「無垢の欲望」という啓蒙

pikarrr2006-02-04

■「無への欲望」と「無垢への欲望」
 
考える名無しさん

「仮面。――どこを探しても中身がないような、純然たる仮面に過ぎないような女たちがいる。ほとんど幽霊のような、当然満足させてくれるはずもない。こうした者とかかわり合う男はあわれなものだ。しかしまさしく彼女らこそ男の欲望をもっとも強く刺激できるのである。男は彼女らの魂を探す――そしていつまでも探す。」

(F・ニーチェ『人間的、あまりに人間的』)

文章であれ映像であれフィギュアであれなんであれ、自らの「欲望」に見合う、見合うようなシミュラークルを探し、次から次へと消費する人々。(ヘーゲル的に否定性として「欲望」を捉えるなら、所与として与えられるモノは決して「欲望」と釣り合うことはない。)「欲望の充足」を、「仮面」を被った女を、彼らが追い求めるかぎり、その追いかけっこは、消費のサイクルはいつまでも続く。


「資本主義にはどのような「正常な」均衡状態もない。「正常な」状態とはむしろ、永続する過剰の生産である。資本主義が生き延びる唯一の方法とは拡大することだけなのである」

スラヴォイ・ジジェク『否定的なものへの滞留』)

誰かがこれではない「何か」によって、欲望が充足し得ると述べたとしよう。それは一見、サイクルを逸脱させるものであるかのように見える。だが、それは新たな「シュミラークル」の提示であり、サイクルの拡大再生産であり、「プラスティーク、プラスティーク!」ボードレール)の要請に応えるものでしかない。

では、この馬鹿げた資本・サイクルから逃れるには?仮面の下の「中身」という妄想から、「正常な」ものに対するオブセッションから、「充足された欲望」というエデンから、決裂すること、ただそれだけではないだろうか。

ぴかぁ〜
「仮面」を被った女」の魅力は、「女は「仮面」を被らない」ということにあり、「女は「仮面」を被る」世界では、欲望のフリか、「仮面」は被らない幼女」に向かうしかない。

現代の問題は、「充足された欲望」というエデンから決裂すること」ではなく、欲望の質が落ちていることです。質の良い欲望を求めて、資本主義が空回りする。いかにサバイブするかは、いかに欲望を確保するか、ということです。

考える名無しさん
「欲望」を完全に語りうるもの、明証なものとして扱うことそれを否定したのがヘーゲルであり、フロイトであり、現代(ポモ)です。「欲望」という空虚に「質の良い」という形容は冗語的ではありませんか?

ぴかぁ〜
正確には欲望の質ではなく、欲望の対象の質ということになるんでしょうか。「無への欲望」「無垢への欲望」と展開したのです。なぜかその方が消費社会を説明しやすいからです。たとえば、なぜ人は上から2冊目の本を買うのか。一冊目より無垢だからです。

考える名無しさん
えーと、そこまで難しいことではなくて、汚れていないものが汚れているものより価値がある。例えば野菜がそうであるように。見た目が綺麗であることがその金銭的な価値を左右し、そのアナロジー「二冊目の本セオリー」を生んでいるのではないでしょうか。

とは言え、「欲望」が通過する何か、その何かの「質」(なぜ、あれではなくこれなのか?といった問いにおいて)これは重要な問題であると思います。

また、「無垢」は小奇麗さではなく、ある種の「過剰」と結び付いているように思われます。欲望論にはありきたりな解答であるといわれれば、まったくその通りなのですが。

ぴかぁ〜
だからそのアナロジーを無垢というのです。上から2冊目の本の処女性は小さなアウラです。ベンヤミンは複写技術の時代にアウラは消失したといいましたが、小さくなったのです。欲望の対象の質が落ちたのです。

そしてこれはいつも過剰なのです。本は読むためにあり、やさいは食べるためにあることからの過剰が欲望です。無垢(処女性、小さなアウラ、小さな過剰)を人はなぜ欲望するのか。それが自分の承認だからです。誰でもない、私だけということを、小さく承認するのです。

