ラカンとデリダとボクと その2

pikarrr2006-02-19

固有名論


ラカンデリダの近似的な関係を見るために、存在論的、郵便的ISBN:4104262013)で重要な、固有名の議論を見てみよう。

エクリチュールとはコミュニケーションの脆弱さ、つまり誤配可能性一般を意味している。他方、「多義性」「散種」は、特殊性と単独性、確定記述の束とそれを越える剰余に理論的にはほぼ等しい。したがってこのデリダの命題は私たちの文脈では、コミュニケーションの失敗こそが固有名の剰余を生じさせると述べたものだと解釈される。・・・そこではもはや、命名儀式」の仮定は必要ない。むしろ命名儀式の唯一性が簒奪される可能性、その代理可能性、言い換えれば伝達経路の誤配可能性こそが固有名に散種を与える。クリプキは散種のこの郵便的構造を理解していなかったため、神話を必要とした。

私たちはここで、固有名の訂正可能性について語るクリプキの可能世界論と、伝達経路の脆弱さについて語るデリダエクリチュール論とを接合する理論的可能性について考えている。固有名の訂正可能性、つまり「幽霊」たちは経路の脆弱さから生まれる。その経路を抹消して主体の前にある(=現前の)固有名から思考するときにこそ、ひとは固有名の剰余、単独性を見出す。

存在論的、郵便的」P126-128

ここで示されているのは、固有名における確定記述の束とその剰余は、多義性と散種に対応する。そして剰余、すなわち散種とはエクリチュールの運動が多義性に還元された以上の可能性である、ということだ。このような考えにおいてジジェクの固有名論では、剰余は欲望の原因であり対象である対象a現実界の対応物)と考えられる。その問題は以下に、否定神学であることと、可能世界が抹消されていることとされる。

ジジェクにとって固有名の剰余もイデオロギーの<もの>性も、ともに現実界の対応物でしかない。・・・ジジェク的主体では、真実の「呼び声」はつねに主体のゲーテル的亀裂から、そしてそこからのみ響いていいる。・・・ジジェクの固有名論は、クリプキ固執した伝達経路の問題系を抹消していた。

存在論的、郵便的」P139-140

ここでの東の問題は、先にあげた、ラカンの欲望論の二重構図(デリダ的とゲーテル的)を、ゲーテル的なもののみに限定して理解している点にあるだろう。それは有名は、ラカン「欲望のグラフ(クッションの綴じ目論)」が 二階建て構造である。

ラカン対象aは、単に現実界の対応物としてのみあるのではない。対象aは偶有性を、クッションの綴じ目において、単独性ととして規定すること、すなわち多義性への転倒における不安を解消することにある。その対象に固有名を与えるのか、それが唯一なもとをするのかという無根拠性の不安を解消するために与える空想の産物なのです。すなわちこれで働いているのは、その固有名が他の対象でもありえた可能性を抑圧するという「転倒」であり、ジジェクの固有名論が伝達経路の問題系=可能性論を抹消しているわけではない。

すなわとラカンのこの二重構造には、デリダ的とゲーテル的脱構築に対応し、デリダの散種、「幽霊」に近い構造が含有されている。むしろデリダの固有名論では、その剰余を散種(誤配可能性)論のみで説明するときに、ジジェク的な指摘が見失われる。すなわち何ものが誤配可能性を剰余として抑圧し、多義性を支えているのか。そこに働くのはゲーテル的亀裂であり、欲望の構造である。すなわち固有名という名指しそのものが、私の単独性を支える「社会」を支えているのである。アリストテレスアレキサンダー大王を教えた」というシニフィエの成立、そして間違っているかもということを知っているがそれを隠蔽することが、私たちの社会という幻想の成立を支えている、ということである。




署名可能性


存在論的、郵便的であげられる「署名」についても語ろう。デリダによると、署名は、偽造可能性を内包した、エクリチュールとしての「同じもの」の運動があり、それが事後的に多義性としての「同一特定人物」を成立させている。偽造可能性があることが、「同一特定人物」という多義性の成立の要因ということだ。

これをラカン的に考えると、エクリチュールとしての「同じもの性」は必要とされない。まずあるのは、署名というシステムが「同一特定人物」を保証するという規則である。すなわちそのような規則を成立させている社会が存在しているということだ。署名という規則そのものが、システムが成立すると信じることが社会を成立させる要因そのものになっている、ということだ。これはたとえば金でも良い。お金の価値という信用そのものが社会の成立を人々に信じさせているのだ。このようにそしてラカンは、この社会の成立の空想性を構造的に語るのだ。

だからラカンは素朴に偽造、偽札がないだろうなどとは考えているわけではない。偽造、偽札は、社会の不完全性として盛り込まれている。そしてそれは盛り込まれているだけでなく、その不完全こそが、社会を成り立たせようと人々を向かわせている要因となっているということだ。社会悪という外部があることが社会という内部が成立しているという空想を強化させているのだ。

