なぜ親密なコミュニケーションは多数化するのか?

pikarrr2006-03-28

薄氷のコミュニケーション


昨日、「キスだけじゃイヤッ」*1の最終回を見ていましたが、ここにはとても赤裸々な人間の姿があります。恋人という親密な関係、分かりあう二人が、まったくわかりあっていなかった。親密な恋人関係は、わかりあっている振りでできている、ということです。これは最近の若者は打算的なつきあいしかできない。純愛はもうない。ととらえてはいけません。純愛も含めた親密な関係そのものの姿です。

恋人でも親友でもどんなに腹を割って話し合おうと、最後にぶち当たる壁があります。なぜわかってくれないのかと、絶望的になる地点。それは、むしろ日頃は分かりあっているようにふるまいます。そして、親しくなればなるほど、腹を割って話し合うとすればするほど、その「断絶」は口を開けてしまう。

これは、長年連れ添った夫婦のような関係でも変わらないと思います。長年連れ添った夫婦のような関係が作り上げるのは、「断絶の消失」ではなく、「断絶の承諾」ではないでしょうか。分かり合えないことがあるということを認め、その手前で儀礼的な関係に回復する。これを上辺のつきあいと言ってはいけないでしょう。まさに互いを分かりあうという姿だと思います。ベタな言い方をすると「親しき仲にも礼儀あり」ということです。

最近熟年離婚がはやりのようと、ボクなどにはわからない世界ですが、わかりあえないことを忘れたとき、「薄氷の上を歩いている」という「気遣い」が失われたとき崩壊するのかもしれません。




コミュニケーションの多数化


現代はむしろ「真の関係」を求めすぎている。それは、現代、社会的な礼儀が消失しつつあるためでしょう。「去勢」されずに、すなわち社会的にしつけされずに、子供のままに大人になるために、飽くなき「享楽」を求めてしまう。そして「断絶」の前で傷つき、「孤独」になる。

これに対処するためにいくつかの方法が試みられています。「真の関係」への欲望をモノへと迂回させる。モノへ興味とは、そのモノを欲望する人々との間接的なコミュニケーションです。ブランド品への興味は、ブランド品を欲望する人々との間接的なコミュニケーションの構築です。

最近では、モノという間接性よりも、より直接的なコミュニケーションへ回帰しています。それはネットコミュニケーションによるものです。ネットコミュニケーションによって、コミュニケーションチャンネル数を多数化することが容易になり、多くの友達、恋人をつくり、一人への過剰な思い入れを緩和する方法、あるいはどこかで破綻してもよいようなリスク管理がとられています。

少し前に、10人の女性たちと集団生活をしている自称占い師のオヤジが逮捕されました。*2あのとき若い女性へのアンケートでは女性たちが納得しているならよいのでは、という意見が多かったように思います。いまや多数交際する人はいくらでもいます。ボクもあの逮捕には違和感を覚えました。もしあのオヤジが若くて男前だったら逮捕はあったのでしょうか。