「生と死」の断絶と解体と救済

pikarrr2006-02-07

「力としての生」「知としての死」


生と死において重要なことは「個」ということだ。たとえば、僕たちの内部では今も多くの細胞が「死んでいる」。しかしそれこそが僕たちの「生」を支えている。ここでは、「細胞」「個」と考えると、細胞は死んでいるのであり、僕を「個」と考えると僕という個を生存させるための新陳代謝である。

「死」とはなんらかの「個」を決定し、停止することである。人間の「死」とはなにか。明確には医学的な「脳」の停止でしかない。すなわち「死」には「個」を決定する認識者を必要とする。だから「死」「百科事典的な知」である。

それに対して、「生」の根元性は、「個」の決定以前、認識者の存在以前に、すでに生きているのである。すなわち「生」「個」に縛られない。たとえば「蟻の生」とは蟻一匹であるかもしれないし、蟻塚そのものであるかもしれない。それは、認識者が決めることであって、「生」そのものはただすでにそこに「力」としてあるだけだ。

すでにそこにある「力としての生」はただ懸命に生きている。そこには、「死」など存在せず、「生」そのものに生きることの「緊張」は内在している。「生」とはただ生きことではなく、「すでにそこにある力」である。それは「環境」という「終わりなき負の力」、進化論で言う自然淘汰、以上の力がなければ、「生」は存在しえないからだ。




生と死の転倒


このように「生」とは個に還元できない全体的状態であるのに対して、「死」はどこまでも「個」の設定を必要する。そして設定するのは現存在である人間でしかありあえない。だから「個」の設定は、「私」という個人であり、私はいつか死ぬ、そして死とはどこまでも個人的な事柄である。今日死ぬかもと言う自覚が自分の意味というもの、その責任を個人へ還元する。

生が「すでにそこにある力」であり、死は「百科事典の知」であるが、死を根源的なモノとすることによって、個人、すなわち「人間」というものの特別性を保証する。この転倒こそが西洋思想の根底にある動物/人間の断絶であり、人間という精神の特別性である。そして「力としての生」は動物的な、野蛮な、過剰なものとして排除される。




「生と死」の解体


この転倒を指摘し、形而上学批判を行ったのがニーチェである。プラトン以後の死の重視という転倒に対して、それ以前の生の思想への回帰をさけんだ。それが力への意志である。そしてニーチェの時代がダーウィンの時代だったのは偶然ではない。進化論は基本的に「生の思想」であり、ニーチェの根底にあるだろう。

しかし進化論の射程は、ニーチェ力への意志に留まらない。進化論および科学の思想とは、生と死の思想そのものの解体であ。それは「偶然の思想」である。この世界にはなにものの「意志」もなく、ただ全てが偶然である。力も偶然のものであれば、死も偶然のものである。自然淘汰ダーウィンの進化論のラディカルさであり、科学全般の根底にある。

進化論関連が倫理的な問題になり続けているのは、この「人間」の解体にある。進化論は人間への止揚ではなく、生命種の多様化であり、人間は片隅の偶然の一種でしかない。

東洋では西洋と逆に「生の思想」を受け入れてきた。たとえば日本人の個への曖昧さは、自然崇拝、多神教的にあらわれる。個というものは強い個人でなくこの世界のあらゆるもの「好き勝手」に設定し、すべてに神が宿るという個の曖昧な調和世界観にあらわれている。東洋における「生の重視」は、個よりも集団の継続が重視され、個の死さえも集団の部分、たとえば忠義とされる。そこにも「偶然の思想」の波は押し寄せて、「集団」を解体している。




「生と死」の救済


このような「偶然の思想」は、様々な差異を解体する平等の思想(リベラリズム)へ繋がる。しかし一方で、リベラリズムという倫理は、人間/動物の断絶に立脚し、動物を排除することによって、精神を持った「強い個人」としての人間の平等としてある。歴史的には人間/動物の断絶、精神をもつものともたないものの断絶によって、下層であり、奴隷が排除されることが正当化されてきた。現代では科学の発達によって、遺伝子としてその他の動物との断絶を保証された「人間」」という内部において、平等を唱う。

その意味で、現代のリベラリズムは、科学によって保証され、科学によって解体される。構造主義以降のポストモダン思想はニーチェの影響を大きく受けたとしても、保守的であり続けている。保守的であることそのものが現代の哲学の存在意義になっている。この科学のラディカルさをいかに活用し、「人間」を守るのか、それが現代の哲学の役割である。たとえばその思考の極限にあるローティのアイロニカルなリベラリズムは、もはや「解体の探求」「断絶の倫理」を別物として考え、その融合の試みを放棄し、断絶を受け入れるべきであるという。
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