なぜ「否定神学システム」を回避することは不可能なのか。

pikarrr2006-02-22

なにが外部へ排除(欲望)されているか


「グーグルの技術者たちが作り込んでいく情報発電所がいったん動き出したら人間の介在なしに自動的に事を成していく」世界である」*1というとき、この「人間を介なしに」という空想は、ボクが「機械論の欲望」と呼ぶものである。完全な世界=「システムに還元できずいつも邪魔をする管理し得ない消失点(断絶)が消失する」ユートピアという無垢である。

たとえばマルクス主義的空想も、完全なシステムを目指す。そしてシステムにはいつも不完全である。ということを隠すためのブルジョア(/プロレタリア)」という空想がある。人はいつもこのシステムの不完全な消失点に悩まされる。システムの消失点、予測できず、管理されない。それを隠すために完全であるがただ「邪魔する者」がいるという空想が現れる。

そこではなにが外部へ排除(欲望)されているか、ということだ。グーグルの「人間の介在なしに」で排除されているのは「人間」であるし、マルクス主義ではブルジョアである。このような空想をボクは「偶有性から単独性への転倒に神性が宿る」と呼ぶ。神的に保証される空想=「無垢」への(排除するという)欲望によって、「この私」という誰でもない唯一性の現実(リアリティ)、生きる実感が得られるという主体維持のシステムのある。




主体という否定神学システム


これは、デリダ(東)によって、否定神学だと批判されている。「この私」という単独性(一回性)を保証するためにこの消失点を単数とする。彼らの(郵便的)脱構築は、システムの消失点(断絶)を多数化し、無垢という空想を曖昧にする。たとえば、外部へ排除(欲望)されている「人間」ブルジョアなどを、それが違うものでもよい可能性を暴露し、宙づりにするということだ。

問題は、この否定神学「この私」という実感(リアリティ)実感を形成しているということである。確かにユダヤ人差別、嫌韓、特定人物の排除は悪いが、それによってその人はその人を支えているのである。そして同じシステムが、恋人を、好きな音楽を、様々な好みを特別であると思う(外部におく)ことと同じシステムの作動である。さらにはユダヤ人差別、嫌韓、特定人物の排除は悪い」というときにも、それはこれらを外部におくというシステムが作動してしまっている。すなわち逃げられないものなのだ。




動的な否定神学システム


ただこれが否定神学システムであるとしても、これは「動的な否定神学システム」である。すなわち空想は代謝する。同じ人を同じ強度で思い続けることはできない。そして同じ人を同じ強度で排除し続けることはできない。ボクはこれは「単独性から偶有性へ反転に神性は暴露される」。この否定神学システムにおいて、消失点は単一であるか、複数であるか、というよりも、強度としてとらえなければならない。

これは、否定神学システムとしての主体がどのような位置にいるかを示している。否定神学システムは主体という内部を維持し続ける動的なシステムとしてあり、その外部は秩序なき混沌である。外部はたえず内部を拡散しようとする圧力としてある。そして外部から否定神学システムの消失点(断絶)から、進入し続ける「混沌」を懸命に秩序化する。欲望とは、消失点から進入しシステムを拡散しようとする混沌」を、「単一な欠如」として空想化(秩序化)するという、内部を否定神学システムとして維持するためにあるといえる。




いかに安定して否定神学システムを作動させるか


脱構築はたえず否定神学システムの外圧としてある。そして現代情報化社会では、外圧は増している。ボクはこれを不確実性が増す「ジャングル化する社会」と呼んだ。そして「マイフェイバリットからマイブームへ」と言った。一生において見続ける「フェイバリット」な趣向、恋人、イデオロギー、信仰などの空想が、情報の氾濫によって、短期的な代謝が行われている。「最近のマイブームはなに?」という趣向の代謝が増している。

この中で問題は、否定神学システムである主体を主体として支える空想が拡散し、自己同一性が曖昧になっている可能性である。これが社会という空想を欲望する社会化でも、反社会化でもなく、「脱社会化」であり、そして動物化である。「脱社会化」の問題は、引きこもり、ニートなどで現れているが、さらに問題は一見「脱社会化」した主体が解体されつつある否定神学システムとして「安定」するわけではないということだ。それは、否定神学システムの「不安定化」として現れる。空想を見つづけることが困難であることの抑圧から、突発的に、過激な空想へ暴走することが起こっている。

問題はここにあるのではないだろうか。否定神学システムそのものが問題なのではなく、否定神学システムの抑圧が、否定神学システムを加速する。より過激な外部の排除に繋がる。脱構築否定神学システムを暴走させる可能性があるということだ。これがボクが「健全な無垢への欲望に健全な精神は宿る」ということの意味である。いかに安定して否定神学システムを作動させるか、いかに安定して欲望し続けるか、それが現代の「健全」である。




メタ言語はない」


だた当然、ボクの「健全な無垢への欲望」という言説そのものにも、否定神学システムが作動している「健全」による「不安定」の外部への排除という空想には、消失点の消失を隠蔽していることはいなめないだろう。否定神学システムをメタ位置から語るこの言説も、結局否定神学システムの内部にしかない。メタ言語はなく」、誰も否定神学システムを回避するのは困難であるのだから。

*2

*1:Googleはなぜ「世界征服」をめざすのか  http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060213

*2:画像元 http://joshinmaekawa.tblog.jp/