上から二冊目の本、綺麗な野菜、ブランド品、処女、金メダル・・・その小さな承認が主体としての「私」を承認する、それが「私」なのです。しかし完全に「私がなにものか」承認されることがない。なぜなら「欲望は無への欲望」だからです。

無垢の「質」と人の充足は密接に結びつき、ボクは、「健全な(質の良い)無垢への欲望に健全な精神は宿る」と啓蒙するのです。そこから、ジャングル化する社会を生き抜く3つの方法を提唱したのです。当然、そこには「欲望とは無への欲望である」というアイロニーは隠されていますが。




ラカンの欲望論への回帰
 
リーマン
2冊目の本が選ばれるから、それはより「無垢」なんだ、というとき、1冊目や3冊目は私にとってなんなのでしょう?それは2冊目、という本を下支えする「無意識」なのでしょうね。そして、私がより強く関係することとなった5冊目の本は、私を形作る一つのものとなる。

2冊目以外の本が、もし仮に綺麗であったとしても、やっぱり2冊目の方がより「無垢」なんでしょう。また、見比べてどれも同じように汚れているので5冊目を選んだら、5冊目の方がより「無垢」なんでしょう。隠れている12冊目が仮により綺麗だったとしても、私にとっては5冊目の方がより「無垢」なんですね。

「私が関わったからその本は私にとって特別になった」のですが、私、と言うものはその本やたまたま関わった様々な記憶によって形作られる。そして、よりよい「本」を選び身につける「私」を評価するまなざしは、他者のまなざしを想像的に自己に内面化したものです。このまなざしによって「差異化」されるから、それは「無垢」となる。

と理解した上で質問ですが、無垢の「質」は、とりこんだ「まなざし」に左右される以上、健全な無垢なんて求めようとしたって自分じゃどうしようもないんじゃないですかね?というか、自分の内面化した「まなざし」の身丈にあった「無垢」を指向しろ、そうすれば精神は健全だ、と言っているような気がして、これもまた同語反復(手紙は必ず宛先に届くから、それで正解なんでしょうけど)

ぴかぁ〜
他者のまなざしを想像的に自己に内面化したもの」とは象徴界ですね。超越論的他者のまなざしであり、無意識であり、自分ではどうしようもありません。

たとえば上から2冊目の少年ジャンプと、世界でただ一冊のダビンチの直筆本の、無垢の「質」は、少年ジャンプ<<<ダビンチの直筆本ですね。これは、象徴界(社会)の評価、より他者が欲望するだろう、という主体の無意識から来ます。

自分の内面化した「まなざし」の身丈にあった「無垢」を指向しろ、ということではなく、「ダビンチの直筆本」のような質のよい無垢があれば、良いのですが、ボクたちに手にはいるのは、「ダビンチの直筆本」の複製品です。しかしそのそもボクたち庶民は昔から、「ダビンチの直筆本」なんて貴重なものは手に入らないわけです。ではかつて、なにによって質の良い無垢を手に入れていたのか。

たとえば昔はレコードなどはすり切れるまで聞いたらしいです。今では、レンタルか、ネットで落としてすぐです。物質的に満たされていなかった。情報がなかったために、みなが小さな井の中の蛙だったのです。ちょっとしたことが、とても大きな無垢だった。

たとえば今ではエロは、ネットで写真、動画、風俗で、あるいはナンパでも容易に手にはいります。しかしかつてはエロ写真は貴重だし、女性と付き合うのも困難です。豊かさ、情報化が、無垢という幻想を解体し、無垢の質を落としているのです。

