそ語るのだ。


ボクが「社会の心理学化というときには、さらに先をいっています。脱構築デリダがいうように、意志をもってやることではない。人間には認知限界があり、身体的に形而上学に迷い込むものだそして情報化社会では、その形而上学も長続きしない。なぜならすぐに次の価値を吹き込まれ、かつての形而上学が忘却される。これは「生物学的脱構築とでもいうものである。カントやデリダも社会の「生物学的脱構築を観察し、表記しただけのことです。そういう意味で彼らは時代の流れを読む優秀な芸術家です。

そしてこのような「生物学的脱構築が、臨床としての精神分析を陳腐化させているのです。そして臨床は、もはや「生物学」そのものに向かうしかないのです。というようなことです。

むじんくん
なるほど。確かに人々の無意識が成立しにくくなるというんでしょうか。例えば、フロイドの時代にあったような性的抑圧はもう全くないわけで、そういう意味で現代社会の構成員は精神分析をそれぞれが強いられているとも言えますね。

これはどこから来ているかというと、資本主義ですね。資本主義の発展過程というのは言ってみれば精神分析することです。実際、新製品開発っていうのは人々が既に語っているニーズを拾っていたら全くダメで、意識していない欲望を引き出さなければいけない。そういう社会に属することは、即ち精神分析されてしまうことを意味し、全てが商品化=意識化されることでアイロニカルになるということでしょう。その極北にあるのが情報社会なわけで、そこは仰るとおりだと思います。

>これは「生物学的脱構築とでもいうものである。カントやデリダも社会の「生物学的脱構築を観察し、表記しただけのことです。そういう意味で彼らは時代の流れを読む優秀な芸術家です。

ええ。哲学はミネルバの梟は黄昏に、ですから近代化した社会における人間精神の自己認識を語ったのがデカルトからカントに至る思考だったんでしょう。ところが、ヘーゲルというのがその後に出てくる。彼はその内実において明らかにカントよりも退行した思想だと思いますが、しかし、時代状況に適合していたんですね。つまり、近代ナショナリズムはカントの思考からは出てこないわけで、そこを表現したわけです。

デリダというのは私は読んでないんですけど(笑)、ああいう脱構築というのが注目されたのはヘーゲル的なナショナリズムが成立しなくなった。具体的には米ソ冷戦の崩壊によって完全に弁証法によって社会と人間を語ることができなくなったわけで、そういう時代の思想として出てきたんじゃないかと想像します。今はナショナリズム解体の中にあるわけですが、新しい歴史教科書なんかはそういう中での反作用でしょうね。

ぴかぁ〜
ボクは心理学化の要因を、情報化技術といいましたが、そのような情報化技術を社会化するのが、資本主義であった、ということだと思います。

カント、ヘーゲルデリダの優劣?は、それぞれの考え方があるのでノーコメントで。ボク的にはラカン最強論者ですが。たとえばフロイト精神分析を確立し得たのは、彼があの時代のウィーンというコスモポリタンな都市にいたからだ。あるいはドゥルーズフーコー的には、その時代性の影響され、家族という三角形に閉じこめすぎているということでしょう。どちらにしても、みな、時代の流れを読む優秀な芸術家ということです。

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*1:本内容は、2ちゃんねる哲学板決定論:脳は物質だから意識は必然にすぎない50 」スレッド http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1134973917/からの抜粋です。ただし内容は必要にあわせて編集しています。