ジャングル化する社会を生き抜く3つの方法 その1

pikarrr2006-02-03

①ジャングル化する社会

人間社会とはジャングルから秩序を建設することであった。そのような社会的秩序は階級構造によってなりたっていた。うまれながらに居場所、行為が規定されている。民主化とはそもそもが社会構造解体の流れをもつ。平等であることは競争で、位置ポテンシャルは上昇し、社会的な規律は低下する。

欲望とは、高い秩序性という抑圧からの解放ではなく、秩序がゆるんだ余裕に生まれる。すなわち秩序と解放の対立、「社会的であれ」「主体化しろ」ダブルバインドに欲望は生まれる。

そして現代、いよいよ社会が老朽化して底が抜けた。社会の流動性はいよいよ上昇し、「ジャングル」が回帰する。これは、当然、野性に戻るというとロマン主義的なことではなく、自然淘汰の世界へ向かう。「社会的な抑圧」から解放され、それに変わって回帰するのが、自然淘汰的環境圧」である。

「社会的な抑圧」はある規範がありそれに従えということであるが、「環境圧」は、「好きにしろ、だた生き残れ。」ということである。構造改革規制緩和など、自由度の向上と言われるが、それはまた、「環境圧の上昇」である。

このような「ジャングル化」は、社会が豊かさにより、社会秩序を抑圧として感じる人々が、自由を望んで、進めている。それは「不確実化する」というリスクがともなうが、ホリエモン問題、耐震偽造問題では露呈してきていると言われる。しかしこの社会の「ジャングル化」は止められないだろう。




下流社会


最近、下流社会と言われるが、「競争社会」と同じ次元にある。下層とは黙々と安い賃金で働くものだ。最近の下層はご託が多い。だから正規職員にせずに、入れ替えるのだろう。ここには、いつの時代の社会には下流がいる、「社会には下層となる誰かが必要である。」という端的な事実があるだけだ。

それが最近取り上げられるのは、今まではたとえば、貧しい家庭は子供の教育も不十分で、中卒で働くに出すという、下層は下層だという暗黙の前提があった。これはこれで、当たり前とされていたわけだが、中流の時代を経て、誰が下層とするのかとなったときに、フリーターやバイトなどの中流出身者である人々が下層に「落ちぶれた」ことからの、ある種の同情として、語られている。

誰かが下層になるのは、資本主義ということでなく、社会そのものの構造だろう。だから誰かが下層である、ということはいままでも、これからの変わらない。民主主義は、生まれながら下層をなくし、入れ替え制のチャンスを与えるシステムである。しかしドラゴン桜では、「大学受験だけが一生で唯一、努力さえすれば誰でもチャンスが得られる機会だ」というセリフがあったが、いやなら努力するしかない。それが「競争社会」である。




③ジャングル化社会(不確実性社会)と競争社会


しかし「競争社会」とは、「ジャングル化」の一面でしかない。たとえばなぜいま人間が栄えているのか。それは恐竜が滅んだからだ。強者である恐竜がなぜほろんだのか。環境が激変したからだ。隕石の落下?で気温が急激に下がった。その環境では、弱者だったネズミ(ほ乳類)が強者になり、進化して人間が生まれたのだ。ジャングルは強者、弱者の競争場だがが、その環境がこの先どうなるかわからない。「ジャングル化」する社会とは、競争社会である前に、「不確実性社会」だ。

「ジャングル化」した社会では、流動性があがり、偶然性が増え、なにが正しく、何が間違いか不明確で、各自がそれぞれリスクをもって生きる社会である。それは当然、経済格差社会を生むし、勝ち組、負け組を生むだろう。今まで、「なんとなく総中流的」を守っていた「社会」は解体され、「なんとかなるだろう」意識は、挫折させられるだろう。

もともとも社会には格差がある。民主主義的平等とは、格差を均質化するものではなく、平等に競争した格差を認める社会であることが、ありありと現れるだろう。どの時代において、負け組や下流層は必ずいた。そして、「なんとかなるだろう」では、負け組になる可能性は高い。

しかし「ジャングル化」(不確実性社会)を単に「競争社会」ととらえると本質を見失うだろう。このような「競争社会」とは資本主義ゲームの上に成り立っている。勝ち負けは、多くにおいて物質的な豊かさという価値によって図られる。ジャングル化社会での勝ち組の所作とは、「サバイバル」することが目標である。現在の不確実な社会では、貨幣を取得すること、社会信用を得ることが、生き残る可能性を高めるが、それで確実に勝てると保証されないからだ。

サバイバルにおいては、「攻めるか(立ち向かうか)」「守るか、(頭を低くしてより保守化するか)」の選択だろう。保守化とは、ジャングル化した社会での一つの生き方だ。インテルアンディ・グローブパラノイア・イズ・サバイバル」と言った。「臆病者だけが生き残るのだ」ということだ。野生動物はみな臆病者である。昼は穴蔵に引きこもる小動物であるが、また百獣の王ライオンでも同様だ。たえず回りの環境に敏感でなければならない。まさにサバイバルの極意だ。そこまでして生きたくないのではなく、そこまでしないと生きられないのが、ジャングル化する社会なのだ。




④欲望の不可能性


ただサバイバルすることが重要になり、テクニカルに生き残ることが求められる。そこでは「私とはなにか?」という欲望することは困難になっている。欲望は社会への反抗によってなりたっている。「好きにしろ」という環境圧へは反抗は成り立たない。