ボクたちは、物質的に満たされる中で、無垢の飢餓状態になるのです。そのような窒息状態から、過剰な行動にでるのです。

ボクたちは「私は特別だ」という「錯覚」のもとに生きています。誰でもこのような可能性であり、プライドを持っています。たとえばアイドルオーディションになりたいという女性は、もしかするとという奇跡と自分へのプライドという夢で頑張るわけです。錯覚そのものが彼女のプライド、勇気、元気を支えているわけです。そしてその挑戦が彼女の「無垢」なのです。

それを確率論などの現実的の情報化を提示して、冷静になれ、夢もつなよと、言うことは意味がないわけですが、現代の情報化社会は、望まなくても、情報が流れてくるわけです。夢のない現実的な暴露情報が簡単に流通しているための、夢をみる、夢を語ることが、むずかしい。マジであることがかっこわるいシニカルな社会になっているのです。ボクたちは、無垢の飢餓状態にあり、プライド、夢を持ちにくいのです。

リーマン
非常にわかりやすいです。ここはよくわかりました。

自動車事故に遭った人にとって自分が事故に遭うことは「特別」なことですが、確率論的には必然に起きることでありたまたま偶然に彼に起きたに過ぎず、なんら「特別」な事ではないわけです。(と東センセが説明していました)勘所は象徴界での話であることと、その域では手紙は誤配されない、ということですね。

ぴかぁ〜さんの難解さを理解する一つの鍵は、因果関係を逆にして読んでみる(「それは……」の前後を逆にする)、もっと言えば最後から最初に向かって読むということですね。これも手紙は誤配されないから、ありなわけです。一切の偶然性は捨象され、偶然性も「偶然性」として必然的に存在するわけですね、象徴界では。

ぴかぁ〜
たとえば、事故が1/1万の確率でおこるというデータがあると、①1万人の中でよりによってなぜボクに?天罰?神の意志?となります。これは「私」中心の見方であり、「私は」だれでもない私という単独的な存在です。

それに対して、②必ず誰かに当たるのだろうから、必然。ここでは1万人中心で「私」は1万人のうちのただの一人、すなわち偶有的な存在、誰でも良い一人です。

ボクはこれをかつて「偶有性から単独性への転倒に神性が宿る」とテーゼでしました。たとえば、恋をするのは、必ず①です。選んだ彼女は特別な女神であり、それを選んだ私も単独的な存在です。②である彼女、だれでもよい人では、恋は起こりません。

「私」「恋」「夢」も、「偶有性から単独性への転倒」によって、支えられています。しかし現代の情報化では、「単独性から偶有性への反転」という暴露がおこります。たとえば「なぜその彼女を好きになったのか」そこには根拠などないのです。もっとかわいい子、もっと好みの子がいるはずです。恋は錯覚です。情報化社会は大量な情報によって、錯覚を暴露します。

「偶有性から単独性への転倒」ラカンであり、「単独性から偶有性への反転」デリダです。ボクの言う無垢への欲望とは、「単独性から偶有性への反転」の再反転、すなわちラカンの欲望論への回帰であり、「私」の取り戻しです。

リーマン
彼女が彼にとって「特別な人」であるのは、「彼以外に知らない彼女の特別なところを知っている」と<彼が>確信しているからなんですね。これは内田樹センセの説明で「師弟論」から発しているんですが、内田センセが言われるに、このような、自分にとってのみ不思議な魅力、「謎」を持つ恋人や師に出会うためには歩いて歩いて必死になって探さないといけない、なぜならそのように狂おしく求める過程に於いてのみ、「他者にそのような魅力を発見できる」自己が形成されるから(「先生はえらい」)。

夢や希望といった魅力的な謎はごく「個人的」にしか得ることは出来ず、(同時に多くの人間がそれに群がったとしても)、共有しているように見えても「その個人にとって、と言う形でしか特別さは存在し得ない」のだからやはり個人的な経験なのですね。

>ボクの言う無垢への欲望とは、「単独性から偶有性への反転」の再反転、すなわちラカンの欲望論への回帰です。

単独で読むときわめて保守的に見えるのですが、言われていることは上記のようなことかな、と思いました。その上で、各自まったりでも必死にでも<生き延びろ>と言っているのですかね。

