なぜ人間は笑うのか

pikarrr2006-03-30

ぴかぁ〜
恐怖と笑いは、同じ体験です。その違いは、いわば恐怖が個人的なものであるのに対して、笑いは集団的なものである、ということです。笑いはかならず他者への「同意」としてある、と思います。

考える名無しさん
恐怖と笑いは親和しいが、戦争は集団ですが、集団戦でも怖いようです。それとも、何かが無いにしても、集団を和やかにしたい現われである。集団戦でも、笑っていると、何かが無いので、狂気である。例えば、集団の立場が悪くなるので、怒ってみせたり、笑ってみせたりします。これは誰でも判っているけど、咎めもしないし、褒めもしないのです。

ぴかぁ〜
恐怖は集団戦でも個人として体験する。笑いは回りに誰もいなくても、「集団」として体験する。ということです。ポイントは「他者への同意」です。さらにいえば、笑いはアイロニーです。直接、体験するのではなく、体験を他者の目でみなおすというところに現れます。

ぴかぁ〜
フロイトの機知論は言語論でもあるのですね。なぜなら、笑いは恐怖のような(個人的)身体的な体験でなく、人間のみがもつ高等な社会性を円滑に運営するためのもの、「言語」を解した、社会性(象徴界)として体験です。

だから笑いはある集団への帰属していないと、笑えないということがが多々あります。ボクも少し前、アンガールズの何が面白いのかわからず、悩みました(笑)みんなが笑っているのに笑えないと、疎外感を味わいますね。

たまに子供にTVを見せないという教育熱心な親がいますが、学校での「話題」に乗れずに疎外を味わうでしょう。この「話題」とは情報であり、知っている、知っていないですが、それだけでなく、いまみなが共有しているアイロニーの距離感」、どの程度のメタさが今面白いのか、ということでもあります。それは、「空気」を読むことができないことであり、いじめられたりするのではないでしょうか。

考える名無しさん
私もアンガールズがなんであんなに面白いのか分からずに悩みました。死や老いをテーマに笑いを取る綾小路きみまろさんが、なぜ高齢者に受けて、若者に受けないのかは、ぴかぁ〜さんの言う、恐怖=個人、笑い=集団でよく理解できますね。高齢者の方が死や老いの恐怖を身近に感じてますからね。

ぴかぁ〜
そうですね。綾小路きみまろの笑いも一歩間違えば、高齢者蔑視でヤバイですね。現に毒舌過ぎて、受け入れられなかった時代もあったと聞きます。笑いは、絶えず非難されることとスレスレのところにあります。

そこには必ず、これは笑うモノだというみなの「受け入れ」「同意」が必要です。そしてそれに「同意」できない人々もいます。だから新しい笑いは、いつも大人には笑えない醜悪なものからはじまりますね。HGもよくみなの「同意」を得たものです。

考える名無しさん
昔、桂枝雀さんが笑いを数学的に分析してた、ここがこうなってギャップができるからとか、色々言ってたけど、結局何だかよくわからなかった。結局生理的な物だと思うわけです。

空が青くて気持ちがいい、空気が澄んでてすがすがしいとか、それをコメディアンは色んな方法で表現しようとしているんじゃないでしょうか?きみまろさんは、絶望をうまくかわして本当のことを言いながらも人間の情を無くさないまま酷いことを言っているし。アンガールズは見るからにダメっぽい二人がダメながらも普通というか、かっこよくさえ見せようと真面目にやっていて、ダメでもキモクても人生投げてない。そのパワーが人をリラックスもさせ、元気にもするんじゃないかとソウ思うわけです。

ぴかぁ〜
枝雀はボクも好きでしたが、笑いを数学的に分析していたは、真面目すぎる彼らしいエピソードですね。真面目すぎて、自殺しちゃいましたね。「笑い」という生き物を、管理し捕らえようとしすぎたのかもしれませんね。

人間の情を無くさないまま酷いことをいっているか、酷いことを言い過ぎてるかは主観であり、その主観は、その集団の同意(フロイト的無意識=象徴界)によって決まるわけです。少し時代が違うと、毒舌過ぎて笑えないことは十分にありえます。

だから、なぜいまその「ギャップ」が面白いとみなに同意されているのかは、誰にもわからないでしょう。いわばクオリアと同じで、その起源にはさかのぼれない。

ぴかぁ〜
ただ、笑いは狂気の裏面、恐怖のの緩和という面も大きいですね。「あとになれば笑い話になる」と言いますが、恐怖、苦痛の体験も、後に友達などとの会話で笑い話にします。これは、それぐらいに体験が客観的に見られる(他者の目でみなおせる)ようになったということですが、また積極的に、客観的に見ようする行為である、といえます。無意識に抑圧されていたものが、「他者との同意」によって、緩和する行為です。人は自分の失敗談を誰かに話して、笑い話にすること、それを笑いとして同意してもらうことで、内部に溜まり続けている緊張を緩和することがあります。

これを逆にいうと、いま人々がなにを面白いと思うかは、今人々が潜在的になにをストレスに感じているか、恐怖を感じているか、と大きく関係していると考えら得ます。きみまろが年輩の人たちに受けるのは、先ほど指摘のように「高齢者の方が死や老いの恐怖を身近に感じて」おり、その恐怖を積極的に笑うことで、緩和する役目があると考えら得ます。

たとえばなぜアンガールズが受けるのか。アンガールズの典型的なコント設定に、教える人と教わる人の規律の関係のはずが、教わる人が教える人を舐めているだけでなく、教える人もそれを受け入れている「友達のようななれ合いの関係」である、ということがあります。

これを反転させると、アンガールズを笑う人の「恐怖」は、「友達のようななれ合いの関係」であるのかもしれません。特にアンガールズは女子高生などの若い女性から人気が出ましたが、彼女たちの「友達のようななれ合いの関係」に潜む、本当は分かりあっていないのでは、という恐怖かもしれません。

アンガールズが見せているのは日常に潜む「薄氷のコミュニケーション」という狂気であり、それを緩和するように笑うのかしれません。

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*1:本内容は、2ちゃんねる哲学板「笑いとはなんか」スレッド http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1143641010/からの抜粋です。ただし内容は必要にあわせて編集しています。

*2:画像元 http://mic.e-osaka.ne.jp/kamigata/dendou/profe/rokkai.htm