デリダはこのラカンの論理において、社会の不完全性へ問題を還元することを否定神学と呼ぶ。しかしデリダ脱構築というときに、デリダが署名は、偽造可能性が多義性の成立の要因であると暴露するとき、すなわち脱構築において、署名を成り立たせている「社会」の空想性そのものを暴露するのである。これはそのまま、ラカンの社会の成立のリバースになっていることがわかる。




翻訳可能性


ここで、デリダのいう「署名」におけるエクリチュールとしての「同じもの性」はなんだろうか。さらに翻訳可能性の議論を考えてみよう。二つの言語圏があるときに、その翻訳はいかように可能なんだろうか。

たとえば英語しかしらないひとは、犬と「dog」の結びつきの恣意性を知りようがない。その恣意性をひとが認識するのは、同じもの(犬という観念)が英語とドイツ語で違う名で呼ばれるからだ。では、ひとはいかにして二つの言語(ラング)を比較するのだろうか。ここには実は重大な逆説が潜んでいる。・・・二つの言語(ラング)のあいだには、「同じもの」はありえないが、逆に「同じもの」がなければ二つの言語(ラング)そのものがない。恣意性の観念は実は、このようなアポリオリのうえに成立している。・・・散種は単数の「同じもの」の運動がら生じ、多義性は複数の「同一性」の集まりとして与えられる。

存在論的、郵便的P34-37

ラカン的には、翻訳可能性は、異なる言語(ラング)を一つの翻訳可能であると錯覚するところから始まるだろう。すなわち二つの言語圏を一つの大きな「社会」と錯覚することである。同じ内部であるから、同じ規則をもっているだろう、すなわち「コミュニケーション可能性」という錯覚だ。たとえば少し前にバウリンガルという「犬語翻訳機」というオモチャが発売されたが、ここでも同様に「コミュニケーション可能性」という内部の錯覚を元にしている。犬と人が言語コミュニケーション可能?という疑問はあるが、たとえばかつて黒人奴隷は同じ人間ではなかった。すなわち「コミュニケーション可能性」な内部ではないということで、容易に奴隷化として排除されたのである。

後は、「署名可能性」と同じである。たとえば社会的に保証された「コンピューター」というもの(意味)があり、それをPCと呼びこともあれば、パソコンと呼ぶこともあるように、異国語である「computar」を並列に並べるだけだ。「二つの言語(ラング)のあいだには、「同じもの」はありえないが、逆に「同じもの」がなければ二つの言語(ラング)そのものがない。」という翻訳のパラドクスは、このような「コミュニケーション可能性」という錯覚、それはまずはじめに「他者とコミュニケーションしたい」という欲望があることによって支えられる「社会」という幻想によって可能になっている。だから翻訳は多々失敗し続けるだろうことが、「他者とコミュニケーションしたい」という欲望を想起し、内部を強化するのだ。

このような構造は、ネットコミュニケーションそのものを支えている。

ネットコミュニケーションのパロリチュール(文字会話)では、テキストベースでコミュニケーションされるために、伝達される情報量が少ない。さらに、多くが匿名の他者であるために、特に相手の情報が決定的に欠落している。それは、書かれた文字そのままのコンスタティブな意味が伝わるが、メタレベルの「まなざし」が伝わりにくいことを表している。

このような「人格消費」の困難は、「暗闇の跳躍」をより困難なものにして、ボクたちは宙づり状態におかれる。そしてこのような宙づり状態を回避するために、ボクらは懸命にその「真意」をとらえようと、問いかける「キミは誰?、どのような気持ち?」と。

しかしそれほどまでして、「なぜコミュニケーションするのか」、ということがある。・・・ネットコミュニケーションでは、「なぜコミュニケーションするのか」、ということが純化される傾向がある。すなわちなにかを情報を伝えるために、宙づり状態を回避するのではなく、宙づり状態を回避すること、「人格消費」することそのものが、欲望されるのである。・・・「ネットコミュニケーションは楽しい。」だからみな、ネットへ向かうのである。より困難であるはずの、ネット上の「暗闇の跳躍」が成功したように感じた時が、誰にでも経験があるだろう。それは社会的な慣例的な関係を越えて、「真意」を交換したように感じる。これが「ネットコミュニケーションの快楽」であって、ネット中毒が起こる要因だろう。

なぜネットコミュニケーションは必ず失敗するのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050630

ネットコミュニケーションでは、テキストベースでコミュニケーションされるために、伝達される情報量が少なく、意味の宙づりされつづける。その失敗という「内部の裂け目」(享楽の核)こそが、またその不安こそが、「他者とコミュニケーションしたい」という欲望を想起し、「他者とわかりあえる」という「内部」を強化しようとするのだ。
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