なぜ「無垢」への欲望が生のダイナミズムなのか
ラカン思想の問題はわかっている。フロイトの無意識理解にあらわれている。フロイトの豊かでとらえられず、変化し続ける無意識理解に対して、ラカンの無意識は明快である。「無意識は言語で構造化されている。」この明快さは、言語で構造化されている無意識を、「無意識」と呼ぼう、と理解したほうが良いだろう。
では残りの無意識は何処へ?現実界である。ラカンの現実界は異次元ポケットであり、都合の悪いものは何でも入る。しかしこれは「語りえぬもの」だ。フロイトが哲学を嫌っていたのに対して、ラカンは哲学のマナーに律儀である。生物学者、神経学者などの科学者としての、語りえぬものこそ大いに語るフロイトとの違いであり、まさにヴィトゲンシュタインはフロイトを批判したのである。またヴィトゲンシュタインは自らをフロイトの弟子と呼んだのであるが。
しかし本質的な問題はフロイトの生き生きした描写を死したシニフィアンの構造に還元したことではなく、それでもラカンの思想が僕たちを見事に描写してしまうことである。
■象徴界のダイナミズム
ラカンの思想にはなぜ死臭がただようのか。ラカンは名付けは「ものの殺害」であるという。たとえば「猫」と言語に還元することにより、そのものそのものは失われる。そして言語によって構造化された世界は静の世界であり、死の世界である。
しかし本当にそうだろうか。「死の世界」とは、エントロピーの増加であり、構造が消失した世界である。生命という高度な構造物が、死ぬことによって塵へと消失していくのでは、ないだろうか。このような「生の世界」とは、まず還元があり、それが構造化されてくという、ダイナミズムである。そして象徴界はまさにこのような構造によってなりたっている。
構造が維持されるためには、たとえ静的に見えたとしても、そこに新陳代謝としてのダイナミズムがなければ、維持されず、構造は解体される。すなわち象徴界は絶えず変化するというダイナミズムをもっている。人がたえず新たに名付け、還元し、構造を脱構築し続けることによって、象徴界は成り立っている。これはドゥルーズの「差異と反復」であり、デリダの「差延」である。
■「死への欲動」という生の力
しかし「象徴界のダイナミズム」だけでは、ラカンの思想を生の思想へと読み替えるには不十分だろう。ラカンへの批判はデカルトを継承するその主体の表象主義である。主体とは他者に投射されものであり、目の前の表象である。そこには身体性が排除される。ドゥルーズが欲動を生へと転換するために、「器官なき身体」を導入した理由がある。
ラカンの身体は現実界に「抑圧」され、「死への欲動」といわれる。たとえば近親相姦のように、象徴界によって禁止された、社会的に許されない享楽を望むものであるからだ。しかし象徴界を生のダイナミズムとして考えるときに、「死への欲動」は象徴界の静構造を解体する力であり、象徴界にダイナミズムを与える力の源泉そのものとして考えられるだろう。
■無への欲望と無垢への欲望
ここから、ボクは「欲望とは「無垢」への欲望である」といった。ラカンは「欲望とは他者の欲望への欲望であり、無への欲望であり、死への欲望である」といった。「無」とは決して満たされない欲望であり、疎外され欠落した主体を示している。それ故に、欲望は満たされることがなく、終わることがないないのである。「無への欲望」、死によってしか満たされないという終わらない欲望というダイナミズムを支えている。
これを、対象化し、生的につなげたものが「無垢」である。欲動は象徴界によって禁止された、社会的に許されないものへ向かう。構造化から差異化されたものとしての「無垢」への欲望によって、静的な構造の中にダイナミズムが生まれる。ダイナミズムそのものが、主体であり、言語であり、社会であり、システムを維持するのである。
■「(現実界の)器質的構造」と「(象徴界の)言語的構造」の対立
しかしラカンの「無への欲望」あるいは「死への欲望」と、ボクの「無垢の欲望」は同じではない。ラカンの欲望論の根底にあるのが、ヘーゲルの欲望論、すなわち動物は欲求し、人間のみが終わりない欲望をするという、「人間/動物」の差異である。この「人間」はラカンではハイデガーの現存在に繋がる。「人間」のみが死ぬことができるという特別性であり、物語としての「人間」であり、死ぬことによって物語は完成し、人は物語として完成することを望むのである。だから「欲望は死の欲望である」のは、「人間」の欲望だからである。