欲望とは隠すことによって想起する。見えそうなミニスカートの中であり、性の対象としてはいけない幼児であり、そこになにかがあるわけでなく、隠されることで、現れる。この隠すとは社会である。社会があり、その禁止によって、欲望が生まれる。

ジャングル化した社会では、社会の底が抜けて、世界があらわになる。そこでは、欲望は、隠されることを欲望する。禁止されることを欲望する。盗んだバイクで走り出すとは、禁止されることを欲望し、走り出すのだ。そこでは禁止としての「死」を近接するのである。ジャングル化する社会では、究極的には「死」さえも禁止されない。そこでは、もはや欲望することが困難になる。

さらに、ジャングル化社会では、素直な執着は危険である。だから、熱いもの、ウエット感は暑苦しい、マジ、かっこわるいと最近では「欲望」は嫌われる。逆にライトは、シニカルなスタンスが好まれる。その不確実性を理解していれば、執着は回避されるだろう。アイロニカルで、シニカルで、クールな姿勢が求められる。




⑤欲望社会


しかし欲望が回避されるから、欲望がなくなるわけではない。それ故に、作動しているのは、まさに欲望の原理そのものであるといえる。たとえば、フリーター、ニートは、無気力と言われるわりには、自分らしさにこだわる、すなわちより欲望深い面があると言われる。では、欲望深い人々がフリーター、ニートになったのか、あるいはフリーター、ニートになることで、欲望深くなるのか。ボクは、フリーター、ニートになることで、欲望深くなる傾向が強いと考える。

しかしそれは一つのデフォルメであり、「無気力なのに実は欲望的だ」という「面白さ」である。それは勝ち組が欲望的であるのは当然である、ということと隠している。ここに見られる傾向は、人々がなおも、いや欲望が難しく、隠されている故になおさら、欲望論によって動いているということだ。さらに隠されているのは、不確実性社会における本当に目指されるものは、「(無垢への)欲望」である。すなわち「この私そのもの」という充実である、ということだ。

逆にいいえば、欲望の困難が欲望を加速し、歪な形で表出している。「サバイバルのために保守化する」ことは、シニシズムへ向かっている。欲望は現前化することができない。この環境圧に負けて、か弱い夢を語ることは滑稽であり、許されない。みなが「どうせおれなんか」と、シニカルに向かう。

欲望は難しくなり、よりきわどい禁止へ向かうことによる、ロリコン、幼児殺害、リスカ、自殺願望など。はけ口がより匿名へ、弱い者へ、より集団化へ向かう2ちゃんねるの誹謗中傷。そして勝ち組であったはずの、ホリエモンの過剰性はその他の何であると言えるのだろう。ジャングル化した社会では、生きることに対して姑息であらねばならない。匿名で愚痴をこぼし、弱い者イジメをする。

すなわちジャングル化(不確実性)に、いきなり社会が野性に戻るわけではない。社会的な豊かさは維持されるだろう。では、サバイバルにおいて賭けられるものが生存するための「生死」でなければなにか。「プライド」を賭けた生死のサバイバルである。

それは「欲望の充実」を目指すサバイバルゲームである。ただ欲望は他者の欲望としてあり、「この私そのもの」という充実とは他者の承認であるために、それはあたかも、物質的な豊かさを賭けた「競争社会」の姿をしているのだ。




⑥なぜ「負け組」なのか


動物化などといってまったりするというフリーター、ニートは、ジャングル化からの逃避である。彼らはサバイバルしていない。たとえば彼らは打算的にニート、引きこもりをしているなら良い。お金持ちのボンボンが親の財産で遊んで暮らすというのは、古くからあることだ。しかし彼らにはそのような打算も、サバイバル意識もない。ただ逃げているだけだ。途中で社会にでても負け組であり、親が死んだら、路頭に迷う。

彼らの親が社会に厳しさをしらずに、ある意味で幸福な社会を過ごしたために、子供が引きこもることの深刻さがわからずに、甘やかしている。彼らはそのような気分のままで、生きている。いつの時代にも下流、負け組というのは存在し、冷静に考えれば、もはやそう生きるしかないのに、サバイバルせずに逃げているのだ。

そして彼ら「なぜ生きなければならないのか」というだろう。そんな必死にサバイバルする必要などない。ということだ。しかしいくらなんと口で言おうが、人は「生きたい」から生きているのではなく、すでに生きつづけるように、生きているのだ。そして、「なぜ生きなければならないのか」「死んでやる」こそに欲望的な言葉であり「本当は生きたい」という意味以外になんだろうか。

あるいは、「世間でなく自分の価値を目指しているのだ。それぞれのやり方がある。」という、いつものいいわけが現れる。確かにジャングル化では必ずしも「競争社会」は成り立たない。人それぞれの目指すゴールが異なるからだ。そのような意味では、ニート、フリーターは確かにこの相対主義が、不確実性の特徴でもある。

しかし欲望を充実されるというサバイバルにおいて、彼らは不確実性な環境圧からも逃げている。彼らの言う「世間でなく自分の価値を目指す」というのは、「競争社会」で勝つことに比べられないほどに、とんでもなく困難なことなのだ。

下流社会「競争社会」が隠蔽しているものは、あたかもみなが同じ物質的豊かさを競うゲームをしているように見せかけていることである。そして彼らがその「下層」を演じるおかげで、物質的豊かさが幸せであるという幻想としての「競争社会」は存続し、みなが安心して「社会」に帰属することが可能なっている。だから彼らが「負け組」であるのは、物質的に豊かでないからでも、競争社会に負けたからでもなく、自ら、「競争社会」という幻想の「負け組」という位置に依存しているからだ。

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