なぜ「動物化」への欲望は回帰し続けるのか。
①「サイボーグ技術が人類を変える」
最近、興味を強くもったのが11月5日放送のNHKスペシャル「サイボーグ技術が人類を変える」である。ここまで来てるのか、という感じであった。
刺激される脳、回復する運動機能、そして…精神
この章のキーワードはDBS─脳深部刺激療法。これは、脳に電極を刺して電気刺激を持続的に加える治療法のことです。・・・脳の悲しみを司る部位に刺激を加えることでうつ病を治療することが紹介されました。同様に、他の感情についても制御できる可能性が示されています。
DBSは病気を根本的に治癒するものではなく、機器の電源を切ると病状は再び悪化します。また、すべての患者さんに効果があるとも、手術が100%成功するとも言い切れません。しかし、他の病気治療への応用など、今後の更なる研究開発が期待されています。
一方で我々は、どこまで人間は制御できるのか、そして、制御してよいのかという疑問と向かい合わなければなりません。科学の最先端を目撃した我々は、今後の適切な応用の方向性について考える必要があるでしょう。
http://matsuda.c.u-tokyo.ac.jp/sci/project/nhksp/chapter_3.php
①「動物化」という幻想
精神分析において抑圧とは非社会的なもの、受け入れがたいものを心の奥へ隠してしまうことであり、それは「欲望」として回帰する。現代は精神分析そのものを抑圧しているようである。精神的な苦痛には、テレビ、映画、ゲームなどの娯楽により、「気を紛らわせる」ように、回帰する欲望へ畳みかけれように、容易に刺激的快楽を投入すること、あるいはより直接的には薬を飲むことで回避する。抑圧自体を消失しようとしている。これが現代の「動物化」である。
「サイボーグ技術が人類を変える」に示されるようにIT技術の発展にともなうここ数年のサイボーグ関連技術の発展は目覚ましいが、抑圧された「心」はどこにむかうのだろう。「動物化」の先に見えるのは、美容整形手術のような「心」の整形である。これを単純な権力論、権力が人々を家畜化しているとみてはいけない。これは一つの享楽である。人々は「動物化」することを欲望しているのだ。
しかしこれはパラドクスだ。欲望しないことを欲望する。なりたい「私」になるとき、整形手術のカタログのように前後は提示されえないだろう。それを見比べる「私」はどこにいるのだろうか。欲望しなくなったときに、かつての欲望した自分はもはやない。
このようなパラドクスがおこるのは、欲望は、失われたものが決して取り戻せないことを隠蔽するために、幻想の対象aとしての「動物化」を欲望する。「動物化」への欲望とは、「動物化」すれば、「心」を煩わすこと、さびしい、つらい思いをすることがなくなるという幻想である。
②「生物化」という不可能性
なにゆえに人は欲望するのか。ボクは喪われた生物的集団性(完全な他者との同一性)の補完であり、欲望は他者の欲望であり、他者と関わりつづけること、「他者からの呼び声」を聞き続けること、であるといった。すなわち人間とは喪われた「他者からの呼び声」を聞くことであり、耳を塞ごうともなりやまない「他者からの呼び声」に悩まされつづける者である。
たとえば社会にでて他者と交わるよりも、引きこもる方がその声は大きく鳴りつづけ、あるいは社会にでてもただ組み込まれ、流されるだけでは鳴り続ける。この声のささやきは「他者と同一化しろ。そしてお前の望むことを完璧に他者に聞いてもらえ。生物のように」である。
欲望とはその本質において「生物化」への欲望である。しかしそれは正しくもあるが、間違いである。ボクたちは「生物化」など欲望していない。なぜなら「生物化」は失われ取り戻すことができない故に、「生物化」への欲望を隠蔽し、他者の望むものを望むのである。この屈折こそ「人間」である。
③実現される「動物化」と回帰しつづける「他者からの呼び声」
だからボクたちの本当に望むものが「生物化」であっても、「動物化」ではない。「動物化」とは「生物化」できないことを隠蔽するために見せる幻想である。
テクノロジーによる「心」の整形によって、「動物化」は「生物化」と混同されながら、かなおうとしている。そして、かなってしまったとき、それは本当に求めていたものではなく、単なる幻想だったのに、単なる愚痴だったのに、本当は「生物化」したかったのだ、というかつての「私」は「動物化」してもはやここにはいない。
それでも「欲望」は回帰するのではないだろうか。ふたたび「動物化」は目指されるのではないだろうか。それはテクノロジーの発展そのものが、「障害者を助ける」ために行われるのではなく、失われた「他者からの呼び声」への返答であり、人間が消滅するまで止まらないように。
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