「断絶」を閉じる欲望が「断絶」を開く
精神と身体の「断絶」
ラカンのネオテニー(幼形進化)はフロイトから来ているものでしょ。人間は早熟で生まれ、統一した自我を持たないために、生まれた後に他者像(鏡像)によって統一的な身体像(自我)をもつ。これによって人間はそのはじめから自分を他者へと疎外されている。そしてそれを取り戻すために、欲望は他者の欲望である。ここに他者との「断絶」があります。そして、動物と人間の断絶があります。
さらにラディカルには、ラカンは「性関係は存在しない」といいました。人間は動物のようにアプリオリな生殖のための性関係を持つことはできない。
また精神分析的な、パラノ/スキゾ(神経症/精神病)は、オディプス/アンチオディプスということでしょ。精神分析では、人間はみな神経症です。それは、社会的な去勢(オディプス・コンプレックス)によるものです。そしてここから欲動(生物的な力)は、「死の欲動」(フロイトの「快感原則の彼岸」)と言われます。
ラカンでは精神病は、父の名(象徴界)の排除と考えられます。ドゥルーズの「アンチ・オイディプス」も、それに繋がります。去勢以前に人間には原初的な器質的な欲動(生の欲動)がある。ドゥルーズの「器官なき身体」は精神病という病気ではなく、去勢される前の本当の生命の力ですね。ここには、死/生が断絶があります。
精神と身体、人間と動物、死と生の「断絶」の問題です。それを「象徴界」、「ミーム」、「クオリア」などで繋ごうとする。ここに心身(心脳)問題があります。これは、人間の倫理的ものも含め、西洋哲学が維持している「断絶」です。そしてたとえばフロイトはデカルトを継承して言うというように、精神分析も同じ「断絶」を維持しています。
これに対抗するのが、進化論の系統です。進化という連続性が「断絶」を解体する。だからダーウィンは進化論の公表に尻込みし、そして公表によって大きな社会的な問題になった。科学は進化論の系統にあります。認知科学、心理学。科学では唯一、精神分析が「断絶」と継承しています。
「断絶」による唯一性
この「断絶」の本質は、1回性(唯一性)と反復性です。動物とは違う人間、身体に還元されない精神、私だけが引き受ける一回性としての死とは、「この私」という代替のない一回性です。科学は、本質的に反証可能性という還元主義的です。たとえば心理学でも人間の1回性を扱うのでなく、統計学的に行動をあつかう。統計学的とは、同じ単位が多数存在することを前提にしている。たとえば身体について、同じ身体が多数存在していることから、医学、認知科学は成立する。
しかし精神は、代替がきかない、そして同じものはなく、ただ一つなのです。精神分析はなぜ精神分析学ではないのか。人間を扱うと言うことは、一人一人、1回1回が唯一なのです。そして科学は唯一性を扱うことができない。「この私」と扱えない。そして科学が人間を扱うときに、「この私」を多くのうちの一人に抑圧する。このことにセンシティブでなければならない、ということですね。
「断絶」を閉じる欲望が「断絶」を開く
ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の成立に、クリプキ、デイビットソンなどは「共同体」を想定しました。これはラカンの象徴界に繋がりますが、これは明確にある象徴界(社会)ではなく、神性(人々が共同体があるという信じること)によって保証されています。
この象徴界(科学大系も含めて言説、あるいは社会)には穴があります。ゲーテルの不完全性定理の消失点(断絶)、自己言及という「この私とはなにか」に答えられない。そして逆説的にこの答えられないことが、「この私」の存在を支えている。たとえば、ハイデガーではこの切れ目からの「良心の呼び声」によって、現存在の唯一性が支えられる。そしてラカンでは、対象aあるいはファルスです。象徴界から現実界へ開いた穴。これは否定神学システムと呼ばれます。
たとえば、みな懸命に統一した世界像を造ろうとしています。しかしその世界像は失敗する、なぜなら、世界像をつくろうとする人の唯一性、「この私は誰か」という穴はふさがらない。ラカン的には、「メタ言語は存在しない」。誰も俯瞰した、メタになった世界像を組み立てられない。ボクたちもその一部である。ということです。
この世界像の形成は、「断絶」を越えたいという欲望、「この私は誰か」という穴を塞ごうする欲望であり、それが神経症的な所作である。そしてこの「断絶」の本質(恐ろしさ)は、「断絶」塞ごうという欲望が「断絶」を開くということです。
*1:関連記事 東浩紀の「ポストモダンの二重構造」とその限界 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060117