ボクが、構造化から差異化されたものとしての「無垢」への欲望というときに、「人間/動物」の差異は維持されない。なぜなら、「動物」も維持されるためには、「無垢」を必要するからである。すなわち現実界も構造化されているからである。
そして、ヘーゲルの「人間/動物」の差異−これはデカルトの心身二元論の二項対立と考えても良いだろう−におけて、「動物」は「(現実界の)器質的構造」であり、ラカン的な「人間」は、「(現実界の)器質的構造」と「(象徴界の)言語的構造」の対立と考えることができる。そしてこのような構造のダイナミズムの維持には「無垢」が必要とされるのだ。
■「人間」という物語
これを一つの物語をして語ろう。生命とはその発生から決して、止またことがない存在である。たとえばあなたの生命活動は数十億年一度も止まっていないために、今がある。そこにはたえず、「無垢」が供給されている。しかしこの無垢は「環境」の圧力、進化論の自然淘汰圧という、生命維持への危険として供給されてきたのである。ここには「環境」と「(現実界の)器質的構造」の対立がある。
しかし人間は文化によって、このような環境の圧力を大幅に排除することに成功したのである。文化という高い秩序性は「(象徴界の)言語的構造」によって維持されている。ここでは「環境」と「(現実界の)器質的構造」の対立から、「(現実界の)器質的構造」と「(象徴界の)言語的構造」の対立へシフトする。これをラカンが「去勢」というときには、「(象徴界の)言語的構造」が「(現実界の)器質的構造」を抑圧する。これによって、無垢が欠乏する傾向が怒るのである。
よく言われるように、進化の時間単位では人間発生の数十万年は、短すぎる。いまだに、ボクたちは、環境という不確実性と背中合わせに生きるように、できているのだ。しかし僕たちは動物園の動物の状態であり、無垢の欠如である。このために、僕たちは無垢をもとめる。その欲動が、過剰性としての「死への欲動」であり、禁止された「享楽」である。
■「健全な無垢の欲望に健全な精神は宿る。」
ラカンにおいて、想像関係とは、他者の欲望を欲望するという「闘争」であり、ヘーゲル的な主と奴の弁証法である。そのために第三者の介入によって、象徴界への参入することで、この闘争は、収まる。社会の秩序の中で関係性が営まれる。たとえば、不確実性として無垢は突然襲来する。そして過剰な無垢の経験は、反復強迫によって、分割されながら、象徴化へのと構造化されていく。
しかし現代において問題は、無垢の欠乏により、(死への)過剰な欲望を求めるである。宮台的にいえば、人は「動物化」して豊かさに充足したまったり生きることができずに、過剰に対象に没入するという「ヘタレ化」してしまう。
これにより、ボクのテーゼ「健全な無垢の欲望に健全な精神は宿る。」が導かれる。過剰でもなく、欠乏でもなく、無垢を適切に消費することによって、健全な精神は保たれる、という一つの理想である。
■創造的な「愛」の関係
これは、どのような状態であるかは、考え続けられなければならないが、それは「愛」の関係であると、言いたい。たとえば、会社における上司と部下とは、象徴的な上下関係である。間には、社会的な上下があることによって、闘争へのいたらない。しかしまたたとえば本音、無礼講などのような闘争があることも否めない。社会においてもはや純粋は想像関係はもちろんないが、純粋な象徴関係もない。僕たちは想像的で、そして象徴的な関係で人間関係は営んでいる。
ボクは、「消費的」な関係と「創造的」な関係といった。消費的な関係とは、たとえば打算的な恋愛関係である。相手が美人である、処女である。その価値(無垢)を消費することで成り立つ。消費すると終わってしまう。
それに対して、創造的な関係とは、関係によって、価値(無垢)が、生み出されるような関係である。たとえばライバル関係では、闘争的であっても、その競争心が、新たな価値を生み出すのである。これはラカン的には良い転移関係(想像的関係)に対応するのかもしれない。ボクはこのような創造的な関係、それは二者間ということではなく、コミュニティであってもよいにであるが、創造的な内部であり、そこには強い内部への強い帰属心が生まれるという意味で「愛」と呼ぶ。
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