続 なぜ盗んだバイクで走り出すのか? まなざしはいつも正しい。

pikarrr2006-01-26

①まなざしはいつも正しい

「まなざしの快楽」とは僕たちの行為を導くもの、「正しさ」を指し示すものである。僕たちはいつもまなざしとともにある。僕たちは社会的なことだけでく、反社会的なことをするときもまなざされている。社会的に禁止された行為では、まなざしはそれをやれといい、またやめろという。なぜなら「正しさ」とは社会的であり、また反社会的だからである。ならば、まなざしなど必要ないのではと思うが、まなざしがなければ僕達は悩むこともできないのだ。

まなざしはいつも「正しくあれ」という。親の説教とはオヤジギャグのように古いまなざし(「正しさ」)である。うんざりして反抗して悪いことをする。悪いこととはいつも「正しい」ことである。悪いことはいつも、これが僕らの「正しさ」だ、としておこなわれる。だから悪いことは自慢されるのだ。



②まなざしとは賛同であり、名付けである。

かつては規律訓練権力によって、まなざしの「正しさ」は社会的正しさと密接であった。悪いことは抑圧され欲望により回帰した。しかし現代はまなざしは多様な価値のもとにあり、社会的正しさと乖離しつつある。ある行為は正しくもあり、また正しくない。

もはや象徴界「法」ではなく、まなざしであると考えるべきである。まなざしは「正しい」。しかしそれが社会的な正しさと同じである保障はない。まなざしという「正しさ」とはなにか?賛同であり、名付けである。

盗んだバイクで走りだすとき、盗むことが社会的悪であることわかっているが、行われるのはそこに賛同と名付けがあるからだ。「あつはだれだ?かっこいい(正しい)ぜ!」それは誰かがほんとにみていることではなく、(主体の中の)まなざしである。



③まなざしは「リアリティ」を支える。

まなざしとは「リアリティ」である。欲望とはまなざしの指し示すモノを求めることであり、そのまなざしの先には欲望の対象である幻想としての「無垢」がある。

賛同と名付けとは、私は「この私」だという「単独性」への叫びであるが、それは他者とのつながりの実感である。それは社会性によりえられるが社会性の先の現実界の集団性をめざすものである。集団性とは生物的つながり細胞がつながり身体ができているようなつながりである。人間間では失われたものであり、「(失われた)他者からの呼び声」である。そしてこれがまなざしを作動させる力である。

正しい社会性と正しい反社会性があり、それを含めて社会というまなざしの内部がある。では盗んだバイクで走りだすことは許されるのか?許されないだろう。それがまなざしの内部にある「法」である。「法」とは過去のまなざしであり、だから便宜的なものであり、書きかえられていく。しかし「法」の重要性は「法」がなければ「法」を守ることも、やぶることもできないということである。そして過去のまなざしがなけれは、今のまなざしの「正しさ」、リアリティは生まれない。

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*1:参考 なぜ盗んだバイクで走り出すのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20041203