要するに、「欲望」するにも主体が享受できる能力を獲得しなければ、欲望出来ない。欲望は既製品ではないわけです。ジャストフィットな欲望は各個人の自己形成と不可分にあるわけですね。

ぴかぁ〜
同じようなことだと思いますが、ボクなりに説明すると、

>彼女が彼にとって「特別な人」であるのは、「彼以外に知らない彼女の特別なところを知っている」と<彼が>確信しているからなんですね。

ボク的にいうと、彼女が彼にとって「特別な人」であるのは、彼女にとって彼が「特別な人」だからですね。女神に恋することは、女神に僕の特別性を承認してもらうのです。彼女は「無垢」であり、「無垢」は僕の唯一性を承認するのです。

内田センセの説明をボクなりに解釈すると、「無垢」へたどり着く課程が重要なのだと思います。歩いて歩いて必死になって探すという苦労が、「無垢」の質を向上させるのです。簡単に手に入るものと、苦労して手に入れたものの大切さの違いです。「狂おしく求める過程に於いて、」「無垢」の質が向上し、より強く私を承認し、私の自信、プライドになるのですね。

現代の豊かで情報化社会では、簡単に手に入ってしまう。あるいは刺激的な快楽で欲望をごまかしてしまう。このための「狂おしく求める過程」が難しく、「無垢」の質が低下し、私の自信が育たないのですね。

またボクは無垢への欲望として、「消費関係」「創造関係」の違いを挙げています。「消費関係」はモノを買い消費するように、無垢を手に入れ、ただ消費する。それに対して、「創造関係」は無垢を育てる関係ですね。例として、スポーツのライバル関係をあげていましたが、たえず相手を意識して(無垢として欲望して)負けないように自分を磨くことによって、無垢が育つ(創造されていく)ですね。「狂おしく求める過程」はそれにも近いのかとも思いました。

ぴかぁ〜
>単独で読むときわめて保守的に見えるのですが、言われていることは上記のようなことかな、と思いました。その上で、各自まったりでも必死にでも<生き延びろ>と言っているのですかね。

これに対して「狂おしく求めろ」とは、ボクの「芸術家の知」「己の欲望に譲歩するな(ラカン)」に近いと思います。しかしボクは現代の欲望することの困難さ、無垢の飢餓状態は、かなり深刻なのではないか。「狂おしく求めろ」であれ、「己の欲望に譲歩するな(ラカン)」であれ、これはハードルが高すぎる、これではより追い込まれてしまう、のではないかと、考えました。

そのために、「フリーターの知」(ヘタレサイクルを回せ!)、「エリートの知」(テクニカルを磨け!)においては、もう少し譲歩し、上手く小さな無垢でも見いだしながら、この状況に耐えていこう、というテーゼを併用しました。

「ジャングル化する社会」=不確実性とは、先ほどの例でいくと、「確率論的には必然に起きることでありたまたま偶然に彼に起きたに過ぎず、なんら「特別」な事ではない」世界です。より「私」は解体され、「誰でもないただの一人」になります。錯覚することがむずかしくなる、「無垢」の質が低下する。人々が「無垢」を求めて、徘徊、暴走する・・・

彼らに、「狂おしく求めろ」「欲望しろ」というのは、より追いつめるのではないだろうか。たとえば最近「夢をもて」というのが言われます。夢もない人間は無気力でやる気のないダメ人間だ。という思想であり、強迫的になっている感があります。夢を持つことは悪いことではないでしょうが、強迫するものではない。そこから最近では、プチクリプチクリエーター)などの発想が出てきているわけです。

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*1:本内容は、2ちゃんねる哲学板「まなざしの快楽(他者からの呼び声)PART13」スレッド http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1137846910/からの抜粋です。ただし内容は必要にあわせて編集しています。